第7話 彼女の過去


  ◆◇◆



 ……夢を見ていた。私―――城井花子は、自分が夢の中にいることを自覚していた。明晰夢というものだろう。

 夢の内容は、私の過去。私の人生そのものだった。私の一生を、おさらいするかのようだった。



「花子、外で遊んでなさい」

 私を育ててくれたのは、両親ではなく祖母だった。両親は、私の異様な外見を気味悪がったらしく、渋々祖母が拾ってくれたらしい。とはいえ、祖母も私のことは気味が悪かったらしく、あくまで捨てるのは忍びないという理由だけで引き取っただけだ。故に、祖母は最低最小限の面倒しか見てくれなかった。私が歩けるようになると、一度だけ近所の公園に連れて行ってくれた。そしてそれ以来、日中は公園で遊ぶように言われたのだった。私を疎ましく思っているのだと、子供ながらにも分かった。

「あー! またきてるー!」

「きもーい!」

 公園には、同年代の子たちが何人かいた。でも、その子たちも私を気味悪がって、避けたり悪口を言ってきたり、場合によっては石を投げてきたりした。さすがに石を投げてきたときはその子の母親が止めたけど、私に謝ることもなく、ただ私に関わらないように子供に言いつけていた。そんな調子だったから、私は毎日公園の隅っこで小さく蹲って、日が沈むのを待っていた。

「今日は雨だから、本でも読んでなさい」

 祖母もさすがに、雨の日まで公園に行けとは言わなかった。代わりに与えられたのは、一冊の本。どこぞの大学教授のエッセイで、間違っても小学校にすら通ってない子供が読むような本じゃなかった。そもそも当時の私はまともに字が読めなかったし、当然ながら本の内容は全く理解できなかった。……それでも、祖母が私にくれたのは、生活や学業に必要なものを除くと、その本だけだった。つまり、祖母からの唯一のプレゼントだったのだ。その日から私は、公園に行くときもその本を持って行っては、まともに読めない本を一日中眺めていた。それでも、テレビの字幕などから少しずつ字を覚えてちょっとずつ解読していくのは、当時の私にとってただ一つの娯楽だった。



 小学校に入学してからも、私は相変わらず一人だった。露骨な暴力などはなかったものの、いわゆるいじめのようなことはされていた。暴言を吐かれたり、軽く押されたり、物を隠されたり……仕方がないので、休み時間は極力図書室に籠るようになった。図書室では静かにしなければならないので、暴言を吐かれるようなこともないからだ。

 それに、本を読むのは好きだった。学校で文字を習ったおかげで、祖母から与えられた本も解読が進み、半年ほどで内容を全て読み解くことに成功した。正直内容そのものは面白くなかったけど、今まで分からなかったものが分かるようになるというのは、大きな達成感があってとても気持ちよかった。それからは他の本も読み漁るようになったし、授業を受けるのも楽しみになった。他人とのコミュニケーションは依然として難題だったけど、他の人たちが喋っているのを参考にしながら、最低限の会話だけでも取り繕うことで何とかやり過ごしていた。



 平日は学校に行き、放課後は図書室で宿題をやりつつ空いた時間に読書をして、完全下校時間まで居残る。休日は近所の図書館に入り浸る。その生活がしばらく続いた。けれど、それは唐突に終わりを告げた。小学四年生の頃、祖母が亡くなったのだ。祖母の葬式で、私は生まれて初めて両親と出会った。両親は、私のことをこれでもかというくらいに口汚く罵った。祖母が死んだのも私のせいだと決めつけた(祖母の死因は交通事故だ)。葬儀に参加していた他の大人は、私を庇ったりはしなかった―――というか、偏屈な祖母の人柄ゆえか、そもそも葬儀に参加した人が少なかったけど。



 祖母が亡くなり、両親は当然ながら私を引き取ろうとはしなかったので、私は児童養護施設に預けられた。

「いらっしゃい、花子ちゃん」

 私が預けられた児童養護施設水野園の園長さんは、私を温かく迎えてくれた。

「事情は聞いているわ。……辛かったでしょう。もう大丈夫よ」

「……あっ」

 園にやってきた私を、園長さんは優しく抱きしめた。私にとって、それは初めて感じる他人の体温だった。その温かさに、私は―――

「……おえぇ」

 生まれて初めて吐いた。園長さんの胸の中で、これでもかというくらいに嘔吐したのだった。……このとき初めて知ったのだけれど、どうやら私は他人の体温が苦手らしい。祖母は私を気味悪がってスキンシップなんて一切取らなかったし、他人に触れるのは決まって暴力を振るわれる時だけだったから、今まで気づかなかったのだ。

 至近距離で吐瀉物を掛けられた園長さんは、怒るどころかより一層私のことを不憫に思ったようで、優しく微笑んでくれた。……でも、それが私にとっては苦痛だった。今まで誰かに優しくされたことがないせいなのか、他人から優しくされることに、好意的に接されることに強い拒否感を覚えてしまうのだ。それは、同室になった同居人に対しても同じだった。友好的に接してくるその子に、私は強い苦手意識を持ってしまった。

 施設に入ってからの生活は、とても辛かった。施設の人たちは、職員も他の入居者もみんな良い人だったけど、居心地だけは最悪だった。私が他人を苦手なのはみんな理解してくれたらしく、積極的に絡んでくる人はいなかったけど、その優しさが余計に辛かった。他人から悪意以外の感情を向けられるのが怖かった。身近に優しい人たちがいるのがストレスで、ましてや自室には同居人がいるので、夜は全く眠れなかった。仕方なく、こっそり部屋を抜け出して倉庫で眠った後、みんなよりも早く起きて部屋に戻ることで睡眠時間を確保していた。



 学校は相変わらずだったけど、学年が上がるにつれて実害があるようないじめも少なくなっていったのもあって、施設よりもずっと過ごしやすくなっていた。けれど、中学に上がる頃には少しだけど、私の見た目を気にせず友好的に接してくる人が現れ始めていた。恋愛学習の授業時間が小学校の頃より多くなったからなのか、それとも思春期だからか、特に男子からの反応が変化するようになった。具体的には、告白されることが何度かあったのだ。当時流行っていたアニメの影響なのか、私の奇抜な見た目も好意的に受け取られたらしい。……でも、私にとっては向かい風だった。男子特有の性欲を向けられるだけならば大して気にならないけど、恋愛感情なんてものは到底受け入れられるものじゃない。人から好かれると思うと吐き気が止まらない。告白は当然断っていたのだが、そのせいか却って高嶺の花というイメージがついてしまったらしく、居心地の悪さは拭えなかった。未だに気味悪がってくれる人たちに心底感謝したくなるくらいには。

 人付き合いとは別に、学業のほうでも問題が起こった。中学に入って最初の実力テストで、学年一位を取ってしまい、目立ってしまったのだ。小学生の頃から勉強に打ち込んでいたものの、他人とテストの結果を見せ合うなんてことはしたことがなく、通信簿も他人の成績は書かれていなかったために、自分の成績が他人より優れているということに気づかなかったのだ。今にして思えば、成績上位という肩書も、周囲の態度が軟化する一因になっていたのだろう。それ以来、テストの際には程々の成績になるように手を抜くようにした。



 進路を決める時期になって、私は中卒で就職するつもりでいた。勉強は好きだけど図書館に通えば出来るし、施設から一刻も早く出たかったからだ。でも、中学の先生や施設の職員から猛反対されて、渋々近くの高校に進学することにした。

 入試の時は、どの程度の点数を出せばいいのか分からなくて、加減を間違えたせいで特待生になってしまった。とはいえ、それは別に大した問題でもなかった。

 一番の問題は、高校では恋愛学習が本格化すること。今までの座学だけじゃなくて、学校主催の合コンなどのイベントが開催される。そうなれば、今まで以上に誰かから好意を寄せられることになるかもしれない。そうでなくても、イベントの内容次第では他人との身体的接触もあるかもしれない。どちらも、私にとっては許容出来ないリスクだった。だけど、回避する方法は一つしかない。誰かとカップルになること―――誰とも付き合いたくないのに、好意すら抱かれたくないのに、それを防ぐには誰かと付き合うしかない。とんでもないジレンマだった。

 恋愛学習については棚上げするしかないまま、私は高校生活をスタートさせた。幸い、クラスメイトから積極的に話しかけられることもないまま、最初の一週間は過ぎていった。そして、その一週間で気づいたことがあった。隣の席の男子―――黒岩高志君。彼はどうやら、他人をやたらと疎んでいるみたいだった。最初は、私の外見を気味悪がっているだけだと思ったけど、すぐに違うと分かった。彼は単純に、他者の存在そのものを、この世に他人が存在するという事実そのものを嫌っているようだった。そしてそれ故に、他人の外見や個性などの情報については無関心だった。そんな彼を見て、私はこれを好機だと思った。

 私は、私に対して好意的に接してくる相手が苦手だ。でも、彼は他人を全て一律で嫌っている。そして、個人の差についてはあまり意識していない。つまり、彼は私のことを決して見ようとはしないだろう。視界に入っていても、例え会話したとしても、私のことを記憶に留めようとしたり、私に関心を持ったりはしない気がする。私に対して悪意を向けつつも、私自身には一切興味を持たない。もしも私と深く接する機会があったとしても、私に好意を抱く可能性がない。そんな彼は、私にとって、とても理想的な存在だった。―――都合が良い、と表現するほうが適切だろうか。



「……ねえ。……ちょっと、いい?」

 恋愛学習を終えたある日、私は思い切って彼に話しかけた。案の定、彼の反応は芳しくなかったけど、私は諦めずに声を掛け続けた。ちょっと話して分かったけど、彼はかなりの面倒臭がりだ。しつこく構い続ければいずれ根負けしてくれるだろうと踏んでいたら、割とすぐに折れてくれた。

 高志君とはカップルになったものの、彼は相変わらずだった。私に対して微塵も興味がない。興味がなさ過ぎて、私の名前すら覚えていなかったのはさすがに誤算だったけども。そのせいで、聞き取り調査では調査官の人から怒られてしまった。たまたま寛容な人だったから良かったけど、そうじゃなかったら一発でアウトだった。私のことを好きにならない人を選んだせいで、まさかこうなるとは……。

 このままではいけないと思って、私は高志君をテスト勉強に誘った。一緒にテスト勉強をするというシチュエーションはいかにもカップルっぽいし、こういうイベントを何度かやれば、次の聞き取り調査でボロを出しにくくなるだろうと思ったのだ。

 図書室でのテスト勉強は、思いの他捗った。いつもなら、近くに人がいる教室などではあまり勉強が捗らず、図書館まで赴いて自習スペースで勉強するほうが効率的なのに。思っていた以上に、高志君の傍は落ち着く―――というよりは、他人の近くであることを意識しなくて済むみたいだ。

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