緑の指輪と思い草
翠雪
第1章 緑の指輪
第1話
「アスター! いつまで掃除しているつもりだい!」
雲一つなく高い晴天に、宿屋の女主人のしわがれた声が響く。廊下の突き当たりに設えられた窓は、換気のためにと大きく開け放たれている。癖のない黒髪を項近くで二つに結び、背中へ垂らした少女の周りを、ちらちらと陽光を跳ね返す埃の粒が舞っていた。袖を捲り、冷たい濡れ雑巾で床を拭いていたアスターは、立ち上がって階下の雇用者に顔を見せる。春の朝は、まだ寒い。
「ご、ごめんなさい、あと少し――」
「店が閉まる前に、とっとと買い出しに行くんだよ!」
了承の返事をするために開かれたアスターの口は、早々に女主人が厨房へと踵を返したことにより、役を全うしないまま閉じられた。鼻腔を通じて短い溜め息をついた少女は、残り一往復分が乾いたままの、長い廊下を眺める。
「よし」
再び膝を折り、ささくれが散見される黒柿色の木の板を、四つん這いになって駆け抜ける。衣服の一番奥にしまい込まれた首飾りが、とん、とん、と、アスターのなだらかな鎖骨を軽く叩く。長らく新調していない木靴が、十五歳の爪先に鈍痛を与えていた。
――――――
太陽が真上に昇る頃ともなれば、村民たちが噴水広場に行き交い始める。木組みの枠を漆喰で塗り固め、傾斜のある屋根を被せた沿道の商店には、扉の脇に絵入りの看板が備え付けてある。干し蔦のバスケットを左肘にかけたアスターは、看板に赤紫のビーツが描かれた、八百屋の店先で足を止めた。陳列された木箱には、数十種類の野菜や果物が所狭しと詰められている。
いずれも形が不揃いなキャベツ、ポワロー、オレンジを手際よく籠に入れていく少女は、様々な豆が並んだ木箱の前で立ち止まる。段々と眉間の幅を狭くさせながら軒先を三往復したアスターが小さな決心をもって顔を上げると、その一部始終を眺めていたらしい店主の妻と、不意に視線がかち合った。幅の狭い少女の肩が、小さく揺れる。
「なんだい、もういっぺん折り返すかと思ってたよ」
ショールを羽織った女性は、顎をしゃくるように頷く。店番用の木椅子に座る彼女の腹には、新しい命が宿って長い。傍目にもその膨らみが分かるほど大きくなった未来の母から、アスターはそっと視線を逸らした。
「そら豆は、ここに出ているもので全部ですか」
「ああ。今日はそれでおしまい」
「……明日の分を、少し出してもらっても?」
「ダメダメ! あたしゃね、亭主みたいにどんぶり勘定しないよ。あすこの女将はおっかなかろうが、運が無かったと思って諦めてくんな」
夕食の献立に組み込まれているスープには、たっぷりのそら豆が欠かせない。水分を多く含む、豆類では殊に足が早い野菜である代わりに、安価な食材としては大変に頼りがいがあるためだ。大陸の四割を占めるクロワ帝国といえども、片田舎の村民全員が裕福でいられるわけはない。安酒で呂律が回らなくなり、巣を追い出された一家の主たちを泊めることで食いつないでいる安宿ともなれば、尚のこと。皇帝と教皇のおわす、華やかなりし帝都の暮らしは程遠い。
――人参なら日持ちもするけど、実が少ないし。
そら豆の代わりに買っていく野菜と、気性の荒い雇用主への弁明を吟味している少女の耳に、路地裏で野菜のくずを纏めているらしい店主の声が届く。彼に直接頼もうかと考えたアスターは、馴染みの店主がいる方向を見遣った。
「こんなん食ったら腹壊すぜ。もっとまともなモン持ってきてやるから、ちょいと待ってな」
「いいえ、そんな……その、あなたさまが捨てようとなさっていた、端っきれで良いのです。それだけで十分……」
先の声は、独り言ではなかったらしい。布を深く被った物乞いの足には、地面に転がる石を踏んだのであろう切り傷がある。麻のぼろきれは雨風と垢で黒ずんでいる上、裾から伸びている四肢は、ほとんど骨と皮ばかり。不規則に割れた爪も、全て黄色く濁っていた。
物乞いのか細い遠慮を置き去りにして、室内へ戻っていった店主は、ほどなくして元の勝手口から顔を出した。彼の右手には、片手に収まる大きさの小袋がしっかと掴み上げられている。
「うちじゃ材料しか扱っちゃいないが、あんた、どう見たって鍋のあてがなさそうだ。こいつでパンでも買うといい」
「……本当に、よろしいのですか? 私には、何も差し出せるものがありません」
「いいって! 腹が空くのは、誰にだって堪えるよなあ」
おまけに大仰な笑いもつけた亭主は、男の痩せた手をとり、硬貨入りの袋を乗せた。形状が変わるほど強く握り込まれた袋の中で、銅貨が互いの身を寄せ合い、小さな金属音をたてている。
「ああ……。ありがとうございます、どうも……」
「全く、困った人だよ」
アスターと同じく、夫と何某かの会話を盗み聞きしていた妻は、ついたばかりの悪態とは裏腹に、薄い唇の端を上げている。そら豆の代用品となる、なるたけ根が短い玉ねぎを同族たちの中から選び終えた少女は、言葉だけ辟易としてみせる店番へ、代金をぴったり支払った。
「お優しい方じゃないですか」
「そこに絆されちまったんだから、しょうがないね」
「ふふ」
店番の女は、おもむろにアスターの手を掴む。少女が目を丸くしているうちに、渡された金銭のうちいくばくかが、頼りなげな掌へ戻されていた。
「……え、っと?」
「散髪代の足しにでもおし。このまんま貰うのは、今日ばっかりは気が引ける」
肩をすくめた彼女は、腕を組んで両手を仕舞う。返却先を失ったアスターは、暫しの逡巡の後で、渡された小銭をポケットに収めた。ささやかな衣食住の他に、宿の主人から保証されるものが何もないアスターにとって、めったに得られない賃金だった。
縮こまる彼と、晴れやかな顔で相手を見下ろす八百屋の店主も、今日の天気に引けを取らないほど清々しいひとときの交差を終えようとしていた。誰もが口元に笑みをたたえ、互いを柔らかな眼差しで見つめている、平和を絵に描いたような昼下がりだ。
その刹那、春のつむじ風が、彼らの間を通り抜けた。
「あっ」
物乞いが深く被っていた布が、寒気を孕んだ突風に攫われる。軒先の縁から覗いていた、アスターのほど近くで動きを止めたぼろきれからは、つんと饐えた臭いが発されている。鼠にかじられたと思しき穴がいくつも開き、まるで肥溜めで織られたかのように凄まじい。思わず顔をしかめたアスターだったが、軽く首を横に振った後は、口から吸った息を喉元で止めて、たわんだ布を拾い上げた。
――きっと、あの人にとっては大事な「服」だろうから。
「あの、これ」
落としましたよ。そう続けようとしたアスターの足元へ次に訪れたのは、勢いよく倒れ込んできた物乞いだった。
「悪魔だ!」
仁王立ちで怒りをあらわにしながら声を張り上げる八百屋の亭主は、両手の拳を固く握っていた。先程までの笑みはどこへ行ったのかと尋ねたくもなるほどに、乞食を険しく睨みつけている。地面に倒れ伏した男は、真っ赤に腫れあがった自身の頬をさしおいて、散らばった銅貨を必死に手繰り寄せている。それに気を取られた少女は、脂で束になった髪の隙間から覗く、物乞いの澱んだ瞳をも見てしまった。
「ひ、ッ」
――緑色!
翠眼の男から飛び退いたアスターの手から、使い古した雑巾と同等か、それを上回って黒ずんだ布が滑り落ちる。大股で男の元へと歩み寄ってくる店主は、眉間に深い溝を三本作っていた。
「勇者様に討伐された悪魔の、呪いの証だ! この野郎、人間様を騙そうとしやがって、ただじゃおかねえ」
掻き集めた銅貨を胸元へ抱え、頭と足を丸めた瘦身の男を、あらん限りの力を込めた店主が蹴り飛ばす。革製のボールのように軽やかな軌道を描いた放物線は、噴水の外縁が終着点となった。血と胃液を吐く彼の後頭部に沸いた虱は、石造りの噴水の中で、鉄の味の海に溺れている。芋虫のように石畳を這い、暴力から逃れようと蠢く男を円の中心として、呪いの根源から一歩でも遠くへと向かうべく、誰も彼もが外側へと駆けていく。
「悪魔ですって、穢らわしい……」
「窓を占めろ! カーテンもだ、悪魔がいるぞ」
「うわああぁあん、嫌だ、怖いよお」
「さっさとおいで! 睨まれたら、すぐに呪われちまうよ!」
客寄せに精を出していた辺りの商家は、八百屋の店主の怒声を第一波として、次々に玄関を施錠していく。買い物に勤しんでいた村民も、蜘蛛の子を散らすように己の家へと走り出し、大人に押されて転んでしまった幼子までいる。強くなり始めた風で運ばれてきた曇天が、騒然とする広場を暗く覆っていく。
「アンタも、早くお帰り。悪魔の服に触っちまったんだし、すぐにでも神父様に清めてもらうといい」
「で、でもあたし……儀式をお願いできるほどのお金なんて、どこにもなくて」
おこぼれで貰った釣り銭では、修道士すら見向きもしない。
「……せめて、水は浴びておくんだよ」
憐憫の眼差しを最後に捨て置いた妊婦は、アスターを店外に残したまま、なだめすかした伴侶と共に玄関をくぐる。漏れ聞こえてくる物音は、教皇が常在する帝都の教会に向かうための、慌ただしい旅支度によるものだった。
少女が次に訪ねるはずだった乾物屋も、腰の曲がった老店主が扉を閉めた。取り残されたのは、泡を立てながら息をする翠眼の物乞いと、彼を避けて家路を急ぐ人々と、立ち尽くすアスターばかりだ。
「……帰ろう」
――悪魔が出たんだから、しょうがない。
クロワ帝国の統一時から伝わる、勇者の伝説。国教の聖書にも編まれた英雄譚にて、最後の敵として立ちはだかるのが、翠眼の「悪魔」だ。角と眼球を三つずつもち、天を覆い隠すほどに大きな黒い翼で闇を操る、不気味な魔物である。
そして、おびただしい数の殺戮と蛮行の末に勇者に討伐された「悪魔」と同じ、緑色の瞳をもって生まれた人間は「悪魔」の生まれ変わりなのだと、国民は長らく信じてきた。
――帰らなきゃ。
雫をこぼし始めた曇天に急かされて、腱が擦れる木靴へ赤を滲ませながら、少女は宿屋への道を辿る。司祭に浄化の儀式を頼めるだけの献金のあても、膝をついて祈るだけの時間もないアスターは、せめて、雨がこの身を濯いでくれるようにと願う。着古した服が肌に張りつき、気鬱な帰り道が、さらに不快な感覚を纏っていく。
足元の水溜まりと、噴水の両方に注がれた物乞いの血が、透明だった液体を赤く染め上げる。彼が這いずるさまを見守る者は、広場の中に誰一人として残らなかった。
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