第6話

「グラスが空いたぞ! 次の酒持ってこーい!」

「なんなら樽ごと転がしてきてくれてもいいぞぉ」

「つまみも追加で。うんと塩気のきつい奴な」

「お、もうやってる。隅のテーブル借りるよ」

「フォーク落としちゃってさ。悪いけど、新しいのくれるかな」

「ワイン、水筒に注いで頂戴な。劇を見ながら飲みたいの」

「はあい、ただいま!」


 村祭り当日。娯楽に飢えた住民たちは、太陽がまだ東側に位置するうちから財布を掴み上げ、各々の家をご機嫌に飛び出した。


 片田舎のこの土地は、私欲の薄い領主が治めているがために、帝都との関わりが少ない。徴収される税が少ないのはありがたい限りだが、吟遊詩人や楽師といった、裕福な都市を狙って娯楽を提供する存在が立ち寄ることも、ほとんどない。その僅かな例外として、典礼劇――クロワ帝国の国教にまつわる音楽劇で、聖書を底本としている――が上演される年に一度の祭日は、文字通り、村中がお祭り騒ぎの風体を成す。喧噪に誘われて、近隣の集落から足を延ばしてくる一団もある。平生は閑古鳥が住み着く宿屋すら、前日からにわかに繁盛し始めたため、唯一の使用人であるアスターは大忙しだ。


「アンタ、ちょっといいかい? 孫が皿をひっくり返してね」

「は、はい! すぐに綺麗にします」


 今日に備えて大量に仕入れたビールを酔っぱらいの席に届け、台所に戻る途中で、老婦人が少女を手招いた。親子三世代で遊山に来たらしい観光客のテーブルには、細切れにした茸とくるみの炒め物が散乱している。ナッツ類特有の重く香ばしい香りが、まかないを食べそびれている少女の空腹をつつき、口の中を湿らせる。首を小さく横に振ったアスターは、端が欠けた皿を一度脇へ避けてから、残飯を台拭きで覆いつつバケツへと避難させた。濡らした別の布巾で円形の木板を撫でれば、机上には料理一つ分の余白が浮かび上がってくる。ぐずる赤子をあやしている、二十代半ばと思しき女性が何度も頭を下げるので、アスターも同じ数だけ会釈をした。


 空になった食器たちが肩身を寄せ合う、浅く水を張った流し台へ、回収してきたばかりの皿を浸ける。普段ならば両手で数えられるだけの食器しか行き来しない食器棚が、物寂し気に沈黙している。木枠にガラス窓が合わせられた収納に、無機質で平べったい内臓が詰め込まれるのは、きっと明日の朝日が昇ってからだ。


「何ぐずぐずしてるのさ、大皿が無いよ!」

「すみません……!」


 休みなく鍋を振っている女将からの怒号に飛び上がった少女は、大きな食器から順に汚れを落とす。宿で一番大きな平皿を配膳用のスペースへ置けば、フライパンで踊っていた料理がすぐさま盛り付けられた。みずみずしく太ったそら豆に、とっておきの時にしか使わない塩漬け肉を合わせて炒め、黄金色のバターをたっぷりと絡めた一品は、酒豪たちにとっては垂涎ものだろう。料理を移した彼女は、客が詰めかけているホールへと足早に向かう。アスターは、宴会場で沸いた歓声を背に受けながら、バケツ片手に裏口の扉を通り抜けた。


「よいしょ、っと」


 生ごみを廃棄するために掘られた深い穴へ、何種類もの料理が混ざった残飯を放る。外側からバケツの底を叩いた彼女は、溜めてある雨水で容器を軽くすすいでから、己の手指を清めた。薄く雲がかかった夏の日差しが、濡れた少女の掌を、微力ながらに乾かそうとする。左手の指輪に埋め込まれた緑色の宝石は、つるりと水滴を弾いている。


――広場で劇が始まりそうだって、噂してたな。見物に行く人が大半だろうし、もうひと踏ん張りしたら、ちょっと休憩できるかも。


 エプロンに残りの水気を吸わせたアスターは、大きく腕を振り上げて背伸びをした。店内では常に何かを携えていた分、今の身軽さが心地いい。つま先立ちもおまけで付ける。木靴の頑固さを忘れていた少女は、ぐらりとバランスを崩したまま、青草の上へと尻もちをついた。


「い、ったた……。……あれ?」


 じんじんと痛む臀部に瞳を潤ませたアスターは、物置と本館との間にある通路未満の空間へ、白い塊が転がっていることに気が付いた。数回の瞬きで涙がひいた目を凝らせば、その塊は動いているばかりか、赤い汚れも付着しているらしい。白に埋もれて見え隠れする、小ぶりな三角錐は薄桃色だ。


「……鳩?」


 カートルについた草と土を払い落として、白いそれに歩み寄る。細い隙間に手を差し入れると、白鳩も彼女の方を振り向き、指先を軽くつつき始めた。人間の爪で叩かれているような感触が、少しこそばゆい。


――烏の縄張りにでも、入っちゃったのかな。


 白鳩に赤い染みが付いている部分、もとい、出血している患部は、右翼のごく狭い範囲だ。形は保たれている上、他に外傷もない。しかし、鳩が自身の嘴で傷口を啄んだらしく、顔周りにもいくらか赤が移っている。


「おいで。手当してあげる」


 舌で上顎を数回弾いてみると、鳩は幅の狭い歩みでアスターに寄ってきた。暗がりから顔を出したその鳥は、怪我の難を逃れた素の羽毛が見事に白い。初対面の人間に抱えられても大人しく、軽い小型の筒が脚に括られていることも相まって、野鳥ではないことは明らかだった。


「羽を覆ってあげないと、傷が悪くなりそう」


 店内からは、アスターを呼びつける女主人の声が漏れ聞こえている。鳥を抱えて戻ろうものなら、最悪の場合、食材として雇用主に回収されかねない。一連の流れを予測し終えたアスターは、身の内から湧いた寒気でぶるりと身震いをした。


――少しだけ。もう一回だけなら、きっと、大丈夫なはず。


 白鳩を支えたまま、アスターは宿の裏手に移動する。辺りを見回し、人の目がないことを確認した少女は、瞼を閉じて空想の海に潜った。


 思い描くのは、宿の二階に届くほど長い、頑丈な梯子だ。宿の外壁に設置された、とある窓辺に繋がっていることの指定も忘れないよう、注意しながら組み立てる。足場には太い蔦を絡ませて、誰に支えられずとも倒れないように――脳内の絵図が鮮明になった頃を見計らって、薄い瞼の内側に、緑色の光が滲んだ。


 静かに目を開けば、アスターが想像した通りの素朴な木製の梯子が、宿の外壁に立てかけられている。蔦で何重にも固定された一台は、脚をかけてもびくともしない。


「いい子だから、じっとしてるんだよ」


 鳩の頭を優しく撫でた彼女は、左腕で抱え直したそれを胸元に抱き寄せ、うっかりでも落とすことがないように安定させる。右手で縦軸を掴み、一歩一歩を確かめながら、端に緑の炎が残る梯子を登っていけば、危なげなく目的地の窓へ辿り着いた。


「お、お邪魔します……」


 小声で呟きながら触れたのは、ローリエが借り受けている部屋にある、両開きの窓だ。この部屋は、二人で宿泊することを想定して作られた分、窓枠も、小柄な人間であれば通り抜けられるほどに横幅が広い。アスターの体躯も、その範疇だ。


 夏の夜風を取り入れるため、細く隙間が作られたまま放置されていた縁へと指をかければ、容易に室内への侵入が許される。ローリエは村の見物に行っているらしく、姿が見えない。


『祭りが落ち着いたら、時間を作ってくれ』


 早めに切り上げられた昨夜の授業の別れ際、彼はアスターにそう告げた。読み書きの指導とは違うらしい本題の概要は少女に知らされてはいなかったが、快諾した記憶だけは新しい。


「後で会ったら、包帯を借りたことも言わなくちゃ」


 男が部屋に持ち込んだ荷物は、大量の本だけではない。道中の怪我に対処するための簡素な道具も、ローリエの私物に含まれていた。ブナの枝を削った軸に巻き付けられている、細長く柔らかい綿の生地を、机上で行儀よく待っている鳩へとかざす。


――怪我は覆えそうだけど、足元の筒を巻き込んでしまいそう。


「伝書鳩だろうから、気は進まないけど……ごめんね、あなたの荷物、取っちゃうね」


 白鳩が喉を鳴らしたことを了承の返事として受け取ったアスターは、筒の両端に通された紐の結び目を、指先と爪を使って慎重に解いていく。振動で傷が痛んだり、脚を折ったりといった事故が起きないよう細心の注意を払えば、軽い荷物は損傷もなく取り外せた。


 一旦の安堵から溜め息をついた少女は、今度こそ包帯を患者に巻き付ける作業へと移った。初めて傷に布が触れた時には流石に相手も暴れたが、四苦八苦の末、両翼を畳んだ状態での固定に成功し、アスターの口からは、二度目となる深い吐息が流れ出した。一仕事を終えた耳で拾った階下の喧騒は、先程よりも随分と控えめで、祭りの目玉である噴水広場での典礼劇が幕を開けたことを示唆している。嘴の血液も拭き取られ、ほとんど真っ白になった鳩は、首から上だけを忙しなく動かしている。飛ぶ自由を奪いはしたが、このまま安静にしていれば傷の治りも早いはずだと、少女はささやかな達成感を得た。


「そうだ、手紙! この辺りの人に宛てたものなら、代わりにあたしが届けられるかも」


 閃きの勢いを殺さずに、細やかな文様が彫られた筒を押し開け、中身を見る。収められていたのは、あらかじめ予想していた通り、一枚の手紙だ。横幅が短くなるように折りたたまれ、体積が小さくなるように下から上へときつく丸められた薄手の羊皮紙には、角ばった文字が並んでいる。教科書通りと言っていい几帳面なシルエットの一つ一つを、アスターは丁寧に拾い上げ――最後の行まで読み終えた瞬間に、掌から手紙を取り落とした。


「え……?」


 呆然と紙片を見下ろすアスターは、体中の血が引いていく感覚を、どこか他人事のように享受していた。別な内容を誤読したのでは、と読み直そうとした視界がぶれ、焦点が定まらないほどに動揺している自身を知り、呼吸が浅くなっていく。手紙越しに机へついた両手は、死人のように青白く、感覚がほとんどない。


――ああ、だからおじさまは、手紙を書いていたんだわ。


 滑らかな羊皮紙には、空想を具現化する指輪が「悪魔の神器」と呼ばれている呪具の一種であり、ローリエは「悪魔の指輪」の回収を教会から命じられた司教であること。そして彼は、任務を達成するために、現在の指輪の保有者であるアスターと接触したことが、淡々と書き含められていた。


 数日前から報告が滞っているらしいローリエに対する、帝都の教会からの叱責と催促が、無垢な伝書鳩が運んできた言伝の全てだった。


「あ、あたし、……あたし、ばかみたい……」


 大粒の涙が、少女の手によって新しい皺が刻まれようとしている手紙に落ちる。見開かれた両目は、にわかに水位がせり上がってきた塩水の膜で覆われて、瞬きのたびに頬を濡らしていく。


――全部、全部知られて、騙されていたのに。


『アスターと称する少女が、忌むべき翠眼の悪魔へと変容し、浄化が不可能と判断される場合。我々は、敬虔な信徒たる貴殿の手で、然るべき罰が悪魔に下されることを望む』


――優しい人だなんて、勘違いした!


 弾かれたように駆け出したアスターは、角部屋の扉を乱暴に開け放ち、その勢いのまま階段を駆け下りた。観劇のために減ったとはいえ、未だに客が残る宴会場を抜け出せば、少女一人が紛れても容易に埋もれるほどの人混みに合流する。大胆な職務放棄で我慢が限界に達した女主人の怒号は、悲しみに暮れるアスターの耳には届かなかった。

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