壊れた世界の住人 ⑴

 露光理沙は小学3年生で死んだ。

 



 飛行機の座席の前にキャビンアテンダントが立った。膝がガクガクと震え、顔は引きつっている。マイクを持つ手も震えているせいでアナウンスの声が震えていた。


「皆さん、落ち着いて聞いてください」


 乗客の全員がCAに注目した。お前が落ち着けよと数人は思っただろう。


「私は今日が初めてのフライトでした」


 マイクが震えているせいではなく、声自体が震えているのだと分かった。自分たちは危機的な状態にいるのだと。これは他の乗客員の感想だ。


 私はCAの顔を見たときから全ての事情を理解した。だから今から言われることも大体分かっている。


「………………」


 数分の沈黙が場を支配する。


 全員がCAから目を離せない中、私一人だけが窓から空を見た。下に見える雲が近づいている。


 私の人生は何だったのだろうか?


 私は生まれたときから人の感情、思考が読み取れた。些細や仕草、表情、行動から。特に人が心の底に隠している真の欲求などが見えてしまった。


 今もCAの心の中が見える。なぜこんなことになった? 死にたくない。怖い。恐怖で埋め尽くされていた。


 幼稚園生の時、母が考えてることを父に伝えた。逆に父の考えてることも母に伝えた。夫婦だからといって、お互いに嫌なところがまったくないわけではない。母は子育てを手伝わない父に苛立ちを覚え、父は母のそんな態度でストレスが溜まり、他の女性と会って自由にしたいという感情が生まれていた。お互いにそれを実行はしていなかったと思う、ただ心の中で少しだけそんな願望を抱いていたに過ぎない。


 それを私はお互いに伝えた。二人は喧嘩をした。今まで喧嘩しているところを見たことが無かった。


 自分は悪いことをしてしまったのだろうか。お互いが心の中で思っていることを代弁してあげただけなのに。この頃の私には自分が正しいことをしたのか悪いことをしたのか分からなかった。


 何度かそんなことを繰り返した。


 自分は悪いことをしたのだと気づいた。


 でも遅かった。


 二人の怒りは私に向いていた。何度も怒鳴られた。謝っても、私の声は二人には届かなかった。


 気味の悪い子だと避けられた。両親の心を覗く必要がないほど私への感情は態度に表れていた。


 小学1年生だった。その頃、妹が生まれた。両親の愛情は妹だけに注がれた。


 私は両親のストレス発散のはけ口となった。目の前で怒鳴る両親の心は荒れ狂っていた。テレビで見た火事の炎、津波、ブリザード、そのどれよりも荒々しく黒い何かが暴れていた。怖かった。人間ではない、何かが取り憑いているようだった。


 でも、これを引き起こしたのは自分だ。自分が両親をこんなふうにしてしまったのだろう。


 責任を感じ、サンドバッグになった。それに小学生低学年の私が家から逃げられるはずもなかった。サンドバッグになるしかなかったのだ。


 それ以外の時はいない者とされた。


 家での居場所はなくなった。


 CAの唾を飲み込む音が機内に伝播し、緊張感が高まる。


「今、飛行機のエンジンが全て止まりました」


 ゆっくりと事実だけを伝える。乗客はただ事実を耳から受け入れる。


 大人の思考、感情を子供の頃から見ていた。当然、精神年齢は高くなり、同級生とは話が合わなくなる。友達はできない。そして一人でやることもないので読書をした。頭まで良くなる。後に分かったことだが私はIQも高かったようだ。周りとの距離は開くばかりだった。


 他の子供が嫌いだったわけではない。むしろ好きだった。


 周りの子供の心は大人のものとまったく違った。その子達の目には私のことが映っていて、黒い感情も抱いていなかった。


 先生はクラスに馴染めるように協力してくれた。いや、違う。先生の心の中は自己満足で埋め尽くされていた。私のために行動しているのではなく、私のために行動している自分が好きで行動していた。私は先生自身が満足するための道具として利用されていた。


 これが教師、人間がやることなのかと恐れた。でもこれも友達を作れない異常な私が原因なのだ。だから道具としての役目を果たそうと思った。


 もちろん仲良くなれなかった。先生は私を叱った。私は先生を満足させる結果を出せなかった。だからこれも当然のことなのだと受け入れた。


 先生からも見放された。


 3年生になるときには周りの子達が大人に似てきていると感じた。チラッと視界に映ったとき、心の中に黒い何かが生まれていた。好きだったはずの周りの子がそうではなくなっていった。


 クラスに馴染めない私はクラスメイトに虐められた。両親のように殴られたりはしなかったため、苦痛は少なかった。これも原因はクラスに馴染めない私だ。


 学校での居場所もなくなった。


 CAは自分で話した事実で、さらに恐怖心が増したようだ。その恐れが乗客にも伝わる。乗客から乗客へ、CAへと無限に恐怖は伝播していく。そして増していく。


「ここは太平洋の真ん中で着陸できる場所がありません」


 小学生低学年のコミュニティなんて家とクラスしかない。


 小学1年生の夏休み前には、私の居場所はなくなっていた。クラスに居ることは許されたが、先生に嫌われていたため居たい場所ではなかった。全ての原因は自分にある。だからこの現状を受け入れた。


 それから私は人の感情を見ないように気をつけた。いつもうつむき、視界に人を入れないようにした。


 1,2年生の時はいつも図書室、図書館で過ごした。本は私を怒鳴らなかった。私に失望しなかった。ただそれだけの理由で読書をした。物語は読まなかった。感情をもったキャラが出てくるから。本を読むときまで人の感情を見たくなかった。


 妹の凜は話したり、歩けるようになった。


 凜が転んで泣いた。私は両親から怒鳴られた。凜が泣いたのは私のせいだそうだ。


 それから私は凜が泣かないように、凜を守った。サンドバッグになる回数は減った。


 凜は助けるたびにたどたどしい口調で「ありがとう」と言った。凜の心の中は真っ白で純粋に感謝しているのだと分かった。久しぶりに正面から人の心の中を覗いた。初めて綺麗だと感じた。


 一方で私は自分のためだけに凜を守っていた。邪な感情だった、と思う。自分の本当の気持ちなど分からなかった。


 ある日、海外の研究室から連絡が来た。そこには私のような変わった人間が集められているそうだ。


 両親は迷うことなく、私を手放した。あのときの両親の感情は、私からやっと離れられる喜びで満たされていた。昔は私のことを愛していたのに。両親が子供に向ける感情だとは思えなかった。でもこれも異常な自分が悪い。


 日本に居場所はなくなった。いや、世界のどこにも居場所がないのだと分かった。


 そして、今飛行機に乗っている。行き先がどこかなんて私にとってはどうでも良い。たとえ天国、地獄だろうと。


「飛行機の操縦がまったくできなくなりました」


 CAは伝えるべきことを言い切ったという感じで締めた。


 飛行機の中は鳴き声、叫び声、うなり声、金切り声。まるで地獄の釜の中に放り込まれたようだった。まだ私たちは苦痛を感じていない。さっきと同じ飛行機に乗っているだけだ。ただ、飛行機の高度が落ちているだけ。


 私は窓の外を見続けていたが、ふと自分の胸あたりに目を向けた。私にも死への恐怖があるのかなあと疑問に思った。


 もう居場所がないのに。それも自分が原因で。


 だから死への恐怖など存在するはずがないと分かっていた。でもなぜか自分の心を覗こうとした。

 


 きっとこの飛行機の中にいる人間の心の中は醜くてしょうがないだろう。

 


 自分の心を覗いた瞬間、ふと頭の中に浮かんだ。


 醜い?


 私は何を考えている? 醜いのは私だ。他の人は違う。私だけが醜いんだ!


 両親や先生が見せた人間とは思えない醜い感情は私が原因なんだ。決して、私以外が醜いのではない。


 私だけだ。私以外に醜い存在などいない! だって、そうじゃないと……


 飛行機の揺れで乗客が視界に映る。


『これはパイロットのせいだ』『私は悪くない』『今話していたCAのせいだ』『しゃべってないでどうにかしろよ!』


 テレビの砂嵐のような雑音が頭の中に流れ込んでくる。


 みんなこの状況を人のせいにしている。


 確かに、この状況は誰かのせいかもしれない。でもその人も故意でやっているわけではない。それにこの飛行機に乗ると決めたのは自分自身のはず。


 両親や先生は人間が抱くはずない感情を爆発させていた。それは私が原因だった。だから悪いのは私だ。私が人間ではないのだ。私だけが不良品なんだ。私だけが醜いんだ。


 じゃあ、なぜこの人達は今、人のせいにしている。誰も悪くないはずなのに。人のせいにすることは悪いことだ。


 無意味な責任転嫁をしている。これがまともな人間のやることなのか?


 これも不良品の私が原因なの? 醜い私が悪いのか?


 それとも……。


「違う」


 自分の思考を否定するかのように大きな声で叫ぶ。周りも騒いでいるため、誰も注目しない。


 それとも、醜いのは私だけではない……。


「違う。違う。違う。……違う」


 どんどんと声は小さくなっていく。まるで否定できない根拠が頭の中に思い浮かんできているかのように。


 心臓のあたりがモワモワする。何かが中から出てこようとしている。


 理沙は両手で心臓を押さえる。鼓動を感じる。


 心臓から声が聞こえる。


『人間は全員が不良品だ』


 いや、心臓から直接脳に伝達されている。


「違う。私が原因なんだ。壊れているのは私だけ」


 心臓の振動が大きくなり、伝達される情報は熱を帯びたかのように脳に焼き付けようとしてくる。理沙はさらに両手に力を込める。


『私は見てきたじゃないか。人の心の中の感情を』


 理沙はあらゆる人の心の底を見てきた。見えてしまった。でも、見なかったことにしてきた。私とは関係ない人と理由をつけて。そうしないと自分の現状を受け入れられなくなるから。自分だけが醜いという事実が崩れてしまう。


『全ての人間は壊れている。人を殺す。愛すべき我が子を見捨てる。SNSで悪口を書き込み、間接的に人を殺す。平気で責任を押しつけ合う。嘘をつく。自分よりも弱い存在を見つけ、上に立とうとする。ストレス発散のため理不尽に怒る社会人。煽り運転をする若者。立派な大人へと導くはずの先生が生徒を見捨てる。道にゴミを捨てる歩行者。他人を自分の欲を満たすための道具として扱う。陰口を叩く。……。人間は悪いことだと認識していながら、悪いことをする。自分の欲のために、心を守るために』


 理沙は他人だけではなく、自分の心も見ないようにしていた。たとえ見たとしても他人と同じく見なかったことにしてきた。しかし、今回は目を逸らせなかった。死を覚悟したからだろうか、周りの荒れ狂った感情にさらされたからだろうか。理由は分からない。でも心臓から送られる言葉を、感情を見なかったことにはできなかった。


 手から力が抜けていく。


『全ての人類は醜い』


「それじゃあ、今まで私はなんで我慢してきた。受け入れてきた」


 自分が異常だと認識してから、一度も流してこなかった涙が溢れた。今までため込んできていたものも一緒に流れる。それは憎しみなのか、後悔なのか、怒りなのか、……、はたまたその全てなのか。


『この世界は壊れている』


 飛行機は速度を上げて落下している。騒いでいる乗客。ぶつぶつと呟く乗客。放心状態の乗客。神頼みするCA。泣く私。


 この世界は壊れている。


 理沙は空中に投げ出された。そして次の瞬間体に強い衝撃を受けた。痛みはない。ただ、まぶたが落ちていくだけ。

 


 さようなら。壊れた世界。

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