壊れた世界の住人 ⑷
そしてぶっ壊れた人が引っ越してきた。名前は柳岡弘志というらしい。
彼を見たとき、彼の心の奥底には欲望の塊が見えた。全ての人に欲はある。だが、彼の欲は良識から外れているものだった。たとえ犯罪をしてでも満たそうとするほどのものだった。
弘志の心を見て、両親を思い出した。両親の黒く乱れた感情を思い出した。
殺すことが確定した。だが、ただ殺すのではつまらない。
しばらく様子を見ることにした。彼は他の人間と同じように壊れた部分を隠していた。他の人よりも必死に心の奥底に埋めて。
彼の娘の千尋を協力者にすることにした。特に深い理由はなく、今後必要になるかもという程度だった。千尋には家で私のことを話させないように言った。もし両親がいないことなどを話されると面倒だから。できるだけ自分の部屋にいるようにと。もちろん部屋にこもって怪しまれないようにするための作戦も教えた。誕生日プレゼントとして千羽鶴を作ること。
初めのうちは千尋もスパイミッションだと楽しんでいただけだったが、徐々に私の言うとおりに動く人形になっていった。大人の平田夫妻に神だと認識させられた理沙にとっては、純粋な子供を支配することは容易かった。
そして類は友を呼ぶのが事実なのか、彼の近くにもぶっ壊れた人がいた。柳岡千代子。斉藤知香。
柳岡千代子。彼女は『裏切り』『いじめ』を異常なほど嫌っていた。初めは分からなかった。ただ本気の殺意が心の奥底に見えた。でもそれは殺人鬼のように殺人を楽しむようなものではなかった。何が理由かは分からなかった。
しかし雰囲気が変わったときがあった。その時の感情から、『裏切り』『いじめ』を異常なほど嫌っていることを読み取れた。千尋の話も役に立った。
斉藤知香。彼女は結婚している弘志を好きになっていた。本人は好きという感情を自覚していなかったようだが。結婚している人は他の人と結婚できない。これは日本では当たり前のことである。もちろん結婚している人を好きになること自体に問題は無い。だが、彼女の好きはそういうものではなかった。不倫してでも恋人にしたいというほど大きな恋心だった。
これは初恋だったからかもしれない。だから抑えがきかずに大きくなりすぎていたのかもしれない。理沙がいなければ次第に小さくなったかもしれない。ぶっ壊れていなかったかもしれない。
もちろんぶっ壊れている理沙にとってはそんなたらればどうでも良かった。利用できるものは使う。だって、壊れている人間をこれ以上壊しても問題ないんだから。
7月20日に初めて彼女と出会い、彼女が弘志に向けた感情を読み取り、恋心だと理解した。こいつは利用できると思った。
しかし、近くには弘志がいて彼女と話す時間が無かった。千尋を使ってほんの少しだけ話す時間を生み出した。
「あなた彼のことが好きなのね。彼は妻に不満を持っているんだって。あなたの方が彼を幸せにできる。もし彼を恋人にしたいなら私のところに来て」
少し前までコスプレの口調をしていたが、このときは真面目なトーンで話した。その方が自分に興味を持ってもらえるため。彼女はぽかんとしていた。このときに初めて自分の恋心に気づいたのだろう。
これだけでは私のところに訪れてくれるか怪しかったが、もし失敗しても他の作戦を考えれば良いだけであった。それに彼女は私が言った内容を弘志に伝えることはできない。自分の恋心をバラすことになるのだから。私にとってデメリットが存在しない。
そんな不安を裏切るように、彼女はすぐに一人で私の元に訪れた。初めは私を疑っていたが、彼女が欲しい言葉をあげ続けた。
弘志の妻は弘志を愛していない。あなたの方が弘志を幸せにできる。弘志もあなたのことを気になっている。などなど。
彼女の弘志の思いは風船のように急速に膨らんでいった。いつ破裂してもおかしくないほど膨らんだ。
そして旅行中に酔った振りをして既成事実を作るように言った。もしもの時は酔っ払って記憶がないことにすれば良いとアドバイスした。
既成事実をつくることには失敗したようだが、弘志に罪悪感を植え付けることには成功したと連絡を貰った。
私は旅行中に柳岡家に行った。そして千代子に千尋は自分のいいなりであることを伝えた。それを使って脅した。夫の弘志には私の両親が普通の人であることを伝えるように言った。
もし私の言うことを守らなかったら千尋は自殺するようにと言った。千尋は笑顔で「はい」と返事をした。実際はその後、千尋と遊んだときにその命令は守らなくて良いと千尋に伝えた。突然自殺されると面倒だからという理由でだ。他に理由はない。これは千代子の行動を制限できれば良いだけのものだったのだから。
弘志に千代子の様子が変なことを疑われたら、私のことを話すようにと言った。
私の過去を少しだけ千代子の感情が揺さぶられるようにアレンジした。ほとんどは実話だった。両親のサンドバッグにされたことなど。そのせいで、というよりおかげで千代子の感情は乱れた。普通だったら自分の娘が人質にされた恐怖しか植え付けられなかったが、『いじめ』が絡んだ私の過去は千代子から同情の感情まで引き出すことに成功し、感情をぐちゃぐちゃにした。
旅行が終わってからは千代子を墨田家に呼び出して、腐りきった両親の死体を見せ、恐怖を植え付けていった。心が弱っていた千代子は1ヶ月もしないうちに従順になった。千尋の命を握られていることも理由の一つだっただろう。
しばらくして斉藤が弘志と行為に及んだ。その行為を隠し撮りさせ、斉藤から送って貰った。
すべての準備が完了した。
その隠し撮りを千代子に見せた。
予想通り、『裏切り』を異常に嫌う千代子は切れた。弘志を憎んだ。
もちろんこれで殺させても十分だが、これだけ準備したのだからもっと楽しむ。というかこの計画を思いついた当初から最後の図は決まっていた。
千代子には弘志を殺すなと命令した。逃げることも禁止した。
もちろん破られれば千尋は私の命令で自殺するという文言を添えて。ただの脅しである。
そこからは面白かった。娘を守るために、『裏切り』をした憎んでも憎んでも足りない弘志を殺せない。
いつ千代子の限界が来るのか楽しみでしょうがなかった。千代子が弘志を殺し、千尋が自殺し、弘志を殺した千代子を斉藤が殺し、弘志の後を追う形で斉藤が自殺する。ぶっ壊れた3人が死ぬ。こんなに面白いことは他に無いだろう。
正確には千尋は自殺しないのだが、それは問題ないだろう。
しかしクライマックスで邪魔が入った。
***
姉がどこかに行った。両親はしばらく帰ってこないと言った。
それから私は意識を失う時間が増えていった。両親たちから話を聞くと、記憶が無い間も私は動いているらしい。
病院にも連れて行かれた。
どんどんと意識がない時間が増えていった。
ついには1週間に数十分しか意識を保てなくなった。
ある日、テーブルには一枚の紙が置かれていた。
『りんへ
わたしはもうひとりのあなたです。
ママ、パパはとおくのびょういんにいっています。
かいものはわたしがするのでそとにはでないでください。
もうひとりのりんより』
手紙の文字は左手で書いたようにふにゃふにゃとしていて、さらに歪んでもいた。書いている人が泣いていたのではと思わせるものだった。
それからはママ、パパには会えなかった。いつも家で一人だった。でも冷蔵庫の食べ物は毎回変わっているため、もう一人の私がしっかりしているのだと分かった。私は恥ずかしがり屋で、怖がりで家に一人でいるだけでも怖かった。外に出るなんて絶対に無理だった。
それから一年くらいが経った。意識を保てる時間は変わらず、1週間に数十分だ。
インターホンが鳴った。家に誰かが来た。人と話すのは1年以上ぶりだった。最後に話したのは母か父のどちらかだったと思う。
「近くに引っ越してきたんですけど、親さんとかはいるかな?」
インターホンの画面には大人が2人と自分くらいの少女が1人映っていた。
「いない」
「じゃあお菓子だけ渡したいんだけど大丈夫かな?」
「知らない人が来ても開けるなって」
知らない人と対面するのが怖かった。
「わかったよ。じゃあお菓子は置いておくから、親さんに近くに引っ越してきた人からだって伝えてくれる?」
「うん」
自分が起きているときに両親が帰ってくることは多分無いだろうと思いながら頷いた。
その日の数日後から変わったことがあった。もう一人の私が身体を動かしている様子がうっすらと見えるようになった。話したりはできない。私が一方的にもうひとりの私を見ることができるだけ。
もうひとりの私は別人だった。話し声は聞こえないが、堂々としていた。大人相手でも物怖じすることなく話していた。まるで姉のようだった。
3歳の頃から姉とは会っていないため、細かくは覚えていないが、姉はいつも前に立って私を守ってくれた。その背中はとても大きく、堂々としていたのを覚えている。
私も姉のようになりたいと思っていたが、気弱なままで変われていない。
それからは私は、もうひとりの私を見るのに熱中した。私ももうひとりの姉みたいな私になりたい。
それからも数回意識を取り戻した。
1ヶ月後くらいに再び意識を取り戻した。もう一人の姉のような私を見て、自分も勇気を持って外に出てみようと思った。最近はもう一人の話している声も聞こえるようになってきていた。ドアを開けるのが怖くてチェーンをしたまま外を覗いた。大雨だった。雷も鳴っていた。外はいつも以上に怖く見えた。
凜はその場で立ち止まった。ドアを押す力が、ドアが閉まる力に負けた。
諦めようとしたが、ドアの取っ手から手を離せなかった。どうしても姉のようになりたいと思った。もう一人の私が出来ているのだから自分にも出来るはずだと言い聞かせていた。
手が少し引っ張られた。チェーンをしているドアが少し開いた。
「もしかして、りんちゃん?」
あのときに会った男の人と再び出会えた。もう一人の私が会っているのは何度か見ていたが、自分に体の主導権があるときに再び会えるとは思っていなかった。
「うん」
「何かあった?」
男はしゃがみ視線を合わせてきた。凜はとっさに視線を外す。
「外に出てみたかっただけ」
ぼそりと呟いた。相手に聞こえているかわからないほど小さい声で。
「今日は大雨だから家の中にいたほうがいいよ」
凜は小さくうなずいて、すぐにドアを閉めて鍵をした。
自分は姉のようになれないのかなあと不安に思った。
***
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