第5話
ひとしきりの称賛と喝采を瞬間的に浴びたものの、すぐに潮が引いたように静かになる。
僕は浮かれた心を引き締めなおし、大通りを抜け、繁華街を過ぎ、簡素な門をくぐった。
ここからは一帯は牧草地、さらに奥に湖畔が広がる。
湿地帯とあわせて海に紛うほど大きな湖が遠くに見える。
さらに、湖の縁を点で結ぶように豪華な屋敷がぽつりぽつりと建てられてあり、どれも嗜好に富んだ大きな屋敷ばかりだ。
「これはペガサス、下ろせないね……」
僕があたりの景色にひと言つぶやくと、ロドスがこくりと頷いた。
地面の土をつまみ、指で擦る。
小さく首を横に振るのを見るに、道路の整備はされているにしても、かなりキメの粗い土のようだ。
こんなところにペガサスなど下ろせば、屋敷に傷がついたと貴族が騒ぐのが目に見えている。
すぐに三叉路が現れ、見れば、中央に7本の案内板が掲げられ、すべて貴族の名前が彫られていた。
その中でも、ひと際大きな案内板にベナンの文字を見つけた僕は矢印の通り、右へと進んでいく。
「うわっ」
思わず声が出てしまった。
地面がぬかるんで、さっそくブーツが泥に塗れてしまった。
ロドスが拭うそぶりを見せるので、
「屋敷の前に着いたらお願いするね」
声をかけると、ロドスはまた僕の後ろについた。
最近、大雨でも降ったのだろう。
しかし、このぬかるみでは、大荷物の馬車は走れなさそうだ。
食材調達など、どうこなしているのかと思っていると、
「──騎士様、失礼」
横を過ぎていったのは、商人の牛型ゴーレムだ。
人はその横について歩いている。
牛型ゴーレムはぬかるみに強く、馬よりは遅いが、実物の牛よりは歩くのは速い。
いくつかのタグが見えたが、貴族の紋章と頭文字が付けられており、各別荘を回って歩くのだろう。
しかしながら、魔石商の店舗が多かった理由はこれか。
「……魔石の消費、すごいんだなぁ。あ、ロドスの魔石は大丈夫?」
ロドスは指を4本立てた。
5本がマックスのため、まだ8割は残っていそうだ。
湿地の林を抜けてすぐ、屋敷が見えてきた。特徴も間違いない。
ステンドグラスと庭園を掛け合わせた“硝子屋敷”と呼ばれていおり、現在はディルク所有の別荘だ。
ようやくと門をくぐり、庭園のなかを歩いていく。
湿地のどこか水の濁った匂いは消え、清々しい爽やかな香りが体を包んでくれる。
緑と茶色しかなかった景色に色が宿り、屋敷がより鮮やかだ。
屋敷の壁には、硝子屋敷の名の通り、ステンドグラスがあちこちに嵌め込まれ、ちらちらと光が地面に落ちて、花の色が反射しているかのよう。
ロドスの顔にも赤色が差し、少しだけ、人に見えるのが面白い。
屋敷の正面扉に続く短い白階段の手前にあった泥落としで靴の泥をこそぎ落とすと、手早くロドスが他の泥を拭ってくれた。
改めて階段を登り、ドアの横に下がるベルの紐を3回引く。
がらん がらん がらん
胸ポケットから出した懐中時計は、13時を回ったところだ。
挨拶の準備は整えてある。
大丈夫。挨拶はできる。
「……あ! 騎士様、ちょうどよかった!」
ドアが開いたと同時に初老が顔をだした。
挨拶をしようと胸に手を当てるが、その手首がつかまれる。
屋敷の中に引き込まれ、初老は早々に歩きだした。
僕の後ろをロドスが鞄を抱えてついてくるが、初老はちらりと確認するも、そのまま歩いていく。
初老のジャケットから、懐かしい匂いが流れてくる。
……死臭だ。
僕は歩きながら初老の全身を見回した。
初老は執事で間違いない。
腰回りを隠すようなジャケットに、魔石鍵の束が揺れている。
だが、常にはめているべき手袋がない。
何かがあって外したのだろう。
一瞬だけ見えた首元は、襟がゆるめられていた。
息苦しい状態があった、ということだ。
僕は執事の背中に向けて問いかける。
「あ、あの、なにがあったんです……?」
「……その、死体がありまして」
声音からして、隠したい意図を感じる。
誰もいない廊下にもかかわらず、声が小さい。
それに合わせ僕も声のトーンを落とすも、内心、喜んでしまった。
結婚式がなくなったのは間違いないからだ。
「では、挙式は中止で……」
「行ないます」
歩きながら振り返った執事の目は、言葉以上に断言している。
「3日後の挙式までに犯人を見つけてください、碧薔薇の聖騎士、アキム様」
唐突な事件の始まりなのに、僕の足は止めることを許されない。
困惑のまま進む僕に、執事は背を向けたまま、自己紹介を始めた。
「私は執事のヘルマンです。この屋敷全般の管理を任されています。まさか、人形をお連れになるとは思っておりませんでした。お若い優秀な方をとお願いしたのですが、素晴らしい方に来ていただけました」
ヘルマン曰く、正面玄関から、右翼と左翼に分かれて部屋があり、中央は広いエントランスと、他に社交場や晩餐ができるように、大広間が2階にあるという。どちらにも大きなステンドグラスがあしらわれ、この屋敷の象徴的な部屋となっているそうだ。
右翼は調理場や執事室など裏方の部屋が備わり、逆の左翼はまるまる客室で、客室は1階と2階、それぞれ3室ずつ。どの部屋にもシャワー室、トイレが備わっているという。
現在向かっているのは、左翼の1階だ。
「他に、その、お客様がいらっしゃるんですか?」
「いいえ。ですが、魔石鍵がかかっていた空き部屋に、死体がありまして」
「窓も施錠を……されてますよね、魔石鍵ですもんね」
「もちろんです。死体は、多分、侍女のアンジーだと思うのですが……」
近づいているのがわかる。
匂いが足跡のよう。
一歩進むたびに濃くなる死の匂いに、鼻がむずりとする。
「こちらです」
すでに2人の侍女と、土で汚れていることから、庭師だろう男2人が立っている。
侍女の年はどちらも20歳ぐらい。黒のワンピースに白いフリルのついたエプロンをつけ、長身の赤毛の侍女は唇をかみしめながら床を見つめ、小柄の金髪の次女は、もう一人の次女の肩に隠れるように嗚咽をもらして泣いている。
男は、どちらもくすんだ色のシャツにオーバーホールを着ており、2人ともに足元の泥は生乾きのため、ここに来てからそう時間は経っていない。
ただ青年は無表情で突っ立っているのに対し、白い髭を蓄えた初老は沈痛な面持ちで、麦わらの帽子をぎゅっと握っている。
執事はドアの前に立ち、止まった。
素早くハンカチを鼻にあて、準備をすると、ためらいながらもドアノブに手をかける。
僕はロドスに鞄を置くように伝え、胸ポケットにあるメモ帳を取り出し、開けられたドアの中に入っていく。
部屋は暗い。
カーテンを開けていないせいだ。
ベッドが奥に、サイドテーブルと一人がけのソファが一つ。
その間に、黒い人が横たわっている。
見つけた瞬間、ぞわりと肌が粟立った。
──どろどろに腐敗が進んだ人間が、ある。
僕は素早く心の黒い本を開く。
感情の荒くなった波を、本に閉じ込めるイメージをする。
大きな波が本へ流れていく。
次第に波は緩やかになり、さざなみすらもなくなる。
ただそこに『あるもの』と認識する。それだけだ。
それ以上に何かを感じようとすると、フラッシュバックが起こり、魔術の暴走が起きかねない。
何度も何度も、乱れる精神を整えるため、こうやって心を整える訓練をしてきたのだ。
『──こういうこともあるからね。覚えておいてよかっただろ?』
育ての親の声がする。
ひゅっと息を3回吐きすて、心の黒い本をぱたんと閉じた。
僕はその場にひざまづくと、イジェスへ命を届ける祈りを捧げ、遺体を見回した。
部屋の前にいた侍女と同じく、黒い長袖のワンピースに、フリルのついた白いエプロンが付けられている。
だが、それも赤茶色に染まり、腐った体液がどっぷり染み込んで、とても重そうだ。
温室となった部屋のせいで腐敗が早かったと見れば、死後2週間程度とみていい。
そう、メモを取っていると、
「慣れてらっしゃるんですね、お若いのに」
ヘルマンの声が後ろで聞こえたが、ハンカチ越しのせいで声が小さい。
「……僕は戦争孤児でして、こういった光景はよく見ていたので」
「はぁ」
やりとりの間を縫って、後ろから侍女たちの声がする。
昨日までいっしょにいたのに……
その声に反応して、僕はすぐに時間魔術を展開した。
この遺体の時間軸が違う可能性がある。
手のひらに時間魔術の文字を魔力をこめながらなぞると、菱形の魔術式が浮かび上がる。
それを遺体と同じ大きさになるように両手を広げ、拡大してく。
両手から溢れ出た光の束で遺体を包みこみ、金色の光が遺体を包んだ。
これで遺体の腐敗の進行は止められるはずだ。
仮に遺体を動かすことで何か魔術が発動しようにも、時間を止めてあるので発動はしないはずだが、それを見越しての魔術が施されていれば、話は別だが、その可能性はないようだ。
特に変化も、攻撃魔法も発動がない。
「ロドス、遺体の記録を取ってくれる?」
僕が指示を出すと、ロドスは丁寧に遺体を眺め、部屋を見渡し、記録を始めた。
鏡面の顔に映し出されたものを全て記録することができる仕様なのだ。
まさか、こんな活用をすることになるとは思っていなかったが。
ふと、赤毛の侍女と目が合った。
「あの、昨日までって本当ですか?」
僕の唐突な質問に驚いたのか大きく肩を振るわせながらも、コクコクと大きく頷いた。
「え、そ、そうです、昨日までいっしょでした」
「ずっと、いっしょだったのですか?」
「それは……えっと、そうですね、お昼の時間もいっしょでした。……あ、あと、昨日、お屋敷から上がる時間がいっしょだったので、同じ時刻に寮に戻りました」
「その時刻は?」
「時刻は……、日が落ちたころなので、18時30分を回ったところでしょうか」
手早くメモを追加し、魔術探知の魔法陣を手のひらに出す。
魔術の痕跡を探すためだ。
ただ半日以上経っているため、痕跡として残っていない可能性もある。
それでも調べない理由はない。
手のひらに浮かぶ菱形の魔法陣を遺体にまんべんなく照らしていくと、青白く、鈍く光る箇所がある。
魔術を使った痕跡だ。
「右肩……?」
見れば、右肩から右腕が切り落とされている。
気づかなかったのは、服に傷がなかったことと、腐敗が進みすぎているため、腕のような細い箇所は骨のみの箇所が多かったのもある。
しかし、肝心の右腕はどこにもない。ベッドの下にももちろんない。
「何か、お探しで……?」
「彼女の右腕がありません」
僕が告げると、ぎゅっと呼吸が止まる音がする。
それは侍女が悲鳴を飲み込んだ声だった。
二人は恐怖で顔を強張らせ、泣いてはいない赤毛の侍女の手は、肩で震える侍女の袖を握っている。
青年の顔は深く俯き、足が半歩下がる。引ける腰を掴むように、初老が青年の背中に手を回すと、ベルトを握り、ぎゅっと持ち上げた。青年は一瞬背筋を伸ばすが、また肩をすぼめて、身を固くした。
「ロドス、服をめくってくれるかな」
僕が指を刺した右腕の袖をロドスは丁寧にめくってくれた。
ずっしりと重くなった袖はやはり何もなく、首周りから服を捲ると、切り口がよく見える。
鎖骨からざっくりと切り取られているが、鋭利な箇所もあれば、引きちぎられた筋肉も見え、かなり力任せな切り口だ。
だが、やはり衣服に傷は全くない。
「……あの、ヘルマンさん、これは、村の警備兵にも連絡し」
「臭すぎるぞ! 異臭はここかっ!」
僕の提案を遮るように叫ぶ声がする。
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