ふたりぼっち
みてぃあ
ひとりぼっちの私と僕
「嬉しい」の反対は「悲しい」じゃない。「ありがとう」の反対は「ごめんなさい」じゃない。
「怒り」の反対は「喜び」じゃない。「好き」の反対は「嫌い」じゃない。
そのことに気づいた時には、全部が遅くて、私は君に「後悔」を返した。
僕の行動すべてが感情を裏返していたことに、気づかなかった。
裏返しの感情は、好きを「肯定」するために必要なものだった。
これから話す物語は、僕が「感情」に気づいて「肯定」する物語。若しくはその、アンチテーゼ。
そこは、廃棄場だった。薄暗く、咽せ返るような灰の匂い。視界がぼやけて、歩いても歩いても永遠に変わらない景色が続いていた。灰に塗れた空気を吸いながら、私は随分と長い間この廃棄場を歩き続けている。
歩き続けてどのくらい時間が経っただろうか。数時間……数日……数ヶ月……数年…………、もう始まりがいつだったのかすらも忘れてしまった。ここに来るまでたくさんのものを見てきた。
白い地面、橙色のシャボン玉。青いカンパニュラ、赤い稲妻、黄色のランタン、そして黒い星空。でも、今となってはその全てが消えていってしまった。目に入ったものは全て潰されて、燃やされて、埋められた。今通る道にはもう何もない。ただ終わりが見えない、ビルのようなフェンスに沿って歩き続けているだけだった。
今日は不思議なものを見た。それは視界を覆うほどに眩しい人影だった。灰に覆われた廃棄場の中で、その光だけが不自然に浮かび上がっていた。まるで、周囲の灰色の世界を否定するかのように。その人影からは、光の粒子のようなものが絶えず舞い上がり、消えてはまた現れていた。ずっと歩き続けていた私の足は、一瞬止まった。驚いたわけではない。ただ、目の前に広がるその光景に、理解が追いつかなかった。
人影は私の方を向いていなかった。けれど、確かに私の存在に気づいているように感じた。その光の強さと暖かさが、まるで「君はここにいるんだ」と伝えようとしているようだった。ずっと薄暗い空間を孤独に歩き続けていた私には、それが重くも、救いのようにも感じた。
「君は……誰?」と、声をかけようとしたが、声が出なかった。代わりに、その人影は静かにこちらを振り返った。その瞬間、眩しい光が少し和らぎ、人影が少しずつ形を成していった。その顔は見覚えがあった。でも、それが誰なのか思い出せない。でも、その人影は私の疑問に答えてくれる、そんな予感がした。
「君は誰?」と再び問いかけようとしたが、声は喉の奥で詰まったままだった。代わりに、心の中で問いが膨らんでいく。ここがどこなのか、何が起こっているのか、どうして自分はこんなにも長くこの廃棄場を歩いているのか。頭の中に疑問が渦巻き、言葉にはならない。
人影はゆっくりと私の方に振り返り、目を細めた。眩しい光がわずかに弱まり、その姿がはっきりと見えてきた。驚くほど静かで、何か神聖なものに触れたような感覚が広がった。だが、その顔立ちはぼやけていて、誰なのかはやはり思い出せない。
「ここは……どこ?」ようやく言葉が漏れた。
人影は答える。声は柔らかく、かすかに響いた。「ここは、君が歩いてきた場所。君自身が作り上げた道。」
その言葉は、何かを示唆しているようで、同時に不確かだった。まるで霧の中にいるような気分がする。私はもう一つの疑問を口にした。
「じゃあ、途中で見たものは…? あの白い地面、橙色のシャボン玉……青いカンパニュラ、あれはどうなったの?」
人影は少し笑ったように見えた。
「それもすべて、君の記憶だよ。君が手放したもの、置き去りにしてきたもの。」
「手放した……」
人影は再び前を向き、視線は遠くの何かを見つめている。
「そうだ、君はずっと歩き続けている。何かを探しているんだろう? でも、探しているものはこの場所では見つからない。」
私は何かを感じ始めていた。だが、それが何かはまだはっきりと掴めなかった。人影の言葉は、答えのようでいて、同時に別の疑問を生んでいく。
私は静かに息を吸い込み、目の前の人影を見つめた。彼の言葉は確かに何かを示唆しているけど、まるで霧の中に答えを隠しているようだった。頭の中で浮かび上がる疑問は、さらに深まっていく。
「探しているものは……この場所では見つからない」その言葉が何を意味しているのか考えながら、私はもう一度尋ねた。
人影は少し首をかしげ、まるで私がすでに答えを知っているかのように静かに言った。
「君が歩き続けているのは、逃げるためでもある。君自身が大切なものから目を逸らし続けてきたんだよ。」
「大切なもの……それは何?」
「それは向こうの世界で見つけてみて。少なくともここにはない。」
「向こうの世界?それはどこにあるの?」
「君の現実に。また向こうで会おうね、いってらっしゃい。」
その瞬間、心の中で何かが砕ける音がした。これまで歩いてきた道、見てきた景色、それらは私の心の断片だった。
ふと気がつくと、目の前の景色がゆっくりと揺れ始めた。灰色の廃棄場はまるで霧が晴れるように溶け出し、日常の風景がゆっくりと、静かに現れてきた。耳には現実の音がかすかに届き始める。遠くで車の音や、人々の話し声が微かに聞こえる。私はふと目を開けると、自分の部屋のベッドに横たわっていた。戻ってきたという感覚が重くのしかかり、胸の奥にまるで何かを燃やし、潰して、埋めるような痛みが広がった。ベッドサイドのデジタル時計が淡々と時を刻んでいるのをぼんやりと見つめながら、私は深く、ゆっくりと息を吐いた。
目が覚めたのは、まだ薄暗い朝の時間だった。デジタル時計は六時を示していたが、部屋の中は無音で、外からの音もほとんど聞こえてこない。私はしばらく天井を見つめ、昨日の夢の残像が脳裏にちらつくのを感じながら、ゆっくりと体を起こした。全身が鉛のように重く、何もかもが現実のものとは思えなかった。夢の中で感じたあの灰の匂い、廃棄場の光景、そして人影と交わした言葉。それは私に何かを伝えようとしていた気がするけれど、その意味はまだ掴めないままだった。
「……行かなきゃ。」
自分に言い聞かせるように呟きながら、布団から足を投げ出し、床に立つ。冷たい床が足裏に触れ、少しだけ目が覚めた。無意識のうちに制服を手に取り、洗面所に向かう。鏡に映った自分の顔は、どこか疲れていて、昨晩の夢が未だに心を蝕んでいるのだろうかと思った。水を顔にかけ、冷たい感覚でなんとか気を引き締める。
朝食は特に食べる気分でもなかった。急いで制服に袖を通し、学校の用意を整える。食卓に朝ご飯は用意されていたけれど、口をつける気がしない。玄関の靴箱からスニーカーを引っ張り出し、無言のまま家を出た。
外の空気は思ったよりも冷たく、頬に当たる風が心地よい。朝焼けの中、学校に向かって歩き始めると、少しずつ周囲の音が耳に入ってきた。車のエンジン音、通学途中の学生たちの話し声、そして足音。すべてが日常の一部で、あの廃棄場とはかけ離れた現実だ。けれど、心のどこかでまだ、あの場所に引きずられている気がした。
教室に入ると、窓際の一番後ろの席に座る親友の姿が見えた。そこには儚い純白の菊の花が咲いている。その光景は、いつも通りの彼女らしく、でもいつもとは違う日常だった。その背中を見つめるたびに、心の中に小さな波紋が広がっていくのを感じていた。
彼女がこちらに気づくと、私に向かって手を振った。でもその笑顔が、以前のように自然に受け入れられなくなっていることに気づいた。何かが変わってしまった。一年前までは気軽に交わせていた言葉が、今は重く感じられる。
「おはよう!」彼女の声は明るく、周囲の空気を変えていた。でも、誰も彼女に返事をしなかった。それに対して私は、ただ微笑みを返すのが精一杯だった。言葉が口をついて出てこない。何を話しても、またあの瞬間を思い出してしまう気がして、恐れが胸を締め付けた。
彼女が近づくにつれて、心臓が高鳴る。どうにかして普通の会話を続けたいのに、何を言えばいいのか分からない。彼女が無邪気に話す様子を見ていると、私の胸の奥で何かが絡まっていくのを感じる。
「ねえ、最近どう?」彼女が尋ねる。普通の友達のように接してくれるその姿が、私の中の何かを刺激する。
「うん、まあまあだよ……。」その言葉は、心の中の重さとは裏腹に、何とか絞り出した本音のようだった。彼女は不安そうに私を見つめ、少し言葉を選ぶようにしている。
「そっか。この前のこと、気にしなくてもいいからね。」彼女の姿には、どこか微妙な光が宿っていた。私たちの間に流れる空気は、いつも通りの軽快さとは違う。まるで二人だけが知っている秘密のように、互いに隠していることがあるような気がした。ただ、忘れてほしくなかった。秘密のままでも、覚えていてほしかった。彼女にとっては、それがこの前のことなのだから。
その瞬間、彼女が優しく笑った。私の心の中のもやもやが少し和らいだ気がしたが、その分だけ、また重い感情が胸に戻ってくる。彼女の笑顔を見ていると、何かが胸の奥でもがいているようだった。
「じゃあ、また今度ね。」彼女がそのまま去っていくと、私はただその背中を見送るしかなかった。彼女の笑顔が、私の心に重くのしかかり、胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
彼女との短い会話の後、心ここに在らずのまま授業を受けていた。教室の中の声や黒板の文字は、まるで遠くから聞こえる音楽のように感じられ、実際には何を学んでいるのかも分からなくなっていた。目の前の教師の話が頭の中に入ってこない。時折、彼女の笑顔や彼女の言葉が思い出され、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
授業が終わると、廊下のざわめきに混じって、友達と笑い合う声が聞こえてきた。それを聞き流しながら、私はそそくさと学校を出た。
心の中には不安が渦巻いているのに、外に出ると、意外にも空気は爽やかだった。
帰り道、私は夕日に照らされた帰り道を歩きながら、気づけばいつもとは違う方向へ足を向けていた。太陽が沈む空をぼんやりと眺めながら、胸の中にあの土手の記憶が蘇ってくる。そこは、私が彼女に初めて出会った場所だった。
それは中学の頃のある夕方。部活の帰り道、ふと足を止めた土手の上で、一人で空を見上げていた彼女の姿が目に入った。真っ赤な夕焼けを背景に、彼女は静かに星が出るのを待っていた。私はその時、なぜか声をかけずにはいられなかった。思わず「何してるの?」と聞いたのが、すべての始まりだった。彼女は驚いたように振り返り、少し照れた顔で「星が好きなんだ」と答えた。その笑顔に、一瞬で惹かれてしまったのを覚えている。
それ以来、彼女と一緒に星を見るために、その土手へ足を運ぶようになった。いつもは一人でいた彼女が、私と過ごす時間を少しずつ楽しんでいるのがわかると、私の胸にはある感情が少しずつ芽生えていった。最初は友達としての「好き」だったはずが、気づけばそれは自分の知らなかった感情になっていた。
だけど、その「好き」はいつしか私の心を縛り始めた。彼女と一緒にいる時間は、楽しい反面、どこか不安でいっぱいだった。自分の感情が暴かれることを恐れ、何度も言葉を飲み込んだ。そして高校に入ってから、その気持ちは抑えきれないほどに膨れ上がり、あの日私は最初で最期の過ちを犯した。全て、私のエゴで、自分のことしか考えていなかった。
それから、私たちの関係はどこかぎこちないものになってしまった。彼女は、私を静かに受け止めてくれたけれど、返ってきた言葉は優しさとともに遠いもので、結局、私のいっときの感情は彼女を私の見えないところまで遠ざけてしまった。
その後、彼女と普通に話すことはできなくなった。教室の後ろ、窓際にあるあの席だけはずっと変わらなかった。どこか空々しく響く、夏の音。心の中は少しずつ霧にかかり、薄暗くなっていくのを感じた。
今日、再び土手へ向かうのは、そんな私の無意識の選択だったのかもしれない。心の中でまだ彼女に対する未練や、想いを整理しきれていない自分に気づいていたのかもしれない。それでも、土手に向かって歩き続ける私の足は止まらなかった。
沈みゆく太陽は、いつの間にか地平線に消え、あたりは薄暗くなってきた。土手が見えると、懐かしさとともに胸の奥にずしりとした重みが広がった。ここは彼女と過ごした、数え切れないほどの時間を思い出す場所だ。
草むらをかき分け、土手の上に立つと、遠くに広がる景色が目に飛び込んできた。川の流れ、風に揺れる草、そして空に浮かぶ無数の星たち。あの日と変わらない光景が広がっていた。
「また、ここに来ちゃった……」
小さく呟きながら、私は静かに腰を下ろした。心の中で繰り返される彼女との思い出が、胸を締め付けてくる。いつの間にか、空にはたくさんの星が瞬いていた。彼女と初めて話した時も、こんな星空だった気がする。彼女の笑顔がふと、頭の中に浮かんだ。
その笑顔に込められた感情の意味を、今でも考えてしまう。彼女が私に向けてくれた笑顔の裏には、何があったのだろう。答えを知りたい気持ちと、もう答えを知る必要はないんだという思いが、せめぎ合っていた。
星がきらめく夜空の下、私は土手の上で立ち尽くしていた。風は冷たく、静寂が心を締めつけるように押し寄せてくる。ここは、初めて彼女に出会った場所。まさか、こんな形で再び訪れることになるとは思わなかった。
あの日、偶然彼女とここで話をした。いつも一緒に過ごして、くだらないことから真剣なことまで話し合った。彼女の笑顔は、いつだって私の心を暖かく包んでくれた。それから私たちは親友になった。だけど、それが友情から愛情へと変わっていく過程は、自分でもはっきりとは気づけなかった。もしかしたら、気づかないふりをしていたのかもしれない。でも、気づいた瞬間にはもう、抑えきれないほど彼女のことを考えていた。
私は無意識のうちにこの場所へ足を運んでいた。星の下で、彼女に何度も語りかけることを想像しながら。それがまるで、もう一度彼女に会えるかのような錯覚に陥るための儀式のようだった。
すると、不意に背後から声がした。
「まだ、ここにいるんだね。」
振り返ると、そこには再び現れたあの人影――あの廃棄場で出会った人影が立っていた。黒い影が淡く星空に溶け込み、姿がはっきりしない。それでも、その声だけは私の心を貫いた。その声には、何か冷たいものが混じっていた。
「君がしたこと、そろそろその気持ちに向き合う時だ。君はもう逃げられない。彼女のためにも、私たちのためにも。」
その言葉が胸に刺さる。いや、理解している。私はもうずっと前からわかっていた。けれど、認めたくなかった。彼女と交わした、あの無意味で愚かな約束――期末試験。それは自分が彼女を失うきっかけとなったものであり、後悔の根源だ。
あのとき、私の中で芽生えた感情は、これまでに経験したことのないものだった。
友達として、彼女と一緒に過ごす時間は心地よく、楽しかった。それ以上の何かがあると感じ始めたのは、いつからだったのだろう。その違和感が、少しずつ胸の中で膨らんでいく。だけど、それが「好き」という感情だと気づいたとき、どう伝えたらいいのかわからなかった。怖かった。告白で、もしその関係が壊れてしまったらどうしよう――そんな恐れが、私を躊躇わせていた。
「勝負しよう、次の期末試験で。」
突如、口から出たその言葉は、意図していない形で彼女に想いを伝える手段となっていた。それは、自分自身の弱さを隠すための遠回しなやり方だった。直接気持ちを伝える勇気がなく、試験の勝負を通して自分の存在を認めてもらおうとしていた。私は、彼女との間に特別な絆を築くための"理由"が欲しかった。けれど、それは単なる自己満足に過ぎなかったと、今ならわかる。
彼女はその勝負を、笑顔で受け入れてくれた。
「ねえ、もし勝ったら、お互いに一つだけ、何でもお願いを聞くっていうのはどう?それなら、もっとやる気出るでしょ?」
その言葉は、私にとって希望の光だった。彼女の言葉にすがりつくように、私は自分の感情を押し殺し、死に物狂いで勉強を始めた。成績優秀でいつも学年一位の彼女に勝つためには、無理をするしかなかった。夜遅くまで机に向かい、徹夜を繰り返し、眠気と戦いながら問題集を解いていた。疲れ果てた体に鞭を打ちながらも、自分に言い聞かせていた――これが彼女に自分の想いを伝える唯一の方法だ、と。
私の心の中で膨れ上がっていたのは、彼女への憧れと焦燥感だった。
彼女は、いつも私の前を走っていた。どんなに頑張っても、彼女に追いつくことはできなかった。でも、今回の試験だけは、彼女と肩を並べたいと思った。そうすれば、彼女に私の存在を感じてもらえるはずだ。彼女が、私を見てくれるはずだ。そう信じて、必死に勉強を続けた。
期末試験の朝、疲れ切った体で教室に向かう私の足は、重く感じられた。それでも、彼女との勝負に負けるわけにはいかないという思いが私を支えていた。私にとって、この勝負はただのテストではなかった。彼女との関係を深めるための、大切な一歩だった。
教室に入った瞬間、彼女の異変に気づいた。
彼女の顔は普段の明るさを失っており、目の下には深いクマができていた。肌の色も青白く、全身から疲れがにじみ出ていた。それでも、彼女は笑顔を見せようとしていたが、その微笑みは痛々しいほどに作り物だった。
「どうしたの、大丈夫?」
心配そうに尋ねたが、心のどこかで安心しようとしていた。彼女が無理をしていることを、理解しないふりをしていたのかもしれない。自分の思いを伝えることしか考えられなかった私には、彼女の体調など一瞬の疑念に過ぎなかったのだ。
「大丈夫…ちょっと徹夜しすぎちゃったみたい。」
彼女は、かすれた声で言った。普段の力強い声ではなく、今にも途切れそうな弱々しい声だ。彼女がどれほど無理をしているか、その一言にすべてが詰まっていた。しかし、その声にはまだ強い意志があった。
「でも今日の勝負、絶対負けないからね。」
彼女の目には決意が宿っていたが、それはどこか焦点の定まらないものだった。疲れきった体に鞭打ちながらも、彼女は私との約束を果たすためにここにいたのだ。その事実が、私の胸を締め付けた。
気づくべきだった。
彼女が無理をしていることに。彼女が、この勝負を無理にでも続けることで、自分自身を痛めつけていることに。けれど、この時の私は、試験のことしか頭にない愚かな自分に支配されていた。勝つこと、そして彼女にこの不可思議な感情を伝えること。それが私の全てだった。
期末試験が始まった。数学、英語、理科、社会。時間が進むにつれて体力が削られていくのを感じる。それでも、勝負に勝つために必死に問題を解いていった。そして5限、最後の科目は国語。私はこの日の全ての体力を注いだ。教室の時計がカチカチと音をたて気持ちを急かす。みんなが一生懸命にペンを走らせる音が教室に響く。今日で一番の集中力、私は目の前の解答用紙に全てを出し尽くした。
そして最後の問題、それは恋愛小説だった。二人の男女が出会って恋仲に落ち、一緒に時を過ごしていく。そして最後のクライマックスに土手で星空を見る場面。問題文はそこで終わっている。そして、最後の設問は――
「この小説の最後の一文を考えなさい。」国語教師の遊び心が見える問題。馬鹿馬鹿しい設問だった。
私は何も思いつかなかった。私にはいつも考えていることがある。好きってなんだろう。愛おしいってなんだろう。恋ってどんなものなのだろう。その答えを今もずっと探している私にとって、この問題はあまりにも難しかった。
しばらく悩んでいると、後ろの方で大きな音が聞こえた。教室中の生徒が一斉に振り返るほどの大きくて鈍い音。驚いて私も振り返ると、一番後ろの窓際の席、その机の横で彼女が倒れていた。教室中がパニックになった。慌てふためく生徒、保健室に走る生徒、ただ傍観している生徒、近くに駆け寄る生徒、そしてその生徒たちをなだめる教師。教室中が大騒ぎになる中、私は急いで彼女の元に駆けつけた。息が荒い、身体は熱いし、目は虚ろで今にも閉じそうになっている。私はどうしたらいいかわからなくなり、ただ、ひたすら声をかけた。
「――、――さん、しっかりして!」
ひたすら名前を呼んだ。この時の私にはそれしかできなかった。そうしていると、保健室の先生が到着して、彼女を担架に乗せて教室を出て行った。私は、心配になりながらもその背中をただ見ていることしかできなかった。彼女が倒れてから少し経って、生徒たちはだいぶ落ち着いた。教師が保健室に向かってしまったのでもう試験どころではなかった。私は立ち上がってふと、彼女の机の上にある解答用紙を見た。本当は見てはいけないのだろうけど、その時の私は、彼女に関わる全てが気になってしまっていた。最後の大問の恋愛小説、その最後の設問には彼女の解答が書かれていた。
「あなたのことが好きです。」
それが、彼女が最後の力を振り絞って書いた解答だった。
その日を境に、彼女は姿を消した。彼女の家族からは体調を崩したとの連絡が入ったけれど、誰も具体的な状況を教えてはくれなかった。
それから、全てが変わった。彼女がいなくなったことを知った瞬間、心の奥底に冷たい重石が落ちたような感覚があった。罪悪感と後悔が押し寄せ、頭の中で繰り返されるのは彼女の言葉だった。
あの一文が、頭の中でぐるぐると回っていた。私がしたことが彼女を追い詰め、あの試験の勝負が彼女を無理させていた。自分のエゴで勝負を持ちかけた結果がこれだ。彼女の身体を壊し、そして、姿を消させてしまったんだ。
私は星空の下で再び彼女に想いを馳せながら、無意識のうちに涙をこぼしていた。感情を失ったまま、ただぼんやりと時間が過ぎ去る日々。何も感じないということが、これほどまでに苦しいものだとは思わなかった。それでも、私は感情を取り戻すことを恐れていた。もし感情が戻ったら、再び彼女を失った悲しみに押し潰されてしまうかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられるような感覚だけが残り、後は何も感じなくなってしまった。そんな焦燥した心に、人影が尋ねる。
「君はずっと彼女のことを抱えて生きている。」
その言葉に、私はぎゅっと拳を握りしめた。心の中で否定しようとしても、彼の言葉が鋭く心に突き刺さる。ずっと逃げていた。あの日のこと、彼女を失った理由、そして自分自身のエゴから逃げ続けてきた。私は自分のせいで彼女を失ったのだ、と。
「でも、君は間違っている。」人影は静かに、しかし確信を持って言った。「彼女は君を恨んでなんかいない。」
そう言うと、人影は私に一枚の封筒を差し出した。見ると、それは彼女の「名前」が書かれた手紙だった。
「これは……?」
「彼女から君への最後の言葉だよ。」
私は手紙を受け取ると、心臓が激しく鼓動するのを感じた。指先が震え、開けることをためらった。けれど、彼の言葉に背を押されるようにして、ゆっくりと封筒を開けた。
中には、彼女の言葉が整然と並んでいた。その言葉に触れた瞬間、私の胸に押し寄せるものがあった。それは、長らく封じ込めていた感情――彼女との思い出が次々と蘇ってきた。そして、手紙にはこう綴られていた。
あなたと過ごした日々は、私にとって何よりも大切な時間でした。私があなたと出会えたこと、それが私の人生の中で一番の宝物です。あなたの笑顔、あなたの言葉、一つ一つが私にとってかけがえのないものでした。
試験の勝負を受けた時、あなたが何を思って挑んできたのか、本当はわかっていました。でも、それがとても嬉しかった。あなたの不器用で、でも真剣なその姿勢に、私は心の奥底から感謝していました。だから、無理をしてでもその勝負を受け入れたのです。あなたが私に伝えようとしていた想い、その全てが愛おしかったから。勝負の結果がどんなものであっても、私にとってはもうすでにあなたとの時間が最高の宝物でした。
実は、あなたに隠していたことがあります。私にはずっと前から病がありました。幼い頃からずっと付き合ってきたもので、日常に支障はなかったけれど、治療法は見つからず、医者からも残された時間が限られていることを告げられていました。自分の命がいつまで続くかわからない中で、あなたと過ごすことができた時間は、本当に奇跡のようでした。私はその奇跡を感じながら、毎日を大切にしてきました。
試験の日、無理をしていたのは確かです。勝負に向けて、あなたと同じように夜遅くまで勉強して、精一杯の力で挑もうとしました。だけど、体はもう限界を迎えていました。あなたが気づいて声をかけてくれたとき、本当はその優しさが心に沁みました。でも、あなたとの勝負が私にとっても大切なものだったから、無理をしてでも頑張りたかった。あなたと同じ場所に立つために。
この手紙をあなたが読んでいる頃、私はもしかしたらもうこの世にはいないかもしれない。でも、私は最後まで幸せでした。あなたとの時間が私を支えてくれて、あなたの存在が私の心を温めてくれました。だから、もしもあの日のことを後悔しているなら、それはどうかやめてください。私は、心からあなたを愛していました。それが私のすべてです。
私がいなくなった後も、あなたが前を向いて生きていけるように祈っています。
そして、最後に言わせてください――あなたに出会えて、本当に良かった。ありがとう。
さようなら。
手紙を読み終えた瞬間、足元が崩れるような衝撃を受けた。彼女は、私のことを責めていなかった。むしろ、あの勝負も彼女にとっては意味のあるものだった。私がずっと思い込んでいた罪悪感、それは私自身が勝手に作り出した幻だった。
涙が一筋、また一筋とこぼれ落ちる。私の中に閉じ込めていた感情が、まるでダムが決壊したかのように溢れ出してくる。悲しみ、後悔、そして何よりも、彼女へ想いが、こぼれて、あふれてやまない。
その日から、私は少しずつあの廃棄場で捨ててきたものを取り戻していった。最初は小さな変化だった。朝、目を覚ました時に感じた微かな希望。友人たちの笑顔を見た時に感じたほんの少しの温かさ。そして、彼女との思い出を振り返るたびに、心に広がる懐かしさと優しさ。彼女の言葉が私を包み込み、過去の重荷を解き放つたびに、私の世界に色が戻っていくのを感じた。彼女は今も私の心の中で生きている。彼女の笑顔も、声も、全てが私の中で生き続けている。それが自分にとって最大の慰めであり、希望だった。
星空を見上げると、あの日とは違って、澄んだ輝きが私の心に届いた気がした。私はもう、彼女に囚われているわけではなかった。彼女と共に歩んだ道のりが、私を今ここに立たせている。それこそが、彼女が最期に残してくれたものだった。
手紙を読み、彼女の想いに触れた瞬間から、私の中で何かが変わった。ずっと寄り添っていた重たい感情が少しずつ薄れ、彼女の言葉が私を優しく包み込んでいった。そんな中、私を導いてきた人影も、徐々にその存在感を失っていった。
ある日、いつものように星空の下で自分と向き合った時、人影は静かに私に別れを告げた。
「君はもう、私を必要としていないからね。」
その言葉を聞きながら、ゆっくりと頷いた。そして、私は人影の姿を思い出した。人影は本当の意味での影だった。それは、心の投影、罪悪感や後悔だった。けれど、彼女の手紙がその感情を解き放ち、私は自分自身で前を向く力を取り戻していた。
「ありがとう。」そう呟いた時、人影の姿は夜空に溶け込むように消えていった。
そっと目を閉じて彼女との思い出に気持ちを馳せる。風がそっと髪をなびかせ、冷たさと温かさが混じり合う夜の空気が、私の心を満たしていく。この場所も、あの記憶も、そして彼女との時間も、すべては変わらずそこにあった。
あの日の私は全てを失い、無機質な世界の中でただ漂っていただけだった。何を見ても、何を感じても、それが何の意味を持つのかさえわからなかった。だが、今は違う。彼女が残してくれたもの、彼女の想いが、私の中で色彩となり、世界を新しく塗り替えた。
私は廃棄場の静けさに浸りながら、静かに夜空を見上げた。満天の星が瞬き、どこまでも広がる無限の闇が広がっている。かつての灰色の世界が、今ではこんなにも豊かで、鮮明に見える。
君は私に喜びを与えた。
君は私に慈しみを思い出させた。
君は私に感謝を教えた。
君は私に好きをくれた。
でも、一つだけ君が教えてくれなかったものがある。
その感情は、知りたくなかったもの、でも今向き合わなければいけないもの。君が最期に教えてくれたもの。
私は君にまだ何も返せていなかった。それなのに、君は先に手の届かないところまで行ってしまった。
また、一人になっただけ。今日は大粒の冷たい雨が降っている。最後に、私は彼女に向かって静かに呟いた。
「君と出会わなければ、」
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。「ふたりぼっち」を通して、皆さんが何かしらの感情を感じ取っていただけたのなら、私にとって何よりの喜びです。さて、この物語にはいくつかの鍵となる要素があります。物語のタイトル、廃棄場、人影、最後の一文、そして時系列と手紙。これらの抽象的な表現は、読者によってさまざまな解釈をしてほしい、自分だけのストーリーを作ってほしいという想いからなるものです。ぜひ、最後の読点の続きを自分自身の世界で作り上げてください。読者の中には「手紙」に疑問を持った人もいるのではないでしょうか。死と手紙の急な展開。彼女は自分の死を知っていたのか。なぜ人影が手紙を持っていたのか。「手紙」はもっとも謎を残した部分です。ぜひ各々の解釈に身を委ねてみてください。そして、たくさん考えた後にもう一度最初から読み直してみてください。すべての急な展開が一つの線となり、そして最初とは違った物語に感じるかもしれません。最後に一つだけこの物語のヒントを。この小説全体を通してテーマにしたもの、それは「感情」です。あなたがこの物語を読んで感じたさまざまなものを、大切にしてもらえれば幸いです。また、この作品の姉妹小説として、解答編となる「ひとりぼっち」という作品も投稿しております。ぜひ、そちらもご覧ください。
ふたりぼっち みてぃあ @meteor_stellar
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