第9話

 ドラゴンの二本角から緑の光が発されていることに、アスターは、閉じた壁の中で初めて気付いた。暗がりに輪郭を与えるその光源は、まだ弱弱しくはあるものの、実子にもしかと受け継がれている。密室の内部を煌々と照らし出す燐光は、宿の使用人に宛てがわれた屋根裏部屋の夜半よりも、よほど明るい。障壁の向こうでは、先程まで「悪魔」を迫害することへ必死になっていた人々が、突如として人ならざる力を発現させた少女へと矛先を向け始めていた。


「さっき飛び込んでいったのは、アスターか……?」

「宿屋の? まさか、そんな度胸はない子だろう」

「でも……走っていくあの子の右目が、その……緑色、だった気がするのよ」

「何だと! そういうことなら話は早い。同族を見かねた悪魔が、愚かにも尻尾を出したってワケだ」

「うちの村に悪魔が潜伏していたなんて、末代までの恥だな」

「最近、様子が少し変わったと思っていたけれど。きっとあれは、悪魔の本性がそうさせていたのね」

「穴を一つ掘れさえすれば、中に火を放てるぞ。放っておいたら、どんな災いがもたらされるか分かったもんじゃない」

「そうだ、殺してしまおう! 皆、すぐに家中の工具と油をかき集めてこい!」

「生まれてくる子に、呪いをかけるつもりで施したなんて!」


 聞こえてくる野次に、指輪の力を借りて贈り物をした、八百屋の亭主の妻も混ざっているのが辛い。彼女の腕に抱かれている、生後二ヶ月に差しかかった赤子の泣き声までもが、なじっているかのように感じられて、そう思う自分が惨めだった。


――駄目だよ、アスター。あたしが、自分で決めたことなんだから、全部受け止めなくちゃ。


 ドラゴンの足枷に一つだけある窪みへ、人差し指を入れる。第二関節を折り曲げてようやく届く、硬い突起を力いっぱい押し込めば、鉄の輪に隙間ができた。さらに、両手で隙間を広げることで、やっと彼らの脚から重しが外れる。獣の爪や嘴では開錠できない機構は、どこまでも人間のためだけに作られていた。


 ドラゴンたちを少しでも安心させようと、鱗に傷がついていない場所を探して沿わせた手は、微かに震えている。足枷に埋め込ませた人差し指の先は、できたばかりの痣で青黒い。


 小柄なドラゴンの右目からは、溢れ出る血液の滑りと、地鳴りの振動に乗じて、観客から投げつけられた石が抜けていた。右の瞼を瞑った幼体は、おもむろにアスターへ鼻先を擦り寄せる。成獣も、いつの間にか威嚇を止め、静かに少女を見下ろすばかりだ。


――心配してくれているような気がするのは、思い上がりかな。


 人間の体温よりも熱が高い、平べったいドラゴンの舌のくすぐったさに彼女が身じろぐと、足元で小さく水滴が跳ねた。元からひびが入っていた噴水の受け皿が、暴動で飛び交う瓦礫をとどめにして割れたがために、密かに地面が濡らされていたのだ。浅い水面は、ドラゴンたちの足裏をも浸している。


 暗闇に包まれた水鏡へ浮かび上がる、指輪の主の瞳孔は、両目ともが鮮烈な緑色に染まっていた。


『残りの左目まで染まったなら……その呪われた指輪は、持ち主が死ぬまで嵌ったままだ』


 赤と黒の血液が、無色透明の清水に混ざっていき、不定形な天然の姿見が濁っていく。


——おじさまは、怪我をしていないかしら。


 幼い魔獣の硬い頬を撫で、まだ光が弱い一対の角を間近に見たアスターは、誕生日の夜、父に言われるがまま吹き消した、数本の蝋燭を思い出した。


「……ふふ。おそろいだね」


 少女は、背丈が小さい方から順番に、ドラゴンたちへ柔らかく微笑みかける。今は寡黙な大柄の魔獣が、我が子の潰れた右目から流れ出る血を、丁寧に舐めとる。身体を寄せ合う「悪魔」を処刑せんとする、乱暴で硬質な音が、段々と勢いを増していく。石の守りに小さな亀裂が入った瞬間、外野が今日一番の喜びの声を上げたのが、アスターの鼓膜にも届いた。凪ぎつつあった心臓が、再び恐怖を思い出していく。噛んだ奥歯からは、真新しい鉄の味がする。


 それでも少女は、確かな意志が灯る眼で、まっすぐにドラゴンたちを見上げた。


「言葉が伝わるか、分からないけど。あのひび割れが大きくなったら、すぐに壁を割って、空に逃げて」


 瞬膜で瞬きを繰り返し、小首を傾げている子どもとは対照的に、保護者の一体はアスターの言葉へ真剣に耳を傾けている。人に育てられた年月の違いにより、人間の言葉を解せるのはこちらだけということを、少女は彼らの素振りから察した。手が届く位置にある幼い頬には触れたまま、上方から注がれる眼差しと視線を合わせる。


「この子は怪我をしているから、背に乗せてあげて。あれだけ抵抗できたあなたなら、脆くなった石を割るのも、荷が少し増えるのだって、なんてことないでしょう」


 さあ早く! そう呼びかけたアスターは、子どもが親の身体に登るのを、懸命に手伝った。彼女が彼らを急かす間にも、外からの騒音は増す一方だ。さらに、村の倉庫に眠っていた採掘用のハンマーが引きずり出されたらしく、それらを運んできた何某かへの賞賛すら聞こえてくる。膝を折ったドラゴンの背に子を乗せ終えた頃には、ひび割れは壁全体に渡り、こじ開けられた穴からは、油を注ぎこむための漏斗の先が差し込まれていた。


「行って!」


 大きな翼の妨げにならないよう、アスターは、後ろ歩きでドラゴンの親子から距離をとる。軽く動かしただけでも、目が自然に閉じようとするほどの風圧が、今は頼もしかった。


――上手に逃げて、どこかで仲良く暮らしてね。


 しばらく止んでいた咆哮が、内側から壁を叩く。あらかじめ入れられていた線が深まるほどの轟音に、少女は思わず耳を塞いだ。


 両手で両耳を覆い、やや丸められた背は、さぞかし啄みやすかったのだろう。気付けば、アスターは後ろの襟首を支点として吊り上げられ、足裏が地面から離されていた。


「えっ、ちょっと、どうしたの。遊んでないで、急いでってば」


 尻もちをつかされたドラゴンの背では、少女も登攀を手伝った先客が、キュイ、と高い声で鳴いていた。前方に見えるのは、つい先ほどまで見上げるばかりだった、立派な体躯を備えた魔獣の後ろ首だ。


「……待って、まさかとは思うけど、もしかして――きゃあ!」


 戸惑うアスターの言葉を遮って、二種類の生き物を乗せたドラゴンは、力強く地面を蹴った。一瞬の浮遊感の後に、角と額でもって防護壁が破られる衝撃が、少女の全身を包む。降りしきる石の塊と、たくましい首の両脇から流れ込んでくる風圧に振り落とされないよう、鱗の凹凸にしがみつくだけで精一杯で、苦言を呈する暇もない。


 シェルターの残骸を登り、握りしめたハンマーで殴りかかろうとする村民たちを、ドラゴンは長く太い尻尾で振り払う。ぐんぐんと高度を増していくうちに、弓矢すらも届かなくなった。薄目で見遣った広場は、ひとところに人々が寄り集まっている様相が、瀕死の獲物を運ぶ準備に勤しむ蟻のようにも見えた。


――何か、ドラゴンの脚に引っかかってる?


 下方を見ていたアスターは、遠ざかっていく村とは異なり、自身と同じ近さにあり続ける陰に目を留めた。落ちない程度に身を乗り出して覗きこむと、そこには、魔獣の太い軸足を両手で掴み、空中に揺れる、見知った顔があった。


「おじさま! どうして、そんな……ああもう、じっとしていてくださいね! 今、引き上げます!」

「……これは、恰好がつかんな」

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