第3話

「今日は、どの服にしようかな」


 爪先を曲げずとも足が収まる、新品の木靴を履いたアスターは、開け放った両開きのクローゼットの前で瞳を輝かせている。何十回と袖を通した生成りには目もくれずに、色とりどりのカートルの中から少女が選んだのは、薄紫の生地の裾に、同じ色の糸で小花柄が刺繍された一着だった。


「選べることが楽しいなんて、ずっと忘れちゃってたなぁ」


 背中でエプロンの紐を蝶結びにし、少女を待ち受けている朝の水仕事に備えて、袖口を三回捲る。滋養のある夜食を好きに得られるようになったアスターの、ささくれが減った左手の小指には、銀の指輪が鈍く輝いている。緑色の硬い果実は、今日もみずみずしい。


 屋根裏部屋と二階とを繋ぐ梯子に足をかけた彼女の左腕には、真新しいバスケットがかけられている。アスターの一挙一動に合わせて揺れるそれには、大判のレースのハンカチが蓋代わりに被せてあった。頼りなく薄い布の上には、文鎮として羊皮紙で包まれたチーズもひとかけ乗せられている。少ない客と女主人を起こさないよう、足音を殺して宿屋から抜け出したアスターは、噴水広場へと歩を速めた。


「ごめんください」


 扉の脇に打ち付けられたビーツの看板が、早朝の澄んだ風に揺れている。一カ月にも及ぶ帝都への長旅を終えた八百屋の夫婦が、昨日の昼過ぎに帰宅していることは、小さな集落では既に周知の事実だ。そのことを広め、「ようやくベーコンだけの塩辛いスープから解放される」と嬉し涙すら見せていた常連客は、その発言が発端となった夫婦喧嘩の末に、屋根裏部屋の次に粗末な宿の一室で夜を明かすこととなった。


「はぁい……朝っぱらっから、誰だい? 店は明日からだよ」


 より丸く、より張った腹を重たげに片手で支えながら玄関を開けた八百屋の妻は、あくびをしながら玄関の扉を開けた。


「お疲れのところ、すみません。あたしの仕事が始まる前にと思って」

「おや、アスター。アンタ、随分といい服着てんじゃないの」


 寝ぼけ眼についた目やにを擦りながら、女は少女に微笑みかけた。身重の身体に長旅はやはり堪えたと見えて、頬が前よりこけている。家の奥からは、身の丈に合わない高額な献金を代償にして穢れを濯がれてきた、一家の大黒柱のいびきが聞こえてくる。


「よければ、これ。ちょっとしたものなんですが」

「ええ? なんだい急に。くれるってんなら貰っちまうよ」


 なんせすかんぴんになっちまったからね、と眉根を下げながら歯を見せる女は、差し出された籠を片手で受け取った。腰の高さの台に着地した出産の前祝い品が、予定日を目と鼻の先に控えた母親によって検められていく。贈り物に触れているのは、あかぎれの生成と修復を何度も繰り返した、皮膚の厚い手だった。


「山羊のチーズに、ソーセージ……ああ、おしめと、肌着までねぇ。固まる前のミルクなんて、一体どこで売ってたんだい」

「え、っと……偶然、運が良くて。それじゃ、またお店に伺います」

「ありがとうよ。気を付けて帰んな」


 指輪の力を使った贈り物を届け終えた少女は、妊婦に背中を見送られながら、来た道を折り返した。


――ありがとうよ、だって!


 じわりと全身に広がる熱は、もしも彼女がダンスのステップを一つでも知っていたのならば、往来であることも構わずにそれを披露していたことだろう。貴族の淑女ではなく、平民の末端として生きてきたアスターは、この喜びをいかにして発散するかという愛らしい課題に対して、頬を紅潮させて小走りするだけに留めた。


 足取りも軽く宿屋の裏口へと帰り着いた少女は、木板を鉄の輪で固定したバケツと、一枚の雑巾を物置から取り出し、澄んだ水を雨どいの捌け口から汲み上げる。雲の陰すら見当たらない晴天は、水溜まりの表面を鏡にもさせる。


 だからこそ。彼女は、自らの右目が緑色に染まりつつあるという現実に、気が付いてしまった。


「何、これ」


 水面へ身を乗り出したアスターは、切りそびれていた前髪を指で退かし、映りこむ己の姿を凝視した。起き抜けに選んだ衣服と同じく、生まれつき薄紫色だったはずの両目のうち、右目の虹彩が常とは違う。虹彩の外縁、白目との境界に緑が混じっているのだ。そればかりか、瞳孔に向かってさらに緑色を侵食させようとする、細かな筋模様まで見える。


「どうして……!」


――まさか、指輪のせいで?


 全身の血液が足裏から抜けていくような感覚に襲われて、少女の顔と身体は強張っていく。胸の中央に、拳大の解けない氷がわだかまっているかのような不安が、発達の余地を残した手を震わせる。左手の小指に嵌めた指輪を引き抜こうとしても、びくともしない。躍起になった爪の先で、周囲の肉が抉れるだけだ。


――どうしよう。もし、悪魔になりかけていることが、誰かに知られでもしたら。


 その時、アスターの脳裏によぎったのは、噴水広場で真っ赤に染まっていた、みすぼらしい物乞いの姿だった。


「嫌ッ!」


 水鏡を叩いて生じた飛沫が、アスターの上半身を濡らす。じっとりと頬に張り付く前髪を払おうとしたわななく右手が、おもむろにその毛先を摘んだ。屈んだ膝にかかっているエプロンの端を掴んだ彼女は、鼻先が赤くなるほど懸命に顔を拭き、水気が幾分か減った右側の前髪を、自身の目元にかけた。未だ波紋が揺れる水面を、恐る恐る窺う。左側に作られた分け目は見慣れないが、緑色が混じった右目を世間に晒すよりも、視野を犠牲にする方が何千倍も良かった。


「アスター、どこだい? まさか、まだ寝てるんじゃないだろうね!」


 僅かに安堵したのも束の間、宿屋の女主人が使用人を呼びつける声が、裏口の外まで響き渡る。にわかに物が増えた屋根裏部屋へ入りかねない勢いの女将へ、アスターは咄嗟に応えた。


「あ……あ、あたし、ここです! 今、行きます!」


 濡れた服を着替えるだけの暇もなく、少女は声の発信源へと急ぐ。上半身だけを不自然に濡らした使用人に眉を顰めた宿屋の主だったが、アスターの予想に反して、その場ですぐに怒号を飛ばしたり、手を上げたりすることはなかった。よくよく目を凝らせば、女主人の手には、鈍く光る金貨が三枚も握られている。


「こちらの旦那様は、今日から二階の角部屋にお泊りだよ。長く滞在なさるそうだから、ようくお世話をおし」


 初めて実物を目にした金貨に声を上げかけたアスターは、男性に頭を下げつつ、視界の端で彼の身なりを盗み見た。下ろせば肩甲骨を過ぎるほどまで伸びているのだろう黒髪は、緩く一本に結ばれ、右の肩口に垂らされている。顎には無精ひげがあり、左目を覆う眼帯が目立つ、四十代と思しき客。肌は僅かながらに浅黒く、羽織る上着は煤けたビロードだ。大小合わせて五つある鞄も、もれなく薄汚れている。


 出会ったばかりのアスターにとって、うらぶれた宿屋でも簡単に金貨を使えるほどの富豪が彼の正体であると類推することは、至難の業だった。


――ひょっとすると、盗んだお金じゃないかしら。


 胸の奥がすっと冷えた心地に、少女は身体を強張らせる。眼帯で塞がれた左目も、平穏からは遥かに遠い世界の生き方を連想させた。


「だ、旦那様。お荷物を預かります」


 声の端を震わせるアスターは、何気ない彼の一瞥でまた心臓をすくませた。男の眠たげな右目が焦点を合わせているのは、両の掌を上へ向けて差し出された、少女の稚い手だ。


「旦那様……?」


 暫しの目視の後、男は革袋を全て持ったまま、階段を上がり始めてしまった。やや猫背気味な成人男性と重しとを一度に受け止めた階段は、男が足を踏み出すたびに悲鳴を上げている。


「えっ……え? あ、あの、お待ちください!」


 目を白黒させながらも、どうにか二階で彼に追いついたアスターは、頭二つ分ほども上から見下ろしてくる、右目だけの視線を手痛く感じた。辛うじてひねり出した、左の突き当たりまでの道案内が客の耳に届いたかどうかも、黙りこくった相手の様子からは判然としない。宿屋の女主人は、音の外れた鼻歌で上機嫌だ。酒瓶を求めて台所へと消えていく即興曲を遠くに聞きながら、アスターは、治まる気配のない緊張を胸に抱いていた。


――何者なんだろう。賊崩れなら、もっと荒っぽいような気もするけど。もしかしたら、大人しくしているのは今だけとか?


「……おい」


――あたしたちを油断させるために、暴れるのを堪えているのかもしれないし。女しかいない宿屋なんて、片手だけで制圧されてしまうかも――


「なあ、お前さん」

「は、はい!」


 やや俯きながら物々しい空想に耽っていた使用人は、男からの二度目の呼びかけでようやく顔を上げた。しかし、その勢いの良さと、停止が間に合わなかった脚が災いして、彼女は壁へしたたかに顔をぶつけることとなったのだった。


「……そのまま行くとぶつかるぞ、と……言おうとしたんだが」

「……すみません」


 鼻先が曲がったかとも錯覚した少女の顔は、外目にはどこにも傷はついていない。アスターを苛むのは、顔面の骨を伝った衝撃の余韻と、本人からすれば突然に迫ってきた壁への驚きに、それから、音もなく垂れてきた鼻血の三つだった。


――もう、踏んだり蹴ったりだ。


「ごめんなさい、……ええと、お部屋は、こちらです」


 右手で小鼻を摘みながら、アスターは掌を上に向けた左手で扉を指し示した。粘度が低く赤い雫が、なだらかな凹凸で波打つ床にぶつかる。高さも量も足りない血の王冠は、円に棘をつけたような模様となって板材に張り付いた。


「後ほど、お掃除に来ますので」


 腰から曲げた一礼を置いて、少女は階下へと逃げ去っていく。雑巾を置きっぱなしにしていた裏口に到着したアスターは、水難を免れた薄い岩へ腰を下ろし、鉄の味がする唾液を飲み下した。


 早朝まではおろしたてだったカートルは、全体が水でしっとりと濡れ、胸元には赤い染みまでついている。着用してから経った時間とそぐわぬくたびれ方に、アスターは縮こまるようにして肩を落とした。血が止まるのを待ちながら、自ら肉を抉ってしまった指と、頑なに抜けようとしない指輪を眺める。てんとう虫よりも小さな宝石は、煌々と陽光を反射させていた。


――まだ、そうと決まったわけじゃないけど……指輪の力を使うのは、できるだけ控えよう。単なる飾りになっても、お父さんからの大切な贈り物であることには、変わりないんだから。


 握り込んだ左手は、微かに震えていた。膝を上半身の近くへと寄せ、膝に顎を乗せたアスターは、雲の流れが早い空の青さに目を細める。隣の民家の屋根では、白鳩が風切羽へ脂を伸ばしていた。


「……あの旦那様も、本当は、怖い人じゃないのかも」


 彼の声色は、戦々恐々としていた少女の予想を裏切って、落ち着きが感じられるものだった。手遅れだった声掛けの中身も、身を案じての注意であったことが、アスターの脳裏に新しい記憶として刻まれている。恐怖と好奇心がないまぜになった少女の足元では、手を伝った鉄臭い雫が、平たい石にぽたりと落ちた。

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