第8話
「――ドラゴンの、悪魔の口枷が壊れたぞ!」
観客の絶叫に、アスターとローリエは半ば反射で振り向いた。この日限りの舞台が設えられていた、噴水広場の中央付近に、黒く蠢く影がある。その正体は、クロワ帝国の典礼劇においては定番の道具であり、帝都でのみ繁殖されている「悪魔」役の魔獣だ。勇者の伝説よりもさらに前、神々の時代に天から生まれ落ちたとされる原種を弱体化させ、人間に隷属する生物として衰退させられた有翼の異形。それが、この国におけるドラゴンという種族であり、伝説の「悪魔」と近しい姿かたちを成した、おぞましい見世物の一つである。
しかし、肺がはち切れんばかりの勢いで酸素を吸い込んでは、十数秒もの長きに渡り、緑の炎を客席に向かって吐き出すドラゴンの姿など、この場の誰もが初めて目にするものだった。
「何、あれ……」
爪先から頭までの丈が成人男性の三倍はあるドラゴンを、至近距離から嘲っていた人々のうち、逃げ遅れた数名が炎の中で身悶えている。噴水へ雪崩れこむ彼らと、延焼する火を避けるために人波が割れたおかげで、騒動の渦中からは距離があるアスターとローリエにも、広場の全貌が見えるようになった。観客という名の遮蔽物が減ったために、脂の腐敗臭にも似た甘ったるい体臭と、炎の温度を乗せた熱風が、二人の素肌を遍く舐めていく。遠目に見えるドラゴンには、人間にしか外せない特殊な造りの、頑丈な足枷のみが残されている。鎖で輪に繋げられた鉄球は、石畳を割るほどに重い。テイマーにとっての最後の砦は、魔獣を空へと飛び立たせないよう、軋みながらも役を全うしていた。
あまりの衝撃を浴びたアスターは、突風で右の前髪が横に流されたことも、つい先ほどまで大粒の涙を流していたことすら、一息に頭から吹き飛んでしまっている。
「ったく、どいつもこいつも、間が悪い……!」
ローリエはアスターを引き寄せ、自身の後方へと隠した。風圧で砕かれた石畳の破片が、数秒前まで少女が佇んでいた場所に飛来する。庇われながら覗いた噴水広場は、皆が我先にと押し合うせいで、見るに堪えない様相を成している。老人や子どもの手を引いて逃げ惑う家族連れや、ドラゴンに割れた煉瓦や石を投げつける、暴徒化した村民たち。見開いた瞳をぎらつかせ、祭りで昂った衝動のままに騒ぎ立てる彼ら自身の行動が、有翼の魔獣を刺激する。賞賛を一身に浴び、悠々と演技を披露していた役者たちは、連れてきた楽団と諸共にどこかへ消えていた。
口枷を顎の力のみで歪めたらしい大型の魔獣の背後には、同種であろう小柄な一体が見え隠れしている。黒曜石の矢じりにも似た、触れ合えば簡単に相手を傷つけられそうな鱗で体表を覆われた彼らは、決してお互いから離れようとしない。災害そのものと化しているドラゴンは、震える同族を周囲から隠すように、ごく狭い範囲で立ちまわり続けていた。炎は一度で枯れたのか、二度目の火事が起こされる気配はない。
――もしかして、親子?
二体のドラゴンのうち、暴れているのは成獣の方のみだ。大人一人分ほどの背丈がある、比較的小さな個体はといえば、右目に出来たばかりの傷から黒い血液を流し、か細い声で鳴いている。さらに目を凝らしてみると、その傷口には、何やら鋭く尖った物が刺さっていた。
「子持ちの個体を使うなんざ、正気とは思えんな」
「おじさま、あ、あの奥にいる子、怪我して……!」
「大方、酔った観客が劇の最中にやったんだろう。人に育てられたドラゴンは、普段こそ温厚だが……こうなったら、腕利きのテイマーでも収められんぞ」
ローリエの声は苦々しく、諦めの色が濃い。親のドラゴンは、自らの身体に傷がつくことも厭わずに、手負いの子どもに近付く敵を遠ざけようと、懸命に応戦している。
――家族を、子どもを虐げられて怒っているだけなのに、あの人たちは、ドラゴンを悪者にするの?
アスターの脳裏に、幼い日の一幕がよぎる。気の弱さから、同年代の子どもたちから好きなようにからかわれ、しゃくりあげながら帰った夕暮れ。顔を青くした父親は、愛娘が泣き疲れて眠るまで、何時間でも、朝になるまでだって抱きしめていてくれた。
少女より頭二つ分も背が高い彼が遮る向こう側、曇天の下で繰り広げられる暴動は、誰も彼もが混乱の渦に呑み込まれていた。爛々とした人々の目付きは、思わず目を背けたくなるほどに、大義名分のある加害に興奮を覚えていることが隠しきれていなかった。
――あの子は、昔のあたしだ。
斧を持ち出した鍛冶屋の男が、背に傷ついた子どもを庇うドラゴンの鱗の隙間に刃を差しこむ。激痛に身を捩った魔獣に振り払われた彼は、数メートルを転がってから、焦点が定かでない眼で高笑いを始めた。
――本当に悪いのは、命を娯楽の道具にして、僅かな自由すら奪ってきた、あたしたちの方だ。
蛮行を雄姿と認めた人々が、割れんばかりの歓声を上げている。村民の憩いの場であったはずの広場は、ドラゴンの吐いた炎によるものだけではない、異様な熱気に包まれていた。
「話は後だ。火の手が回る前に、村の外れへ――」
気付けば、広場の中心へと駆け出していた。僅かな隙間をすり抜ける彼女を遮りそびれたローリエは、遠ざかる背へ、咄嗟に腕を伸ばす。しかし、半狂乱の群衆に遮られてしまっては、アスターを構成するパーツのいずれをも掴めようがなかった。
「馬鹿な真似をするな、戻れ!」
数分前までは単なる観客にすぎなかった暴徒や、我が子を連れて避難を急ぐ母親たちの間を縫って、少女は進む。薄手とはいえ、数枚の生地を重ねた衣服越しにも、熱の残滓が伝わってくる。粗く抉れた地面に、何度も足を取られそうになる。
彼の声が、段々と遠のいていく。
「——ッ、アスター!」
——ごめんなさい、おじさま。きっと、心を砕いてくれていたのに。
ドラゴンの咆哮と共に踏み抜かれた石材と、むせかえる息で吹き戻された人工物が、広場に留まる人間たちに降りかかる。風がアスターの全身を包んだ時、不意に、後ろ髪が強く引かれた。結び目を失い、ざんばらになった毛先が、衝撃を追うように項へ触れる。後ろを見遣れば、村の細工師が投げたのだろう、丹念に研がれた小刀が、瓦礫の隙間に突き刺さっている。黒髪の束にまみれた小刀を拾い上げたアスターは、走るには邪魔だったカートルの裾を、思いきり縦に切り裂いた。再び地面へ転がした刃物を、少女はもう振り返らない。咥内へ滑り込んだ無味無臭の砂埃が、食感だけは不快に上顎を這っている。
正面を見据えながらにして風を防ごうと顔を覆う、掲げられた両腕にもまた、浅くない傷がいくつも作られている。吹きすさぶ獣の息が、灼ける傷口から神経を逆撫でていく。火傷じみた痕が残るだろう、と、彼女は頭の片隅で考え、すぐにその思考を押し流した。蹲り、高くか弱い鳴き声を上げる幼いドラゴンの傍らへ、アスターの爪先は既に届いている。
「……怖かった、よね」
死角にヒトが潜り込んでいることに気付いた親は、鋭く尖った牙をむき出しにして、ひときわ大きく吠えた。子どもを矢面から遠ざけ続けている成獣の身体には、いくつもの飛来物が刺さり、黒い体液が滴り落ちている。ひゅうひゅうと鳴る呼吸が苦しげで、どうしようもなく泣きたくなった。
娯楽のためにのみ飼育される、帝都の富の象徴。それと同時に、比類なくおぞましい種族とされる翠眼のドラゴンの血に触れるのは、少女にとって、これが初めてのことだった。
「もう、大丈夫だから」
人肌よりも高い温度の液体に掌を浸しながら、アスターは目を閉じる。観客の野次と、ドラゴンの威嚇で限界を訴える鼓膜を無視して、彼女は親子のための盾を思い描いた。
「……なあ、なんかさ——地面、揺れてないか?」
誰かがそう呟いた途端、疲弊したドラゴンたちを取り囲むようにして、分厚い石の壁が足元から出現した。重苦しい音を立てながら組み上がっていく灰色のブロックは、僅かに緑色の炎を纏っている。その外見から想像される熱と火花は、周囲のどこにも伝染する気配もない。誰かが投げた瓦礫が、アスターの腕の動きに合わせて素早く生えた、掌のオブジェで阻まれる。みるみるうちに外界から隔絶されていくドーム状のシェルターには、ドラゴンが二体と、あどけなさが残る瞳で周囲を睨む、傷だらけの少女が閉じ込められた。
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