翠玉の事件簿〜欠けた遺体の真実〜

第３話

「はぁ〜……」

　宿舎につながる廊下は静かだ。

　僕とロドスの足音が波のように立ったあと、静かな音がコツコツと廊下に響いている。

　いつもなら数人がたむろしているものだが、何かしらの大物の討伐依頼があったのだろう。

「ロドス、僕って運、悪いよね……」

　ロドスは小さく首を傾げて返事をしてくれる。ちがう、と言いたいのかもしれない。

　それでも、やっぱり、運が、タイミングが、あまりに良くない。

　行きたかった配属先を伝えて、ダメと言われたなら、これほど心のなかが黒く淀んだりしなかったのでは……？

　でも、こんな僕が、こんな状況の僕が、

「言えるはずないよね……」

　独り言でどうにか気をおさめた自分に、情けなくて笑えてくる。

　それでも自分の目標は、老騎士（オールド・ローズ）になること。これは絶対だ。

　自分の目標を到達させるためには、どんなことも糧にする。そう決めたじゃないか。

　思い直して向かい合った部屋のドアに違和感がある。

　コインか何かで引っかいた跡があるのだ。それも適当な間隔で数箇所に。

　思わず舌打ちが鳴る。

　僕は指先に魔力を集めると、手袋をはめたままドアをなぞっていく。火と水の魔法をうまく混ぜると、蒸気を放つことができるのだ。これで木材の凹み傷は少なからず目立たなくなる。

「僕が傷が嫌いなの、わかってだよね、これ。半年でよく人の嫌なこと見つけるよねぇ」

　ロドスが僕の肩をさするので、思わず笑ってしまった。慰めてくれているのだ。

　すぐに傷が見えなくなったところで、ロドスがするりと前に出た。

　ドアノブを開けるためだ。

「ありがと、ロドス」

　ロドスはそのまま廊下側、内側共にアルコールを染み込ませたハンカチで拭ってくれる。

　野営では気にならないことも、対人が関わると潔癖症が発動するため、ロドスの行動には、いつも頭が上がらない。

　おかげで部屋から戻り、僕がすぐ手袋を部屋用にはきかえ、着替えができる。

　肩がこる聖騎士の制服に首と肩を回しつつ、そのうち慣れるのだろうかと、ハンガーにかかった制服を手で払うと、横にロドスがそっと立った。

　小脇に挟んでいた書類のケースもロドスは拭いてくれたようで、僕が見やすいように机の上に置いてある。

　僕は「ありがと」ロドスに声をかけながら、クローゼットの一番上に積んでいた鞄を引っ張り出した。

　すぐにロドスが受け取り、ベッドの上で鞄を開くと、クローゼットの前へ移動し、僕を見る。

「ロドス、一応、５日分の下着と着替えを入れておいて」

　頷いたのを見て、僕は机に向かう。書類をもう一度見直すためだ。

　記憶によると、ガイラー帝国の辺境伯であるベナン卿は、魔物の巣窟といわれたフォー樹林を剣一本で制圧し、シリトヴ村を切り開いた。その功績を讃え、爵位が与えられ、現在に至る。はずだ。

　その一人息子の名はディルクという。

　書類のファイルの３枚目に出てきた彼の経歴には、金持ちらしく、質の良い魔法石でしか写せない転写画が添えてある。

「……吊り目のタイタンに、髭を生やしたら、こんな顔かも……」

　思わず喋りたくなる造形だ。

　服を詰め終わったロドスが僕の肩越しに書類を覗き込んでくる。

「見てよ。偏屈そうな感じしない？　口、への字だし」

　今年で２７歳。乗馬と狩猟が趣味と書かれてある。

　リティン国から嫁ぐサナの書類には転写画はなく、年齢は１８のみの表記だ。

　メモ程度に添えられた文章には、長女はフカ共和国へと嫁いでいる。とある。それはリティンの国益のための結婚だとわかる十分なひと言だった。

　政略結婚ってどんな気持ちなんだろ……

　改めて想像してみたが、僕には一生わからない気持ちのように思う。

　だいたい、誰かを好きになったことがないのだから、わかりようがない。

「あ」

　伝言板（ストーン・ボード）と、魔石を溶かしたインク、専用の羽ペンを手に取る。

　伝言板とは、魔力を溶かしたインクで書き込むと、対の伝言板を持っている相手へ文字で連絡ができる代物だ。

　毎日の業務を上官へ報告する義務があるため、それらを革の袋に詰めるとロドスがそれを受け取った。

「ありがと。仕事道具、忘れるとこだった」

　改めて忘れ物はないかと、指差し確認していくが、残りは司法書と魔術書ぐらいだ。

　騎士になるために筆記試験があるのだが、その際、無理やり詰め込んだ後が残っている。たくさんの付箋と、手書きで分厚くなってしまった。

　つい過去の事例や判例をぺらぺらと眺めてみてしまう。

　どれも８年前の国境戦争以前のもばかりで、国境戦争後の現在、騎士が司法権を用い何かしらの事件を解決したことはほとんどない。

　それだけ帝国内は平和であり、近隣諸国とも“いい状態”を保っているということになる。

　何かの事件が発生しても、村や町の警備兵が行える範囲のものが多いのが理由だろう。

　仮に殺人事件があったにせよ、痴話や借金のもつれ程度で、警備兵が解決できる範疇でしかない。

　鞄の空きが気になったので、どちらの本も詰めてから、僕は鞄を閉じた。

　目の前の壁掛けの小さな鏡に、少しやつれた自分が映っている。

　首の前で揺れる翠玉のペンダントは大切な母の形見だ。

　魔力を持ってペンダントを握ると、緑目の自分が現れる。パッと手を離せばくすんだ黄色の目に戻る。母と同じ、目の色だ。

　その目を見つめ、僕は僕に言い聞かせる。

　大丈夫だ、アキム。

　老騎士を目指して、僕は騎士になったんだ。

　遠くても、絶対になれるよ。

　そう、口の中でつぶやいてみたけれど、

『嘘つきだなぁ、アキムは』

　胃がじゅわりと痛む。

　育ての親の、軽やかな声が聞こえた気がした。