テーマ: 風邪





ゲホゲホゲホ




お隣から咳が聞こえる。




今年の風邪は持ち回り制らしく、

誰かがゴホンとやり、その人が治る頃に

別の人がゴホンとなり、その度にコロナの疑いで緊張が走る。

幸い陽性になる人はおらず、

しかし入居者さんに風邪を移すわけにもいかないので

どうしても人手が足りなくなってきている。



うーん、どうしよう。



幸いなことに自分はまだ今回の風邪をひいていない。

今の状況で自分が風邪をひくと

職場がさらに逼迫し、無理をした人の免疫が下がり

風邪に感染し、さらに…という悪循環になりかねない。



お隣さんのことはよく知らない。

数日おきに女の子が通ってきて

ゴミを捨てたり何か話をして

帰っていくのは知っているが、それだけだ。


女の子のことも漏れてくる声しか知らない。

お隣さんの声は小さすぎて聞こえないため、

男か女かもわからなかった。

咳き込んでる音からすると女の人っぽいなあ、と

身支度をしながら考える。



うーん、どうしよう。


お隣さんのこと全く知らない。

コンビニのオーナーからは知らない人と話をするなと

割ときつめに言われている。



あなたの住んでるアパート、

どんな人が住んでるかよくわからないし、

変な人かもしれないから関わっちゃ駄目よ。



普段お世話になってるオーナーさんの忠告だし

ちゃんと聞いておきたい。




だけど。




先月のことだ。

夜勤明けだったのに、子供が熱を出して休みとなった

同僚の穴埋めをすることになり、

そのまま夕方まで仕事をすることになった。

その日は普段ご機嫌な入居者さんがなぜか風呂を嫌がり

別の入居者さんもご飯をいやいやして時間がかかり

とにかく疲れていた。



アパートに帰ってきて気が緩んだのか

階段前でうずくまってしまい、

このまま寝落ちしたら気持ちよさそうだと

誘惑に負けそうになっていたら声をかけられた。



見上げると知らない男の人だ。



無視しようかどうしようか迷っていたら、

俺、そこに住んでるんですけど、と

アパート一階の真ん中の部屋を指される。



上に住んでる人っすよね。

大丈夫すか?救急車呼びます?




どうも急病人と間違えられたようだ。

違うんです、ちょっと疲れて休んでただけです。

起き上がって階段を登ろうとしたら、

ちょっと待ってと呼び止められる。



男の人は自分の部屋の鍵を開け中に入ると

ビニル袋を持ってきた。



中にはみかんとカップうどん。



顔色悪いよ。

あまりもんで悪いけど、持ってけよ。

起きて腹減ってたらすぐ食えるよ。




お大事に。




そう言ってモノだけ渡すと

さっさと部屋に戻って行った。



鍵を開けたら再び鍵をかけるので限界だった。

風呂にも入らず、着替えもせずに

布団に潜り込んでぐうぐう寝た。

夜中に起きた時、みかんを食べた。

美味しい。

その時初めてとても空腹であると気がつき、

電気を付けてお湯を沸かし、

うどんを食べた。

見にしみる美味しさだった。




うーん、どうしよう。




あの時嬉しかった。

うどんもみかんも美味しかった。

下の部屋の人のことは全く知らないけど、

知らない人にも親切な人がいるとわかった。



出勤時間迄まだ少し時間がある。

悩んだ時は相談しよう。

部屋を出て、近所のコンビニに行く。

オーナーさんはいなかったけど、

顔見知りのバイトの外国人のお姉ちゃんがいて、

お隣さんが風邪引いてるけどどうしようと相談したら

オーナーを呼んでくれた。


オーナーは少し難しい顔をした後で、

コンビニの袋に風邪薬とのど飴、

ゼリー飲料とポカリを入れた。

あそこのアパートの人あんまりよく知らないのよ。

女の人の姿もほとんど見てないし。



顔合わせずに、袋をドアノブにかけるだけにしなさい。



顔は厳しいままだが、そう言って袋を渡してきた。

代金を支払おうとすると、

病気のお見舞いにお金とれないと笑った。

タダはまずい、何か買わなきゃと慌てて見回すと

レジの前にみかんがあった。



みかん。



自分用に、という名目でみかんを買った。

あと、メモも一枚もらって、ボールペンも借りた。



知らない人からもらうの嫌かもしれないし。



ガリガリと走り書きする。




今から戻って職場に行くとギリギリだ。

少し焦る。



オーナーにお礼を言って

慌ててアパートに戻る。

ドアをノックして袋をかける。時間がない。



パタパタと階段を降り、小走りで職場に向かった。



あの日のみかんは本当に美味しかった。

真夜中に食べた温かいうどんがとても助かった。




相手が袋の中身をどうするかはわからない。




そんなことは知らない。

だけど、あの時自分はとても助かって嬉しかった。




だから同じことをする。




職場には1分前に到着した。




汗だくだったが、気持ちは明るかった。






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