第10話

 慌てきったアスターは、祈るように両手を組んで、太く強い縄を作り出した。飛行するドラゴンの首の付け根に縄の一端を巻き、ローリエが掴みやすいよう瘤を作ったもう片方を足元に垂らせば、ぜいぜいと息を切らした彼が、ドラゴンの背に登ってくる。アスターと子どものドラゴンに挟まれる形で腰を落ち着けた彼は、くたびれた顔で頭を下げた。


「すまん。手間をかけた」


 彼の自重を支えていた両手は、十枚全ての爪が真っ白になっている。手の甲をさすり、再開した血流を助けているものの、なかなか色は戻らない。


「てっきり、逃げてくれたものとばかり……。どうして、ここまで追ってきたんですか」


 ローリエは、新顔に興味津々な、小さいドラゴンを片手でいなしている。口を何度か開閉させた彼の、言い出しにくいらしい様子を見てとったアスターは、寂しげに目を伏せた。


「やっぱり、あたしを、処罰するために――」

「それは違う」


 堅牢な獣の顔を押しのけた彼が、いつになく明確に言いきった。思わず肩を揺らした少女に、悪い、と言い添えた彼は、苦虫を噛み潰したような顔つきから、咳払いを使って空気を変えた。今のローリエは、至って真摯な眼差しで、アスターを見つめている。


「お前さんの目がそうなったのは、指輪について伝えるのをためらっていた、俺の過失でもある。それなら、次の暮らしが安定するまで、こっちで責任を取るのが筋だろう」

「でも、そんなことをしたら、教会のご意向に反するんじゃ……」

「こんな曰くつきを埋め込んできたあれらを、俺が好ましく思っている訳があるまい」


 眼帯を捲った彼は、精巧に作られた義眼を、瞼の下から覗かせる。緑色の瞳孔を認めたアスターが目を見開き、何度も瞬きを繰り返しているうちに、眼帯は再びローリエの左目を覆い隠した。


「こいつは、『悪魔の瞳』と呼ばれている、その指輪の同族だ。だから……そうさな。巻き込んだとか、迷惑をかけているだとかは、考えなくていい」


 少しずつ高度を上げていた生ける乗り物は、満足のいく地点まで浮上できたらしい。頬を撫でる風が和らいで、長さが不揃いなアスターの後ろ髪を、軽やかにたなびかせる。少女と向かい合わせに座った彼の黒髪も、結び目ごと後ろに流されていた。


「あまり言いたかないが、性別のこともある。歳食ってようと、男手を傍に置いていた方が、しなくていい苦労を避けられるんだよ」


 慎重に言葉を選んでいた彼は、そこで呼吸を一つつき、会話を区切った。いつの間にか雲が晴れていた、爽やかな青空が近いことに喜ぶ子どものドラゴンからじゃれつかれても、慣れた顔で焦らない。貧相とまではいかないものの、裕福さとは程遠い第一印象を与えていたローリエの、帝都の香りを感じさせる一面だった。


「なら、おじさま。あたしのやりたいことを、手伝ってくれますか」

「やりたいこと?」

「悪魔の正体を、調べたいんです」


 片眉を上げた彼は、黙ったまま耳を貸している。紛いなりにも司教である以上、「悪魔」が登場する章を含めた聖書の暗唱も難なくできるはずのローリエが、一介の庶民に過ぎないこちらの意図を汲み取ることを優先している。その態度が、アスターには嬉しかった。


「当事者になるまで、疑いもしなかったけれど……目の色だけで迫害されるなんて、やっぱり変だもの。勇者の伝説も、ほとんど御伽噺みたいなのに、悪魔の章だけは妙に強調して伝えられているから、話のモデルになった何かがあるんじゃないかと」


 口と頬にかかった自身の黒髪を、後ろで結ぶようにしてどかす。毎日触れてきた後ろ髪は、今や長さが歪になっており、しばらくお下げはできそうにない。


「勇者の一行が使った剣や杖は今も残っているのかと、昔、お父さんに聞いたことがあります。でも、その時は、はっきり『ない』と言われました。きっと、悪魔以外の魔物もそうなんでしょう」

「まあ、それは……その通りだが。お前さんの父親は、よもや教会の関係者か?」

「まさか! しがない細工師でしたよ」


 眉間の皺を深くした彼は、自前の無精ひげを人差し指の側面で撫でている。ローリエのこの癖は、何か考え事をしている時に出ることを、アスターは読み書きの授業を通じて知っていた。


「もし解明できたら、逃げたり隠れたりしなくても、誰もが平和に暮らせる日が来るかもしれない。おじさまは博識だし……きっと、悪い人じゃないと思うから、一緒に探して欲しいんです」


――それに、お父さんからの贈り物を、あたしは、憎みたくない。


 左右の指を互い違いに組み、腰元で握りしめた少女は、男に向かって深く頭を下げた。


「何年かかるか分からないし、伝説の真相なんてどこにもなくて、全部が無駄に終わるかもしれません。でも、どうかあたしに、力を貸してください」


 彼女の視界の隅に映る景色からは、喧騒は一つも聞こえない。暴動が収まっていないだろう出身地も、空から見下ろしてしまえば、他のどの土地とも見分けがつかない。ありふれた長閑な暮らしを想像させる、フェーブより小さな家々が、玩具のように並んでいた。


「……そんな頼み方をされたら、断れんだろう」


 ローリエは、アスターに向かって苦笑する。ぱっと顔色が明るくなった少女は、花が綻ぶような笑顔で応えた。


「ありがとうございます! なるべくご迷惑にならないように、頑張りますね」

「頼み込んできたかと思ったら遠慮して、忙しい奴だな」


 座り直したローリエは、作った拳を腰に押し当て、指の関節の角で凝りをほぐし始めた。四十代の身体には、今日の無茶が堪えたらしく、普段よりも猫背が丸い。彼はぼんやりと地上の風景を眺め、アスターは、白い太陽の眩しさに目を細めている。


「地上に降りたら、長旅の準備をしないとな」

「はい!」

「……念のため言っておくが、傷の手当てもだぞ」


 目を丸くしながら振り向いた少女は、仏頂面であらぬ方向を眺めているローリエに、思わず吹き出してしまった。


――やっぱり、優しい人なのね。


 アスターは、彼を軽蔑できなかった自分自身に対して、安堵からくる溜め息をついた。何かにつけて砂糖のような甘い言葉で褒めてくれた、実の父親とは似ても似つかぬ彼。それでも、少女は密かに、父親へ向けていた眼差しとよく似たそれで、ローリエを見上げていた。


「……それで、このドラゴンは、どこに向かっているんだ?」

「あはは、どこでしょうね……」


 船頭と舟を兼ねる魔獣は、伸びのある高らかな声で鳴いた。それに呼応するように、尾尻近くを陣取っているもう一体も声を上げ、いかにもご機嫌といった風情だ。地を這うようだった広場での威嚇とはまるで異なるその会話に、アスターとローリエは肩をすくめる。緑の目をもつ少女と司教は、しばしの間、あてどない青空の旅を楽しむことにした。

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