第2章 緑の記憶

第11話

 長身の彼が先に降り、その肩と手を支柱として借りた少女は、数時間ぶりに大地へ足を下ろした。


 西からの夕暮れを受け止める、草木が生い茂った山の中腹は、透き通った空気で満ち満ちている。つい先程まで空を飛んでいたドラゴンは、川で口を濯いだ後に、鱗の隙間にしぶとく残る異物を取り除き始めた。右目が潰された家族もまた、拙いながらにその作業を手伝っている。彼らから垂れた黒い血が、淡水に混ざって裾野へと運ばれていく。アスターとローリエは、翼を休めているドラゴンたちから少しく離れ、大きな岩が群れを成す段差へ腰を下ろしていた。


「はぁ……。まだ、足場がふわふわしている気がします」


 海に向かおうとするドラゴンへ、懸命に軌道修正を訴えていたアスターは、少しばかり声が枯れている。檸檬水がなみなみ入った水筒を「悪魔の指輪」で作り、ローリエにも一本渡すと、「便利なもんだ」と苦笑された。飲み口を右手で、革袋を左手で支えながら口に含んだ透明には、薄められた酸味と、ほのかな皮の苦みが同居している。すうっと鼻を抜ける檸檬の香りに一息ついた少女は、自身の項を軽く撫でた。そこは、黙した彼の視線が行きつくところでもあった。


「これ、目立ちますか? 長かったから、余計に変でしょう」


 出鱈目に切り落とされた後ろ髪は、元の長さのまま残っている部分もあれば、首の半ばでしかないところもある。特別こだわって手入れをしていたわけでもないが、これまで当たり前にあったものがなくなったことは、ほんの少し寂しい。


「短くしても構わんのなら、手当てついでに整えるぞ」

「……おじさまって、できないことはあるんですか?」

「できることしか、しないだけだ」


 傷口を洗うための水が入った桶と包帯、それから銀の鋏を彼に託せば、一段低い岩に降りた彼が、手際よく処置を始める。魔獣の熱で爛れた切り傷は、冷水にくぐらせるだけでも、じくじくと痛い。


 何度か洗浄を繰り返して、砂埃が水に混じらなくなった頃、今度はできるだけ長く浸けているよう指示された。アスターは、言われた通りに腕を水中に潜らせたまま、膝へ乗せた桶の水面に反射する、左右反対な自分の姿を眺めている。


「ふふ、床屋さんみたい。慣れているんですね」


 くすぐったそうに笑う少女の項から、また一房が掬われていき、鋏が入る。しょき、と小気味のいい音を立てた髪の端が、乾いた地面に舞い落ちた。


「さて、どうかな……」


 曖昧に答えた彼は、手を動かし続けている。節くれだった指が、時々肌に触れる。一人ではないと信じられる体温があることが、アスターには心強かった。


「実は、一度だけこの辺りに来たことがあるんです。お父さんに連れられて」

「その時には、旅行で?」

「はい。でも……お母さんの命日が近かったから、その寂しさの埋め合わせだったのかもしれません。馬に跨ったのは、あれが初めてでした」


 アスターが閉じた瞼の裏には、父に背中を支えられながら手綱を握った、在りし日が蘇る。栗毛の貸し馬は、母親不在の家族を乗せて、軽やかに蹄鉄を鳴らした。


「到着したのは、ひと気のない花畑で……あたしの名前の由来だと言って、薄紫の花を見せてくれました」


 今も残っているのかなあ、と呟いた少女は、それきり静かになった。近くの梢に留まった小鳥が、同族を探すための歌を奏でている。


 少女の後ろ髪は、顎の先ほどの丈に切りそろえられた。身だしなみを整えるついでに、小刀で裂いたり、風塵で汚れたりで忙しかったカートルからも、そっと腕を抜く。麻のシャツに、幅に余裕をもたせたズボン、革のブーツといった旅装束の一式を仕立てたアスターは、すっかり少年じみた風貌となった。肩掛け鞄も合わせれば、指輪で作った新しい道具も持ち運べる。少しでも目元に注目されないよう、仕上げに帽子を被ってしまえば、粗雑な人相書きなら欺けそうだ。夏の夜長に取り込まれた二人は、倒木の近くに起こした焚き火にあたっている。ドラゴンの親子は、今度こそ海原を目指して飛び立った後である。


「あのドラゴンたち、平和に暮らして欲しいですね」

「運良く無人島でも見付けられれば、敵なしだろうさ」


 火の粉を散らしながら燃える炎は、白から赤までのグラデーションで構成されている。指輪の力を使うたびに灯る、緑の火では得られない熱が、翳した掌に移るのも好ましかった。


「それで。お前さんはどうやって、悪魔について調べるつもりだ」


 膝元に肘をつき、脚の間で指を組むローリエは、正面に座るアスターと目を合わせた。揺らめく炎越しに見える彼の顔には、広場での騒動で培われた疲労が滲んでいる。


「俺が知っていることは、もう話した。蒐集された『悪魔の神器』は帝国内の教会で封印されているが、具体的にどの地域にあるか、は秘匿されている。遺物の悪用を防ぐためにな」

「身に着けているおじさまは特例、ってことですか?」

「まあ、そんなところだ」


 ローリエの左目に埋め込まれた、『悪魔の神器』のうち一つ、『悪魔の瞳』なる義眼は、今夜も簡素な黒い眼帯に覆われている。やや目立つという点さえ除けば、アスターのように髪のカーテンを下ろすよりも手っ取り早く、確実な隠蔽方法だ。


「それなら、教会に忍びこむのはどうでしょう。保管を任されている教会になら、何か資料があるはずです。どういった経緯で集められた、どんな力をもつ『悪魔の神器』なのかが分かれば、きっと成り立ちのヒントに――」

「あのな」


 名案と言わんばかりに、人差し指を立てて話すアスターを、ローリエが遮る。目を丸くしてそちらを見遣ると、眉を顰めて何事かを逡巡した彼は、組んでいた手を自らの額にあてた。


「……頼むから、死に急ぐような真似はやめてくれ。お前さんは今や、立派なお尋ね者なんだぞ」


 指をほどき、覆うようにして顔の全面を撫でおろした彼は、次に少女を見据えた。薪が小さく弾けて、振り出し始めの雨が葉に当たったかのような音が立つ。だらりと垂れた手の甲を、焚き火が明るく照らしていた。


「両目が緑色に変わって、解呪ができなくなった。この事の重さを、正しく理解しろ。お前さん自身が気にしなくとも、帝国には、『悪魔』は粛清されるべきと考える輩ばかりがうろついている。連中の根城である教会で、他の聖職者に捕まりでもしたら、どうするつもりだった?」


 アスターは、返す言葉が見付からなかった。考えるふりから入ってみても、真っ白になった頭では、単語が散らかってまとまらない。


――おじさまの、言った通りだ。あたし、知らず知らずのうちに、思い上がっていたみたい。


 たった一度、村での窮地を脱したからといって、次も上手くいくとは限らない。人の手によって編まれた物語とは異なる、台本や結末の用意がない、無謀な旅に出たのだ。慎重になるべきだとたしなめる彼の言は、どこまでも正しいものとして少女に刺さった。


「ごめんなさい。そこまで、考えられてなくて」


 恥じる気持ちばかりが膨らんで、アスターの視線が地面に落ちる。自責の念に駆られる相手を見たローリエは、つい険しくなっていた表情を緩めた。お世辞にも愛想がいいとは褒められない、少女が見慣れた彼になる。


「いや……すまん。こっちこそ、無駄に責めるような言い方をした」

「分かっています。呆れさせてしまったんでしょう」

「だから、そういうことじゃなくてだな」


 その時、草むらの葉が擦れ合う音がした。今は夜風も止んでおり、兎や狸の仕業とするにしても、犯人が小動物であるとは思えない程度には騒々しい。意思を持つ何者かが、隙間を掻き分けて歩く時の音だ。ローリエは既に腰を上げ、物音がする方へ身体を向けている。背中に回った右手の指先は、彼の腰を一周するベルトの、ある一点にかけられた。彼と正面から対峙すれば死角となるそこには、刃渡り十センチほどの、護身用らしいナイフが差し込まれている。飴色に艶めく革製の鞘は、ローリエの旅路の長さを感じさせた。


――熊や、狼だったら、どうしよう。


 炎を忌避し、二人の居場所とぶつからないよう穏便に通り過ぎて欲しいという、アスターのささやかな願いは叶いそうにない。木の葉を掻き分ける音は、順調にこちらへ近付いている。


 ドッ、ドッ、ドッ、と大きく波打つ心臓を口から飛び出さないように、アスターは自らの口元を両手で覆った。もしも、獰猛な肉食動物が今夜の食事を探しているのであれば、村の噴水広場で作ったような石の壁を作って、二人の身を守らねばならない。「悪魔」を討伐するために派遣された追手だった場合は、もっと厄介なことになるだろうことも、想像に難くない。アスターが国中から疎まれる姿形になった件については、つい先ほど警告されたばかりだ。


 瞬きすら忘れて、食い入るように草むらを見つめる。ついに現れたざわめきの主は――五十代後半ほどの、一人の女性だった。

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