第2話
不穏に軋む梯子を、慎重に、しかし慣れた風に登り終えた少女は、左手に携えていた手燭を机上に置いた。
「痛っ」
あかぎれを咄嗟に押さえたアスターは、人目を憚るように深呼吸をしながら、背の低い木椅子に腰を下ろした。宿屋の外壁には、唸る風と、止む気配のない雨が打ち付けられている。
「買い出し一つできない役立たず、だって。叱られちゃったよ、お父さん」
雨で濡らした布巾でその身を拭ったがために、しっとりと項に張り付く後れ毛を指先に掠めてから、首へかけた革紐の先を掬い上げる。
「せっかく、あたしが生まれた日だったのにね」
しなやかな輪に通され、首飾りの主役となっているのは、古い銀の指輪だ。浮き彫りにされた蔦の文様の合間、たった一つだけ生った果実には、くすんだ色石が嵌められている。毛羽立つ革紐を裁ち鋏で切ったアスターは、揺らめく蝋燭の炎で、毎晩欠かさず磨いてきた指輪を照らした。
『おとうさん、これ、なあに?』
『僕と、僕の小さなお姫様にとっては、かけがえのない宝物さ』
バタークリームをたっぷり絞ったマフィンを頬張る幼子へ、父親は贈り物をした。万が一にも娘を窒息させないよう、いざとなれば簡単に解ける柔い紐に通された指輪は、幼児の指にとっては空洞が広すぎる。唯一の血縁者だった父の声を、アスターはまだ、辛うじて思い出すことができた。
『君が大きくなったら、大事な話をしよう。これを指へ着けるかどうかは、その時に自分で決めなさい』
『おおきく……。なんさいになったら、おとなかな』
『はは、そうだなあ。じゃあ――』
隙間風が、小さな灯りを気紛れに揺らす。磨かれた銀の裏面には、間延びした少女の顔がおぼろげに反射していた。
「十五回目の誕生日、おめでとう。アスター」
鈍色に光る指輪は、最も傷の少ない左手の小指へと通された。まるで吸い付くようにぴたりと嵌ったそれは、彼女が八歳の時に不慮の事故で早逝した、父の遺品でもあった。
「……どうかな、似合う?」
――手の裏表までみすぼらしくて、ごめんなさい。せっかく、大切なものをくれたのに。
「鶏肉がたっぷり入ったシチューに、兎のぬいぐるみ、柔らかいクッション。頬が痺れちゃうくらい甘いマフィンに……それから、この指輪が、お父さんからの最後のお祝いだったね」
目を細めて懐かしむ少女のまなじりが、緩やかに潤み始める。拭っても拭っても湧き出る塩水は、か細い嗚咽を伴って、ついにアスターのかんばせを伏せさせた。
「う、あ、あぁ……!」
――寂しい、寂しい、寂しい。
静かに積み重なっていた悲しみが、天涯孤独の身となって長い、薄い背に折り重なる。ただ働き同然の使用人としてアスターを雇っているに過ぎない宿屋の女将は、胎児を腹の上から撫でるように、孤児を慈しんでくれようはずもなかった。
――あの頃に、戻りたい。
ささやかな幸せに満ちていた、父と娘の二人暮らし。二度と訪れはしない、優しい日々をより鮮やかに輝かせる品々を、アスターは、記憶の限りに思い浮かべた。
――せめて、物だけでも、あたしの傍にあったなら。
父親だったものの埋葬を早朝まで見届け、瞼を泣き腫らした幼子を出迎えたのは、夜盗に襲われた後の我が家だった。割られた窓の破片と、強引に外された蝶番が足元に転がる景色は、今でも夢に見る。
泥酔した御者の操る馬車が父を轢いた、という凶報を聞くその時まで、自分専用の台に乗って温めていた鶏肉のシチュー。主人の隣という特等席で寝物語を聞かせたぬいぐるみと、貰ったその日からアスターの枕となったクッション。それらの一切合切は、あるいは床を濡らし、あるいは、雪のように白い綿を吐き出していた。
「はー、はあ、はー……ひ、っぐ、……はぁ……」
――静かにしなきゃ、また、怒られる。
アスターは、机の天板から顔を上げた。際限なくこみ上げてくるやるせなさを堰き止めようと、力強く拳を握る。
すると、少女の指へ飾られたばかりの指輪が、突然に緑の炎を纏いだした。
「え……?」
驚きで涙も嗚咽も引っ込んだアスターが、素知らぬ顔をして火を灯す、左手の小指に嵌った銀の輪を凝視する。
――熱く、ない。
瞬きも忘れて見入るアスターの驚愕をよそに、何度か身体を捩ってみせた炎は、段々と小さくなっていく。また、その代わりと言わんばかりに、確かに色がくすんでいたはずの石は、先の一瞬で色彩を取り戻していた。指輪が鎮火した今も、小粒な宝石は鮮やかな緑色に染まったまま、控えめに光っている。
さらに、不意に鼻腔をくすぐりだした食欲をそそる匂いの根源を辿ってみれば、使い古した手燭の隣に、湯気の立つシチューがスプーン付きで佇んでいるではないか。食器の縁に揺らめく緑の炎は、机を延焼させることもなく、黙したままに立ち消えた。
「……うそ。ベッドの上に、あたしのぬいぐるみがある……!」
振り向いた先にある玩具が幻覚ではないことを確かめるため、アスターが椅子から腰を上げた拍子に、またしても新たな違和感が生まれる。そのまま視線を下方へ落としてみると、古びた硬い椅子の座面には、新品のクッションが敷かれていた。緑色の炎が灯っていたフリンジの端は、アスターが触れる前に鎮火する。頬をつねってもみたが、きちんと痛い。郷愁に囚われた頭で思い描いた品々が、今、少女の目の前に、現実として姿を現しているのだった。
「……おとうさん?」
俯きがちに呼びかけた声に、返事はない。具沢山のシチューの上で揺れる湯気だけが、狭苦しい屋根裏部屋の中で、アスターの他に唯一動くものだった。
「そう、だよね。それだけは、ダメなんだろうね」
ベッドに近付き、懐かしく愛おしいぬいぐるみを、少女はその胸に抱きしめた。布地から微かに花の香りがする白兎は、ぴかぴかの新品だ。
「思い描いた物を具現化する、魔法の道具……お父さんは、あたしが十五歳になった時に、これの話をするつもりだったんだ」
――七年越しの、誕生日プレゼントの話を!
胸の奥からこみ上げてきた温かい涙が、兎の耳を濡らす。アスターは、シチューが冷めきる寸前まで、柔らかな布へ顔を埋めていた。
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