第5話
夢を見ている最中であれば気付けないだろう、控えめな三回のノック。蝋燭を新しいものへ取り換えたばかりの、一人で泊まるには広い二階の角部屋にて、眼帯の男は机に向かっている。湿度が低い夏を迎えたクロワ帝国では、どの家にも、眠る直前まで細く窓を開けておく慣習がある。襟元を緩めたシャツの中へ、微かな夜風が入りこむのは心地いい。しかし、路地を千鳥足で歩く酔っぱらいの歌までもが耳に届くことは、彼にとっては歓迎しがたい季節の風物詩だった。
「起きてるぞ」
扉の向こう側へと投げかけたローリエの声に従って、ゆっくりとドアノブが回される。掠れた筆跡の末尾を、インクを付け直してから引き継ぐ。眼帯で覆われた彼の左目にとって不要な灯りは、右手の奥側に据えられていた。また、男の席の右隣には、背もたれのない、やや簡素な椅子が置かれている。
「おじさま」
革張りの厚い本を両腕で抱えた少女が、客室へと足を踏み入れる。アスターが纏っている淡水色のカートルの袖は、あらかじめ短く仕立てられており、腕周りが軽やかだ。彼女の近辺に、掃除用具は見当たらない。
左手の小指には、不透明な緑色に、まだらな白い筋が入った――恐らくはジャスパーだろう――石が埋め込まれた蔦模様の指輪が、今日も変わらず嵌められている。
「宿題にしてもらっていた段落なんですが、読めた……と、思います。多分……」
「ああ、そう。じゃ、聞かせてごらん」
アスターがローリエの隣に座れば、授業が開講する。作業の手を止めた訓導者は、自前の無精ひげを触りつつ、少女の音読に耳を貸す。読み上げられているのは、クロワ帝国の各地に住まう、少数民族の暮らしと文化がまとめられた文章だ。ある地域にて口伝で受け継がれてきた物語について、遠く離れた集落でも類似のものが認められた事例が、簡略化された地図と共に掲載されている。歴史学者や異端審問官の卵にとって、全ページの暗記が当然とされる貴重な一冊の価値を、アスターは知らされていない。
最初の教材は、帝都の学校では初等科で使われる、入門編の歴史書だった。農民まで広く知られている、聖書に含まれるエピソードも多分に含まれた一冊である。そのうちの一編、勇者による「悪魔」討伐の章を読み上げる時、微かに声を震わせた少女を、ローリエは咎めなかった。
彼の右隣に腰を下ろしたアスターは、今、目の前に広がる知識の海と、懸命に向き合っている。
「あの、どうでしょうか」
教材に書かれた文章を読み上げ終えた少女から、一枚の紙が男へと差し出された。「読み」で使った文章を要約し、五分の一以下の量に削って書き直すという「書き」の訓練は、彼の予想よりも遥かに順調だ。少女の記憶の奥底にあったらしい基礎が幸いし、ローリエが声を荒げたり、アスターが自身の不甲斐なさに癇癪を起こしたりといった問題は、現在に至るまで避けられている。
「こんだけできりゃ、別な仕事も見つかるだろうさ」
「田舎ですから、使う機会も、必要な時もないですよ」
頬を緩ませた彼女は、鼻先で手を振る。朗らかな左の目元を見遣ったローリエは、アスターの発言が本心からくるものであることを察し、かえって眉を顰めた。
「なら、どうして、ない時間を削ってまで学ぶ? てっきり、どこかに引っ越しでもして、職の当てにするのかと……」
アスターは、彼の相貌を眺めながら、大きな瞳で何度も瞬きをした。薄紫色の瞳孔には、ローリエと、近くの家具たちが逆さまになって映り込んでいる。彼女に対して、彼がごく私的な質問をするのは、二人が出会った初日に名前を尋ねて以来だった。
「……少し、お父さんに教えてもらっていた頃を思い出して、懐かしかったから」
驚き、半ば呆けた少女の本音が、窓辺から流れこむコオロギの音色と混ざる。やおら視線を逸らしたアスターは、手元に置いた本の奥で揺れている、手燭の蝋が垂れる様子を目で追った。蝋燭は、既に半分ほども溶けている。また一筋、雫が滑り落ちるところを見届けた少女が、音もなく瞼を閉じる。なだらかな頬の輪郭が、姿形が気紛れな光源に照らされて、ほのかに赤みを帯びている。彼女の穏やかな表情を、口を噤んだまま眺め続けた。
「それに、面白いな、と、思ったんです」
座っていても見下ろせる、やや低い背丈の少女が、隣人に向かってはにかむ。髪と同じに黒々とした彼女の睫毛が、再開した瞬きで動くたび、まるで夜の空気を撫でているかのようだった。
「読み書きと一緒に教えてもらうまで、『民俗学』なんて聞いたこともなかったのに。住む場所が変わると、こんなに色んなことが変わって、でも、同じこともあるんだーっていうのを知ると、胸が、ぎゅうっとなるんです。時々してくださる旅の話も、この村しか知らないはずのあたしが、まるで、そこに行ったような気分になれて」
少女の名前が示す通りに、紫苑属の小花を想起させる薄紫色の瞳は、彼が目にしたいつでも澄んでいた。
「きっと、おじさまは国一番の物知りだわ」
水を打ったような静寂が、二人の間に横たわる。その種を撒いた少女は、いつまで待っても反応がない彼の様子を窺っては、段々と、所在なさげに肩身を狭くしていく。ついにローリエから視線を逸らされた瞬間などは、うっかりすると泣いてしまいそうな風情だった。
「う、うるさかったですよね、すみません。生意気でした」
「……いや、構わんよ」
鵞鳥の羽根ペンを握り直した彼は、書き途中となっていた手紙の続きを紡ぎ始める。ローリエの右目からなる狭い視界の端では、アスターがほっと息をついていた。先ほど音読を披露した章と、彼の手元の便箋を、少女の眼差しが行き来する。
「どなたかと、文通を?」
「仕事でな」
「本に書き込まれた覚書もそうですが、おじさまの字は癖があって、まだ読み慣れないです」
「……覗き見する悪癖は、早いとこ直した方がいい」
本旨を書き終えた羊皮紙を、机の引き出しへ収める。虫こぶから製造され、乾燥するまで最短でも一昼夜を要する没食子インクは、密室にてその筆跡を艶めかせている。
「その、左手の指輪」
引きずり出された収納が、元の形に押し戻される。ローリエは、隣の肩が強張ったことに気付いていながら、素知らぬ顔で机上を片付け続ける。帝都でのみ取り扱われた絶版本が、異国で編纂された神話が、大陸を遍く記録した地図が、順番に閉じられていく。
「蔦模様のレリーフに、幅より小さい一粒石を合わせんのは、ここいらじゃ見ない意匠だが。土産物かね」
「……え、と……父の、形見なので。どこで、とかは」
内股になった木靴の爪先が、ペアにぶつかる音がした。本棚と面した天板の左端には、数冊の書物で作られた小山が完成しつつある。手燭の脇に控えていた、水入りのコップにペン先を漬ければ、青黒い煙が豊かに広がる。使い古した筆記具の軸は、幾度もその身を沈められた染料で淡く色づいており、最下層の分は溶け出しそうになかった。
「大切な物、か」
端切れに水気を吸わせて、羽根ペンを机に置く。インク壺の蓋を閉じる指先は、爪の白い縁が狭い上に、どれも四角く無骨だ。
「はい。宝物です」
稚い手で指輪に触れ、朗らかに微笑む少女の顔には、翳り一つない。アスターの右目にかかった前髪は、蝋燭の灯りを奥に通そうとはせず、緩やかな曲線で光を遮っている。先日、女主人から「陰気臭い」と宿屋中に響く声で罵られてもいたが、彼女は頑として前髪を切りはしなかった。
「あたしからも質問、いいですか? 答えたくなかったら、聞かなかったことにして欲しいんですが……いつも眼帯をつけてらっしゃるけど、おじさまは、左目を悪くされているんでしょうか」
「けったいな傷痕なんざ、見たがる輩はいないだろう」
大きな欠伸をした彼を見て、アスターは背もたれのない椅子から立ち上がった。教材としていた分厚い本は、まだ借りていたいらしい。子どもにとっては重い一冊を胸に抱きながら、少女はローリエに会釈をした。
「今日も、遅くまでありがとうございました。……あの、再来週のお祭りを見に、遠くからいらしてるんですよね。実地調査が目的と仰ってましたけど、せっかくなら、楽しんできて欲しいです」
「お前さんは、仕事だったか」
「祝い事がある時は、広さだけはある宿で宴を開くのが、村全体の意向なので」
油の足りないドアノブが、少女に片手で回される。室内から覗く廊下は、壁に手を沿わせなければ転びそうなほど暗い。二ヶ月弱もの間、ほぼ毎日ローリエの部屋と自室を行き来してきたアスターは、いつからか「もう覚えましたから」と言って、足元を照らすための道具を持参しなくなっていた。
「おやすみなさい、おじさま。良い夢を」
年季の入った濃い飴色の扉が、少しの雑音と共に閉じられる。長く息を吐いた男は、振りかぶった右腕で目元を覆い、椅子の背に体重をかけた。右目の瞼の裏側には、血流の赤が混ざった暗闇が満ちている。左腕は、だらりと真下に垂らされた。
『きっと、おじさまは国一番の物知りだわ』
『ロイは、国一番の物知りね』
脳内で、二人の少女の声が反芻する。一方は、癖のない黒髪で、嘘が下手な、田舎の宿屋でたった一人の使用人。もう一方は、巻き毛のブロンドが印象的な、彼の記憶の中にだけ居を許された、遠い過去の人物だ。
「……何を、ためらっているんだか」
右腕を顔から離し、上半身を前へと起こした彼は、ベル型の被せがついた細長い道具を手に取る。新品の四分の一よりも短くなった蝋燭の先を、クラッパーのない内側へ押し付ければ、借り物の部屋に差すのは月明かりばかりとなった。
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