第2話

「おじいさん!おじいさん!」

遠くから婆さんの声がする。心なしかはしゃいでいるような。

「ここだ。家の裏だ!」

ここしばらく、ばあさんがこんな嬉しそうな声を出すのは聞いたことがないと記憶をたどる。何か良いことでもあったのだろうか。

最近めっきり動かなくなった足に力を籠めて声のした方へと歩き出す。

今にも崩れそうなボロの我が家の角を曲がると、丁度ばあさんが家の前の畑の脇道を抜けて家の前に辿りついたところだった。

はて、知らない男がいる。客人なんて珍しい。

「ばあさん、あまりはしゃぐと怪我するぞ。もういい歳なんだから、小さな怪我が命とりだ。落ち着きなさい」

そう声をかけるが婆さんの上気した顔を見て、落ち着かせるのは無理そうだと悟る。ばあさんは、ばあさんじゃなかったころから、落ち着きのない性格だったから。

「じいさん!神様ですよ!」

「はい?」

耄碌し、耳も遠くなった。ばあさんの言ってることがわからない。

「最近だいぶ耳も遠くなってしまって……。何だって?」

「だから、神様ですよ!」

思いもよらないことを言ったりしたりする婆さんだったが、今までで一番思いもよらない言葉がその口から飛び出すのをはっきりと聞いた。

「え?」

違いますって!とそのお客が必死に言い募っている言葉が空虚に響いた。


そのお客は実に不思議な人だった。

中肉中背で年の頃は二十歳前後だろうか。すらりとした手足に痩せた体。その上に小さめの頭が乗っていて、困惑した表情を浮かべた口数の少ない男だった。まぁこのなんともいえない表情と口数の少なさはばあさんのせいだろうとは思うが。いつだって自分の考えや気持ちを一気呵成に浴びせかけるのだ。

ばあさんから上座に座らされ、白湯の入った湯呑を渡された青年が、行儀よく座っている。その態度は一見すると全く普通の、害意のある人物のようには見えなかった。長く生きているとある程度、どんな人物なのか判別ができるようになるというものだ。その点では、ばあさんも人を見る目がある。そのばあさんが心を許しているのだから、まぁ悪人ではないのだろう。

その恐縮しきりという風の青年は、やはり外見同様に髪色も普通の茶髪で、どこかその辺を歩いていてもあまり気にされないだろうというごくごくありふれた見た目であったが、その目はこの辺では見たことのない珍しい色をしている。見つめていると心が落ち着くような、不思議と優しい琥珀色をしていた。

この普通の青年を一転不思議な人物にしているのは彼の言葉だった。言葉が古すぎるのだ。

ベルビル語だと言うのはわかる。けれど、言葉の端々に聞き取れない単語がまじっている。訛りなどではないだろう。聞きなれない表現、共通する言葉、意味が私たちとは異なっているらしい単語が、穏やかな声にのってその口から出てくるのを聞くと、なんとも不思議な気がする。

発音も何か仰々しいような気がして、けれど外国人が覚えたベルビル語というには流暢に言葉が紡がれて。不思議だ。

そして、どうやら彼の方も私たちの言葉に困惑しているようで、私たちの言葉を聞いてかみしめるように繰り返したりなどしていた。

ばあさんなんかは青年の話すこの古い言葉に、ますます興奮して、さらに恐縮し、私にもっと青年を敬うよう怒り、かいがいしく世話を焼くのだった。

私はばあさんの青年にたいする数々の世話の合間にどういった経緯で彼をここへ連れてくることになったのか尋ねった。

そして、ばあさんの支離滅裂な説明によると、裏山のあの祭壇の扉から出て来たらしいことがやっと理解できた。なんの冗談かと思って幾度も繰り返し聞いて、ばあさんが臍をまげてしまったので、仕方なしに件の祭壇まで行ってみると、果たして本当に扉は開かれていた。信じられない。

あの祭壇の扉は私のひいじんさんのさらに前から存在し、村の誰もが、開こうとして開けること叶わなかったという逸話のある扉だ。過去にどこかの偉い人が来て扉を魔法で破壊しようとしたが果たせず、それ以降放置されているという曰くつきの遺跡と言ってもいいものだったはず。

あの中から出てきた?どのくらい長い間あの中で過ごしたというのか。その割には若い。まだ二十歳そこそこ、場合によってはもっと若いかもしれない。わからない。

にわかには信じられないが、ばあさんの証言と扉の解放という状況証拠から、このいたって普通そうな青年が、存在自体からどうやら普通ではないということがやっと私の頭でも理解できた。

これは、どうしたらいいのか。

村長に話すべきか。

「その神様というのはやめていただきたい」

「それでも神さま!大変ご無礼であるとは思いますが、私どもはその恩名を存じ上げません!お名前はなんと申されるのでしょうか。いやいや、貴き方の真名を私どものような卑しい者が尋ねるなど、あってはならないことですよね。ご無礼をお許しいただければ幸いでございます。であれば、どうか仮の名を私どもにお教えいただきたく、畏み畏みお願い申し上げます!」

なんかすごい話になってきたぞ。

私が必死に考えを巡らせている間に、すぐ横ではばあさんがもうこれ以上ないというくらいに畏まってしまっている。けれど、言葉数は増える一方なのはさすがとしか言いようがない。

この言葉数の多さに根負けして結婚したのだったと、ふと思い出した。


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あれよあれよという間に共同生活が始まってしまった。

というのも、長い眠りの間に言葉がだいぶ変わってしまったようで、上手く意思疎通ができないことがわかったから、何をするにもまず言葉遣いを変えないとこの先やっていけないだろうという思いがあったことと、強くおばあさんに引き留められたせいもある。

おばあさんの伴侶であろうおじいさんは、曰く言い難い表情を浮かべてはいたが、どうやら敵意はないようで、しぶしぶと言った体で、でもおばあさんの意見を尊重して、僕をこの家に置いてくれるようだった。

どこに行ったらいいかもわからず、特に果たさなければならない使命も、やりたいこともなかった僕としては、新しい生活になれるという意味でも、そして大きくは、人恋しいという意味で、彼らの好意に甘えることを自分に許す外なかった。

おばあさんが呼び名を教えて欲しいというので、素直にユージンだと本名を名乗った。

彼女は大いに喜んでくれて、甲斐甲斐しく僕の世話を焼こうとしてくれたけれど、どうみたってご高齢。機敏には動けず、力も弱い彼女らに、僕の世話をさせるのは忍びなくて、ここでの生活に慣れる必要があると説得し、逆に彼らの世話を申し出た。

最初は渋っていたお二方も、僕の申し出を受けいれると、今度はあれやこれやと色々なことを教えてくれた。

残念ながらどのくらいの間眠りについていたのかは、知ることができなかったけれど、国としては当時からずっと滅びることなく王家が存続しているらしいことは分かった。しかもいくつかの国を飲みこんで、帝国と呼ばれているとか。

当時、自分が眠りにつく理由となった大災害をこの世界は上手く生き延びることができたらしい。あの石室の周りが森へと変わってしまう程度には長い年月がたったのだ。

優しい彼らとの生活は本当に心温まるものだった。

村の外れ、森との境界にあるという家は、ひどく痛んでいて、彼らが裕福でないということの証左ではあったが、その心根は少しも卑しくはなく、卑屈でもなく、高潔でさえあった。優しさを体現したような彼らに、僕はいつしか恩返しをしたいと思うようになった。

力仕事は率先して手伝った。畑の世話や森に入って薪を集めたり、小川から水を汲んだりするのは僕の日課になった。おばあさんはそんなことはさせられないと、渋る様子を見せたが、僕の手伝いで今まで手をいれることができなかった部分までできるようになると、本当の嬉しそうな顔をしてみせてくれた。

僕の手は力仕事で汚れたが、その分だけ僕に生きる活力を与えてくれるような気がした。

おばあさんは竹や蔓などで籠なんかを編み、おじいさんは庭や山で採れたものとおばあさんが作ったものとをどこかへと売りに行くというように役割分担ができていった。僕はよそ者で、自分たち以外の目についてはよくないだろうという配慮から、しばらくは外へ出ることはなかった。

時折、彼らの知り合いがやってきて、僕を見てびっくりし、どこからきたのか、名前はなんというのかなどなど根掘り葉掘り聞いてくるといったようなことがあった。

そういうときは、おじいさんやおばあさんが僕には一言も話をさせず、上手く言い聞かせて返すのだった。僕はいつの間にか遠い親戚の子ということになっていた。

そうやって一年がすぎ二年が過ぎた。


僕はすっかりここでの生活になれ、言葉遣いもだいぶ改善され、周囲の人々と遜色ない程度に話をすることができるようになった。

村へ行くことも許され、僕は自由に行動できるようになった。

ただ、村へ行くと女の子から時折強い視線を感じることが多く、同時に男たちからなんとも言えない視線、時には敵意のような意味を含んだ目を向けられる気がして、自由にはなったけれど、あまり好んで人のいる場所に出かけるというようなことはしなかった。


僕が目覚めてから最も驚いたことは、魔法だった。

僕が眠りにつく前は、魔法は限られたものしか行使することが難しい技術だった。魔力自体は誰にでも宿っているものであったが、それを魔法という形、炎だったり雷だったり、或いは物を動かすといったものは、誰にでもできることではなかった。

けれど、今の人々は誰もかれもが、自由に魔法を使うのだ。竈に火を熾したりなどあまりに便利になっていて驚きを通り越して恐ろしかった。

なんでも今は学校というものが協会に併設されていて、初歩的な魔法や算術・歴史・文字などはそこで一通り学べるのだという。

強制ではなく自由参加なので、誰もが文字を書けるというわけではないようだったが、自分の名前くらいはみんな書けるのが当たり前で、火熾しや物の浮遊などの便利な魔法もまた誰もが使えるのだという。

僕は完全に時代においてきぼりだった。

だからおじいさんとおばあさんに文字や基礎的な魔法を習って覚えねばならなかった。当たり前のことができないというのは、良くない意味で人の関心を買ってしまうだろうことが想像された。僕は人に紛れて生きて行かねばならないのだ。そう強く諭され教えこまれて生きて来た。

おばあさんなんかは、僕に教えるのがよほどうれしいのだろう、できの良くない僕に根気よくなんども教えてくれた。そのおかげで、いくつかの魔法を身に付けることができた。

こんな日々がずっと続くと思っていた。

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