第7話

 浮かれた人々の熱気に疲労を覚え、小休止をとるために宿の部屋へと戻ったローリエを出迎えたのは、包帯で胴を固定された、一羽の白鳩だった。


――帝都の伝書鳩が、どうしてくるまれているんだか。


 どこか機嫌が良さそうに鳴いている鳩に片眉を上げたローリエは、鳥の隣に横たわる、浅い皺が付いた羊皮紙を手に取った。書かれている内容は、彼にとってはさほど目新しくもない、帝都の教会らしい文章だ。厳粛な伝令文にも読めるそれの正体は、万が一にも命令に背いた時には、信徒の素養を失ったものとして破門することを匂わせる脅し文句だった。


「敬虔な信徒、ねえ……」


 しかし、破門だけで済むようならば、彼らにとっては厳罰の中でも最も軽い刑に該当し、実際にはそれ以上の「贖罪」を求められることを、男はその身をもって知っている。だらしなく伸びた前髪の下、両端が隠れている男の左眉に、僅かに力がこもった。


 無精ひげを触りつつ、次にローリエが睨んだのは、点々と滲んだ文字たちの存在だった。空気を入れ替えるための隙間は作れども、窓を大仰に開け放って出かけた覚えはない。吹きこむ薫風が、元から愛想がない彼の表情をさらに険しくさせている。


「……頼むから、思い過ごしであってくれよ」


 机上へ手紙を放ったローリエは、身に着けた眼帯の留め具へと手をかける。手際よく外された覆いの下から現れた皮膚は、左目の周囲に集中して引き攣れ、歪んでいる。


 そして、眼孔に嵌められた義眼の中央には、鮮やかな緑色が瞳孔として居座っていた。


 羊皮紙へ掌をついたローリエの翠眼に映っているのは、今現在の景色ではない。彼の目の前には、この二ヶ月間に浅からぬ交流を続けてきた、純朴な少女の幻影が浮かび上がっていた。最悪の憶測が当たっていたことを察したローリエは、眉間の皺をさらに深くしながらも、半透明の像を眺めることをやめない。触れている物を媒介とした過去の再現を、鈍痛を堪えているかのような面持ちで見続けている。


『伝書鳩だろうから、気は進まないけど……ごめんね、あなたの脚についてる物、取っちゃうね』

『そうだ、手紙! この辺りの人に宛てたものなら、代わりにあたしが届けられるかも』

『え……?』

『あ、あたし、……あたし、ばかみたい……』


 肌が白くなるほど強く拳を握り、大きな目に涙を溜めたアスターが部屋を飛び出したところで、現実に被さる半透明の幻影が一度ぶれる。続いて浮かび上がってきたのは、部屋に戻ってきたローリエが、机上の手紙に触れた映像だ。手紙にまつわる近い過去の確認を終えた彼は、息を吐きながら瞼を閉じる。クロワ帝国で蒐集されている「悪魔の神器」のうちの一つ、「悪魔の瞳」によってなせる幻視が、此度の短い上映を終えた。


――違う。俺は、あの子を泣かせたかったわけじゃない!


 唇を噛んだローリエは、左目用の眼帯を元の通りに付け直す。帝都からの脅迫状を破り捨てた彼は、すぐさま部屋から駆け出した。


――――――


 家族連れ、恋人同士、幼馴染に友人。形と呼称は違えども、いずれも愛ある関係性を構築した人々でごった返す噴水の御許にて、アスターは独り、俯いている。通行人に身体を押されるまま辿り着いたのは、天井が存在しない劇場だ。伝説の勇者に扮した劇団員の一挙一動で、会場が沸く。目元を泣き腫らした少女は、人々の歓声を雑音としてぼんやりと聞きながら、自らの左手を右手で包んでいた。


――どうすれば、いいんだろう。


 レリーフの溝に至るまで丹念に磨かれた銀の指輪は、八歳の頃から長らく傍にあるアスターの体温に馴染みきっており、細い指から離れる気配は一切ない。思考が真っ白に塗り潰され、呆然と立ち尽くしている少女を案じるような知人は、数少ない娯楽へ躍起になっている群れからは、到底望めようもなかった。


――逃げるにしても、あたしの居場所なんて、どこにもない。


「アスター……っ!」


 人混みの中で不意に掴まれ、身体ごと揺れる勢いで後方へ強く引かれた、左の上腕が鈍く痛む。振り向いた先には、肩で息をし、右目を見開いたローリエの姿があった。広場に集まろうとする人の波を掻き分けてきたのだろう、一つ結びにされた彼の黒髪はところどころが乱れ、首筋と額には玉の汗が浮かんでいる。


「あ……」


 彼女が意味のある言葉を吐く前に、男はアスターの腕を引き、広場の外縁に向かって歩かせた。煉瓦と石膏、木片を素材とし、帝都から派遣された劇団のために誂えられた即席の舞台は、既に二人からは遠くにある。深く息を吸ったローリエは、少女を掴んでいた右手の力を緩めて、正面から向かい合うよう立ち位置を直す。少女が見上げる彼の眉根は、心なしか、常よりも下がっているように見えた。


――どうして、おじさまが辛そうな顔をしているの。


 宿を飛び出し、彼の顔を直視するまでの間、少女の頭の中では、ローリエに対する拙い恨み言が泡のように浮かび、また、泡のように消えていた。雑踏に流されるうちに止まった涙の痕は、風が吹くたびにじくじくと痛む。


「……黙っていて、すまなかった。お前さんにとっては、その指輪が大事な物なんだと、一目で分かって――どうにも、言い出せなかった」


 混乱している感情を自覚しながら、力任せに腕を振り払えば、彼はそのまま放してくれた。


「これは、お前さん自身に関することだ。嫌で堪らなかろうが、俺の話を聞いて欲しい」

「けど、結局は、指輪を渡せって言うんでしょう」


 声が震える。それだけならば、これまでの人生で数えきれないほどあった。けれども、棘まで付いた声色が自分の喉から出たことに、心の内では酷く驚いた。胸がどうしようもなく冷たいのに、煩い鼓動ばかりが耳の奥に響く。相対する彼は、尚も目を逸らしてくれない。


「手遅れになる前に、な」


 西に傾き始めた太陽を、雲が覆った。広い影が地面に落ち、ローリエとアスターの色彩を、ほのかに昏いものへと変えていく。


「緑色に変化したのが片目のうちはいい。教会で解呪の儀式さえすれば、指輪を外すことができるし、瞳の色も元に戻せる。逆に、これ以上お前さんが『悪魔の指輪』の力を使って、残りの左目まで染まったなら……その呪われた指輪は、持ち主が死ぬまで嵌ったままだ」


 厚い雲から生まれた濃い影が、彼の身体に音もなく忍び寄り、無抵抗の獲物に覆い被さった。


「知っているだろう。翠眼の人間が、この国ではどんな存在とされ、どう扱われているか」


 演目の主人公が、迫りくる魔物に見立てた「小道具」の獣たちへ剣を奮う壇場に向かって、一際けたたましい声援が上がる。アスターの脳裏には、かつて広場で血濡れになっていた物乞いの姿が呼び起こされて、思わず視線が足元に落ちた。


「俺は、お前さんを元の暮らしに戻してやりたい。そのためには、指輪を手放してもらう他ないんだよ」

「で、でも! これは……お父さんが、家族が遺してくれた、最後の一つなんです」


 振り仰いだ顔で見た世界の輪郭は、こみ上げてきた涙のせいで滲んでいる。ローリエを困らせていることへの罪悪感と、彼に寄せていた身勝手な信頼が裏切られて燻る怒り。そして何より、迂闊に指輪の力を使い、密かに万能感に酔っていた自身が招いた現在に対するやりきれない気持ちが、アスターの胸を押し潰していく。


「お願いだから、あたしからこれ以上、何も奪わないで」


 瞬きで圧縮された塩水が、少女の赤い頬を再び濡らす。とめどなく溢れてくる涙を拭うアスターの両手は湿り、指輪にまで水気が及ぶ。指の隙間から覗く細長い外界は、牢屋から見る景色にもきっと似ていた。


 その時だった。突如として地の底から響くような咆哮が、広場の中央から轟いたのは。

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