12月1日(日) 休日

 弘志は目覚めた。アラームをセットしないで起きたのに、アラームで無理矢理起こされたときのような不快感が喉の奥の届かないところにある。咳き込むが出てくることはない。指を入れても決して届くことはない。


 弘志は起き上がろうと床に手を置いたが、すぐに手を床から離した。


 弘志が寝ていた床はびしょ濡れだった。もちろんお漏らしをしたわけではない。大量の汗をかいていた。


 ストーブがつけたままのため部屋は暖かいが汗をかくほどの暑さではない。


 それでも濡れた服や、手についた汗以上に体の中にある不快感の方が大きかった。


 痰を出せばだせるのだろうか?


 身体を置き上げて、深呼吸をする。胸を手で押さえながら強く息を吐く。痰がでる。近くにあるティッシュに吐き出す。やっぱり不快感は出てこない。


 この不快感の理由が分からない。


 脳と心臓の間。脳で理解できない不快感。心臓から全身に送られることがない不快感。取れそうでとれない不快感。


 少し前、昨日まではこの不快感の正体が分かっていた気がする。全身に流れていた。脳でも理解していた。でも無理矢理触れないところに移動させたような感覚。まるでその不快感から身を守るために。


 カーテンを閉めていない窓からはキラキラとした日光が入り込んでいる。窓を全開にする。ストーブで温められた部屋の空気が、冷たい空気に入れ替わる。冷たい空気は肌を突き刺し、口の中を乾かす。


 爽やかな天気の下、弘志の心は暗いまま。


 スーツのまま眠っていた。理由は分からない。2階に行くのは嫌だったので、そこらへんに投げ捨ててある洗濯物の中から服を取りだして、着替えた。


 家に居るのが嫌で外に出た。理由は分からない。その理由は不快感と関係があったような……


 でも千代子が変わった原因さえ見つければ全てが解決する。それだけ覚えておけば良い。今の弘志の思考をそれが支配している。


 犯人はこの近所の5軒に住む誰かだ。その一人を見つければこの地獄は終わる。


 挨拶回りの時のように近所の周りを回る。


 佐藤家の前。玄関を見るが誰も出てこない。佐藤さんはお酒が好きな普通のサラリーマン。奥さんも精神を病んでいたが、とっくに回復しつつある普通の女性。


 頭の中に一瞬白髪で、顔からすべての感情が抜き取られたような女性が思い浮かぶが、すぐに否定され必要ない情報として記憶の彼方へ飛んでいく。


 一番まともな佐藤家に犯人がいるとは思えないが、それでも何か怪しいところがないかと探す。


 弘志は犯人が誰でも良かった。とにかく犯人を見つけることが大切であった。それで全てが元通りになるのだから。


 和田家の前。和田春樹がまた車と車の間で屈んで弘志を呼びつけた。


 またこいつか。


 虚言癖とか妄想癖を持った変人とは関わっていられない。時間がない。


 怪しい人物を見つけたのにテンションは下がる。こいつだけはどうでも良かった。会いたくなかった。犯人ではない、ただのヤバいヤツ。


 弘志は無視して前を取り過ぎようとした。視界から春樹が消えた途端、後ろから首を絞められた。


 弘志はとっさに回された腕を掴み、背負い投げの要領で投げ飛ばした。想像以上に軽くて数メートル飛ばしてしまった。


 一瞬犯人を見つけたと思ったが、すぐに違うと分かった。弘志は地面を蹴り、その飛ばした人物の脇を通り抜けようとする。怪我をしたかなどの心配はない。どうでもいい。


「待ってください。助けてください!」


 白い布手袋で右足を捕まれた。まるでゾンビ、いや幽霊だ。でも実態がそこにはある。なぜだかその後ろから引かれる感覚に覚えがあった。懐かしいというほど昔のことではない。最近感じたものの気がする。


 右足を思いっきり前に上げることで、振りほどいて進もうとする。


 次は左足を捕まれた。


 うっとうしいなあと思い、後ろを向くと眼鏡のレンズが割れた春樹がいた。春樹は周りをあちこち見ながら大声で助けを求めていた。


 このままでは調査もできないと思い、春樹を立たせて、和田家の庭まで移動した。


「なんですか?」


 弘志は強い口調で言った。


 春樹は弘志の言葉にはびびることはなく、周囲に目を動かす。


 話をしている自分の方を見ないことにイラつく。


「助けてください! 妻を助けてください! 墨田家にいるんです」


「妻は実家に帰っただけでしょ」


「違うんです。助けてください!」


 震えた声。怒鳴り声。震えた声と続く。


 弘志がきびすを返そうとすると、春樹はいきなり服を脱ぎだした。それでも弘志はどうでもいいかと思おうとしたが、反転しかけた身体が止まった。


 春樹の細い身体には赤い線が引いてあった。その線は赤く膨れ上がり、ジグザグしている。ミミズ腫れだ。それだけならどうでも良いと思えただろう。


 しかし、弘志は和田春樹の体から目を離せなかった。人間なら誰もが目を離せない異様な体だった。


 そのミミズ腫れが1本だけではなかった。何本も、何十本も。もう線が多すぎて身体全体が真っ赤になっていた。もう血管、手相、おへそなどの全てが見えなくなっているほど肌が腫れている。


 身体の中にミミズが何十匹も住んでいて、アリの巣のような何本もの枝分かれしているようなミミズの巣が身体の中に形成されているようだ。


 非現実的だった。怪物。化け物。魑魅。魔物。それに類するもの。


 そんなテレビの中の光景に目が奪われていた。


 そのため痛々しいという感情が遅れて湧いた。肌に冷たい空気が触る。服を着ていない部分が痛んだ。痛んだ肌を触ってみるが、もちろん傷は無い。


 固まった弘志の前で春樹は後ろを向く。


 背中にもその跡がついている。背中にピリッとした痛みが走る。でもこれは自分が感じている痛みではない。春樹が感じている痛みを想像しただけで自分まで痛いと錯覚した。


 弘志は自分の全身を隅から隅まで見回した。決して自分の肌にミミズ腫れなどできていないと分かっていても確認せずにはいられなかった。


「信じてくれましたか?」


 春樹の声で弘志は正気に返り、春樹の状態を分析する。


 どう考えても自分でやったとは思えない。誰かに拷問されたような傷。


 そして、その傷がありながら治療した跡はなく、痛がる素振りも見せない。空気が肌に触るだけでも激痛が走るはずなのに。


 目の前の男が急に恐ろしくなった。妄想癖とか虚言癖とか考えられなくなった。そんなこと些細なことだと思えるほどの傷だらけの体だった。


 キョロキョロと動く視線。まるで周りを警戒するような視線。


 それを見て、さらに恐ろしくなった。


 心臓が弱い人が見たら気絶するくらいの傷を持つ春樹が、自分の傷の痛み以上に恐れているものがあるということだ。それがこの傷を作った張本人だと弘志の直感が告げた。そして、それが妻を変えた犯人だと思った。


 予想ではなく、弘志の中ではそれが事実になった。


「和田さん、どういうことですか? これをやった犯人は誰ですか!」


 弘志は春樹の両肩を掴んで聞いた。


 春樹は顔に皺をつくり、少し痛がる表情を見せたが、弘志にとってどうでも良かった。


「とりあえず、来てください。外は危険です。誰に聞かれるか分かりません」


「何してるんですか? 和田さんと柳岡さん」


 後ろから急に声をかけられた。


「ふう。佐藤さんかあ」


 この近所で最もまともな佐藤さんで安心したが、両手から振動が伝わった。


 弘志の両腕は未だに春樹の肩に置かれている。


 すぐに春樹を見た。春樹は身体を震えさせていた。


 何が起きてるのか理解できなかった。先週に平田昌二が和田家にやってきたときもこんな感じだったと思い出した。


 なぜ和田さんが佐藤さんや平田さんに怯えている?


 10月に佐藤が平田昌二に和田のことを伝えていたことを思い出した。今まで重要ではないと思い、頭の隅に追いやっていた記憶。でも、なぜ今この記憶を思い出したのか分からない。


 弘志の中でカチッと音がした。


「柳岡さん、墨田家に行ってください。佐藤さんもグルです」


 振り絞るような声。弘志が春樹の肩に触れたときの何倍も体を震えさせている。


「は?」


 弘志が春樹の言葉の意味を理解しようとしていると、次は佐藤が膝をついた。


「和田さん。何言ってるんですか? もう止めてくださいよ。あなたのせいで妻は……本当にもう静かにしていてください。それで平和に暮らせるんですから」


 佐藤は膝をすりむくことに一切の抵抗をすることなく、足をアスファルトに引きずりながら春樹の元まで這いずった。膝からは血が流れ、進んだ道を示すように赤い川をアスファルトに作る。そして土下座するような形で泣きついた。


「僕はこのままで、このままが良いですから」


 あのときと同じ言葉を佐藤は発する。あのときよりも切実に、というよりもカルト宗教で神を妄信するような異常な熱量だった。


「みなさん、なにやってんだあ?」


 平田昌二が現れた。いつもの笑顔を貼り付けて。春樹と佐藤の変わり様の理由を考えようとしていた弘志の視界に昌二の笑顔が映り、思考は一時停止した。


 弘志には今まで以上にその笑顔が恐ろしかった。理解できなかった。春樹の異常な傷、大人の佐藤が土下座で泣きついている姿を前にしても笑顔だったから。いつもどおりだったから。


 その声を聞いた弘志を含めた全員が身体を震えさせた。


 カチッとまた体の中で音がした。ピースがくっつくような音だった。


「柳岡さん、墨田家に行ってください。はやく!」


 春樹は怯えながらも弘志に訴え続ける。


「弘志さん。前も言ったがあ。和田さんの言葉は嘘だあ。気にしなくてええだあ」


「でも、この傷は?」


「それは見なかったことにせえ」


 昌二の雰囲気が変わった。佐藤と春樹はさらに身体を震えさせた。


 昌二は真顔になった。これが裏の顔だと理解した。今までずっと恐れていたものが現れたとわかった。


「それがお前のためだ」


 今までののんびりとした口調ではなく、脅すような口調になった。全身に振動が走る。心臓が絞られるようにキュッとなる。


「柳岡さん。はやく!」


「柳岡さん。頼む。やめてくれ」


 目の前の春樹と足下の佐藤は真逆のことを叫び続ける。テレビで人生崖っぷちの人間が叫び狂うシーンが現実になっていた。


 弘志は何が正しいのか分からなくなった。情報処理にすべてのリソースが使われる。春樹と佐藤の姿は視界に映っていない。視界に映っている昌二の笑顔もだんだんと消えていく。すべての神経が自分が今、何をすべきなのかという思考に費やされている。


 それでも答えは出ない。何も分からなくなっていく。頭の中が真っ白になった。今の状況を全て忘れ去った。


 その真っ白な空間にひとつの単語が思い浮かぶ。




 『家族』




 弘志にとって最も大切なのは家族。愛し合っている千代子。大切に育ててきた千尋。正義の味方として働く自分(表の顔)。


 これを守ることが最も大事。


 今やるべきことは決まった。決まっていた。犯人を見つけること。手がかりは墨田家にある。


 誰を信じるとかではない。犯人の手がかりがある可能性があるのなら調べれば良い。それだけが自分に出来ることで、やるべきことだ。


 弘志は墨田家に走った。


 和田家の前に居る3人がどうしているか分からない。前だけを見ていた。


 1分もかからずに墨田家の前に到着した。何度も見た家。少しの色形の違いはあるが、ほとんど柳岡家と変わらない。一人で住むには広すぎる家。弘志には暗いオーラで覆われているように見えた。この家だけではない。周りの6軒すべてが覆われている。柳岡家も含まれている。昨日も見たような異形の化け物。しかし、昨日よりもそれは形を崩し、バランスがさらに悪くなっているように見えた。


 千代子を囲んでいた黒いオーラと似ている。きっとここの空気が千代子に染みついてしまったのだ。でも、これでそんな地獄も終わるはずだ。


 インターホンを鳴らすことなく、玄関を開けようとする。鍵がかかっている。


 すぐに玄関を開けることを諦め、玄関の横の大きな窓の前に移動する。


 玄関脇の大きな窓に体当たりする。そして、痛みを感じる前に再び体当たりをする。繰り返し、何度も体当たりする。表と裏の境界があやふやな弘志にはリミッターが存在していなかった。正義と悪の境界。理性と本能。その全ての境界が決壊していた。


 ガチャンという鈍い音が響き、パリンという破片が落ちる音が耳元で聞こえた。


 弘志の身体は割れた窓と一緒に、墨田家のリビングに滑り込む。アクション映画のようにスマートではなく、部屋の地面に肩を強打するように落ちる。


 長袖を着ていたこともあり、あまり切り傷を負わなかった。だが、何度も体当たりしたせいで右腕のあたりが痛み、上がらない。


 身体を起こそうとすると鼻に異臭が入り込んでくる。何重にも芳香剤が混じりあった臭い。


 加齢臭を香水でごまかそうとした臭い。下駄箱のくささを芳香剤で上書きしようとした臭い。それ以上の異臭が漂っていた。まるで何か強い臭いを打ち消そうとするかのように。


 身体を起こし、あたりを見回す。柳岡家と同じようにキッチンが繋がっているリビングで、全てのカーテンが閉まっている。弘志が入ってきたところから光が差し込み、暗い部屋が照らされる。


 特に変わったものはないと思う。


 正確には違う。部屋の中心に広がっている光景が異常すぎたせいで、周囲に何が置かれているか気が向かなかっただけである。


 部屋の真ん中の床に一人の女性が大の字で寝ている。固定されている。手枷、足枷がつけられ大の字になるように引っ張られている。首には犬がつけるような首輪がつけられ、首輪から伸びる紐は固定されることなくだらりと伸びている。床の一本線の跡から、初めは首も引っ張られていたが、もう必要性をなくしたことがうかがえた。


 女性の髪の毛は全て抜け、見えている肌は春樹と同じように真っ赤に腫れてた。胸の膨らみが無ければ女性だとは判断できなかっただろう。たぶんこの女性が和田美希だ。


 女性は顔を少しだけ上げて弘志を見た。表情には微かな驚きが含まれているように見えたが、すぐに真顔に戻る。瞳は真っ黒で何の光も映していなく、感情が剥ぎ取られ、人間の皮を被っている機械のようだった。そしてもともとあった場所に頭を戻す。それも機械の決められたプログラムかのようだった。4,5ヶ月前に会ったときの感情が抜け落ちた顔からどうすれば、さらに感情を奪えるのか想像すら出来なかった。


 口は塞がれていない。それでも助けを呼ばない。弘志に話しかけない。


 手足にもまったく力を入れる素振りを見せない。


 たとえ抑えつけられていなくても、そこから逃げる気はないようなほど無気力だった。不安、諦め、絶望、それらの感情はすでに出し尽くしたようだ。


 リビングと廊下を繋ぐドアが開く。


 そこには墨田光都がいた。


 弘志を見た途端崩れ落ちた。佐藤と同じように。


 犯人が犯行を見られたような様子ではなかった。こんな無惨なことをできる犯人なら襲ってきたり、逃げたりなど反抗するはずだ。


 弘志は冷静に分析出来ていた。自分のやるべきことが分かっていたからという理由もあるが、それよりも目の前の光景を現実だと受け止められてなかったからだ。殺人現場は何度か見たことがあるが、こんな悲惨な現場は見たことがない。


 光都は膝をつき頭を抱え、震えだした。


 お墓で見たときのように「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」とお経を唱えだした。まるで何か危険なものから守ってくださいと言うかのように。


 弘志は墨田に近づき、襟を掴み、無理矢理立たせた。


「おい! これはどういうことだ? お前が千代子も変えたのか!」


「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」


 光都はお経を唱え続けた。まるで弘志の言葉が聞こえていないかのように。


 弘志は墨田が犯人だとは思えなくなっていた。墨田はまるで被害者のようだった。犯人を見つけたという喜びが消え、弘志はどうすれば良いかわからなくなった。


 やっと地獄から解放されると思った。揚げてげられた。この落差は弘志の中に怒りを生んだ。誰も悪くはない。


 でもここにいるのは光都だけ。弘志の怒りの矛先は光都に向けるしかなかった。


「おい。誰が犯人なんだよ。誰が僕の妻を変えたんだよ! おい。答えろよ!」


「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」


 もう光都は壊れていた。弘志が侵入してきたことで最後の糸が切れたようだ。焦点が合わず、体のそれぞれの関節が仕事をしていない。


「止めてくれ! 頼む」


 窓のところにはリビングの床に手をついた佐藤がいた。顔や手にできた生々しい傷は何度もこけて、やっとの思いでここまで来たことを示していた。四つん這いの形でリビングに登ってくる。散らばっているガラスの欠片が手のひらに刺さるのを気にしていない。


「何してんだあ。お前らあ」


 笑顔の仮面を被り直した昌二が窓から姿を現す。右手にはガーデニング用スコップを持っている。子供が砂場で遊ぶ用のものではない。匙型の部分は鉄と鋼でできていて黒い。


 昌二の隣には同じく笑顔の仮面を被り、スコップを持つ平田恵子。


 この惨状での笑顔とスコップからは殺人鬼を想起させる。


 平田夫妻の後ろに和田春樹。妻を見て、空を見上げて泣いている。妻を取り戻した感動、妻だった人形を見た悲嘆。どんな感情なのかは分からない。でも壊れているのは確かだ。


 壊れた人間が4人。人間の皮を被った化け物が2人。


 カチッと音がした。弘志の中で記憶が繋がっていく。


 平田夫妻が犯人だ。そうじゃないとしても関係者。何か情報を持っている。


 ほとんどパズルは完成している。あと数ピースですべてが埋まる。


 平田夫妻は靴を履いたまま、ためらうこともなくリビングに上がり込んでくる。手に持ったスコップで反射した日光が目に入る。


 弘志は瞬きをする。平田夫妻との距離が近づいている。


 ゆっくりと歩いてくる。


 殺される

 殺される


 弘志は手に掴んでいた墨田を放り投げて、廊下に出て、奥に逃げる。


 犯人を見つけた興奮を感じる間もなく、死への恐怖が身体を満たした。なぜだか家に居るときと似たような感覚だった。あり得ないことだ。家は安全なところなのだから。


 愛し合っている妻。無邪気で楽しそうな娘。死を感じる要素がない。


 でも最近家で死刑台に立つような感覚になった。夏にも同じ感覚に陥った。この記憶は夢で見たものだったっけ? それとも物語の中のことだっけ?


 パズルを進めていた脳がその手を止める。


 階段の前についていた。家の構造は同じようだ。


 足音が近づいてくる。リビングのドアから昌二の顔がにょきと出てくる。顔は変わらず笑顔のまま。開いているのかわからない目がにっこりとした曲線を描き、頬は上に引っ張られ、口の端も上がり、笑顔を形成している。


 昌二が弘志を目に収めると、さらに口角が上がったように錯覚する。


 殺される


 階段に一歩踏み出すと嫌な感覚に陥った。この先には進んではいけないと頭に警鐘が鳴り響いた。首筋に冷たい感触が走る。まるで金属のような冷たさ。


 なぜかギロチンを想像した。以前にも感じたことだからなのか?


 いや、以前とはいつだ? こんな死刑執行される気分を感じる機会なんて今までなかったはずだ。


 自分は何か忘れているのか?


 完成しかけているパズルからピースが数枚落ちる。


 昌二は手を伸ばせば届きそうな位置まで来ていた。恵子も昌二の後ろにぴったりと並んでいる。昌二とまったく同じ顔で。


 階段の上を覗く。


 一度大きく息を吸う。


 そして吐こうとすると、腰あたりを捕まれた。


 一瞬息が止まり、咳き込んだ。腕を振り払うように腰を動かし、階段を1段上る。その瞬間に殺気を感じた。後ろから風を感じた。


 怖くて見ることができなかったが、スコップが振り下ろされたのだと分かった。


「なかったことにするだあ」


 今まで聞いてきたのんびりとした声。


 インターホンが鳴る。弘志の立っている位置から玄関が見えた。


 弘志は玄関を見る。昌二の姿も視界の隅に映る。インターホンが鳴り続ける。


 誰が押しているのかは分からない。でも今は平田夫妻から逃げなければいけない。


 階段を上るためにも2段目に一歩踏み出す。靴を履いているはずなのに、足裏にぞわぞわした感触が流れる。手すりに置いた右手からも同じ感触が伝わる。その感触が心臓にも伝わる。


 一段目に昇ったときには感じなかった。きっとそれは昌二への恐怖で隠されていたのだろう。


 心臓にミミズが巻き付いたかのようにヒヤッとした感覚。ミミズのうっすらとした体毛が心臓をさする。


 ミミズ腫れを見たばかりだからだと自分に言い聞かせ、3段目に足を運ぶ。


 心臓の中にミミズが入ってくる。体中が冷たくなる。


 4段目、5段目、6段目と昇る。


 ミミズは血管を通って身体全体に流れていく。ぞわぞわする。体毛が逆立つ。

 立ち止まると下から恐怖を感じる。だから昇る。


 春樹のように肌が腫れているのではというほど痛みを感じる。ヒヤッとした恐怖は、痛みによる恐怖に変わっていた。


 2階についた。下からは平田夫妻が追いかけてきている。


 4つの扉が見えた。


 どこに逃げ込めば良い? という疑問は浮かばなかった。ひとつの扉に引き寄せられた。理由は分からない。でもその扉だけが目に映った。


 ドアの前につく。ノックをした。


 光都は一人暮らしで他に誰もいないはずなのに。いや、千代子が同棲者がいるを言っていた。それでも、いたとしてもこの緊急事態では余計なことはしないはずなのに。でも軽く2回ドアを叩いた。


 叩かなければいけない気がした。敬意を払う必要があると感じた。目上の人、先祖のかた、自分の先を歩む者が居る気がしたのかもしれない。


 返事はなかった。


 弘志はドアを開けた途端、ハエが大量に出てきた。ハエと一緒に腐敗臭、死臭が出てくる。それが廊下に置かれている芳香剤の匂いと混じるが、少しも臭いは浄化されない。


 顔に大量のハエがぶつかってくるが、どうにかして鼻を摘まんだ。


 数秒で視界は開けた。


 部屋の中はカーテンも閉められ、弘志が開けたドアから差し込んだ光だけが部屋の中を照らした。ハエはうじゃうじゃと飛んでいるが、嫌悪感は少ない。


 それ以上のものがあったから。


 二カ所だけハエの数が異常な箇所があった。何に集まっているのか一瞬分からなかったが、すぐに分かった。


 部屋には正座をしている女性、あぐらをかいている男性の二人がいた。30代後半くらいだろうか。いや、まったく分からない。ただ大人としか判断できない存在。


 肌が暗い褐色に変わり、所々の皮膚が剥がれ骨が見えてるところまである。男の顔に目玉は一つしかなく、唇は半分しかない。女の胸は穴が開いて中身まで見えた。


 弘志は部屋の中に一歩も入ることができなかった。本部で働く刑事なら入れたのかもしれないが、交番勤務の弘志では入れなかった。


 理由は恐れだけではない。なぜか、人間だと認識するのがやっとの死体が自分の顔に見えた。まるで未来図であるかのように。


 真後ろに平田夫妻が立って、スコップを振り上げていた。


 弘志は心の中で「千代子。千尋ごめんな」と言った。これから家族を支えることができないことへの謝罪。


 弘志はもう死を受け入れていた。抗おうという気が一切沸かなかった。その理由はもちろん分からない。生にしがみつくという選択肢がそもそもなかった。


「待つでありんす」


 語尾、口調から誰かはすぐに理解できたが、ここに居るはずがない人物の声。


 だがその少女が階段から姿を現した。


 その少女の隣にもう一人の少女。笑顔を貼り付けている。その笑顔は平田夫妻と同じだった。今までもそう感じていたが気のせいだと思ってきた。でもこの状況で笑っている千尋は擁護しきれない。


 大切にしてきた娘が怖くなった。娘が殺人鬼の仲間入りをした。


 平田夫妻はスコップを上げた状態で止まっていた。


 自分が助かったことを喜ぶ暇はない。次から次へと状況が変わっていく。


 二人の少女の後ろからもう一人の女性が上がってくる。


 弘志のあちこち動いていた視線は一点に固定された。


 

 人生で一番見た顔。

 妻。柳岡弘志の妻。自分の妻。愛した妻。

 表の顔。


 

「千代子。ちよこ。やっと犯人を見つけたんだ。これで元に戻れる」


 千代子は近づいてくる。やっと僕のところに昔の千代子が戻ってきた。


 弘志は両手を広げて、千代子を迎える。


「ち、よ、こ。なんで?」


 お腹に激痛が走り、意識が遠のいていく。弘志の視線は千代子に固定されたまま。


 

 最近初めて見た顔。

 千代子。

 裏の顔。



 なんで僕は妻の千代子に殺されてるんだ?


 そんな疑問が湧いたが、すぐに答えが分かった。頭の中で出来上がりかけていたパズルのピースはバラバラと音を立てて崩れていく。


 すべてを思い出した。完成しかけたパズルは崩壊したが、その下にすでに完成しているパズルがあった。今まで必死に考えていたつもりが、ただ逃げているだけだったと思い出した。


 そうか僕が『裏切り』をしたからだ。僕が原因で妻、千代子は変わった。


 悪を積み重ねてきた。受け入れることなく、精算することなく。


 だから僕は殺されるんだ。



ーーーあとがきーーー

まだ完結ではないです。

あと2万字ほどありますのでよければお付き合いください。

ここまで読んでくれている皆さんなら最後まで読んでくれると信じています!!

コメントなどもらえるととても喜ぶのでよろしくお願いします。

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