11月29日(金) 30日(土)
朝起きて交番に向かう。
鼓芽とパトロールに出る。運転席には鼓芽が座っていた。
「弘志大丈夫か?」
「なにが?」
鼓芽に心配されたのは久しぶりだった。10月あたりから鼓芽は心ここにあらずだった気がする。自分が言うのも少し変だが。
10月の初めは弘志も嘘をついた罪悪感に苛まれ、仕事に熱中することでその悩みを忘れようとしていたため、鼓芽に注意が向かなかった。だが、少なくとも10月後半から最近までは、鼓芽は今までよりも仕事に真面目に取り組んで、周りを見ないようにしていた。まるで弘志がそうであったように。
「クマが凄いし。顔色も悪いぞ」
「それをいったら、テルも最近どうしたんだ? 寝癖もないし」
弘志の言葉にはまったく覇気が無かった。
鼓芽は神妙な面持ちで話し出す。
「まあな。弘志には言ってもいいか。俺のおふくろが、9月に亡くなってよ」
いつもの適当な話し方のようでありながら、切なさを含んでいるような声。
弘志は驚いたが、表情筋は動かなかった。生気がなくなっている。
鼓芽の父親は幼いときに亡くなって、母親一人で育ててもらっていたと聞いたことがある。弘志の家庭と父親を亡くした点で似ている。
「それでなあ。関係は無いだろうけど、俺がもっと真面目だったらとか思ってなあ。昨日までずっとそれを引きずってたんだけど、そろそろ前を向かないとおふくろにも悪いと思ってな」
弘志は母のことを思い出す。
父の言うとおりに動いていた母は、父が亡くなってからは、さらに口数が減った。父は大学を出た方が良いとずっと言っていた。母は弘志を大学に入れてすぐ亡くなった。まるで役目を終えたかのように。
あの頃はとても悲しんだ。それが正義感をもった人の行動であるから。
今思えば、母は自分を縛りあげた父の協力者で、育ててくれたことには感謝しているがそれだけだ。鼓芽の話に共感することができない自分がいると気づいた。
だが、それをどうとも思わない。
「俺の話はもういいだろ。お前こそどうしたんだよ。前を向こうと思ったら、お前が変になってて前を向いて損したよ」
鼓芽は昔のように適当な口調に戻り、ニヤッとしたいつもの少年のような笑みを見せた。
服装がしっかりしているため、懐かしさのなかに違和感が含まれていたが、どうでもよかった。
「別に何でもないよ」
「そんなわけないだろ。俺が弘志とどれだけいると思ってるんだよ。今のお前本当に顔色悪いぞ。奥さんとなんかあったのか? なにかあったら言えよ」
「うん。ありがとう」
前にも鼓芽に「ありがとう」と言った気がする。あのときはどんな気持ちで言ったのだろうか? 前回と今回で異なることだけは確かだ。でもどうでもよかった。
親友のことを考えられないくらい弘志は追い込まれていた。
今まで積み上げて手に入れた居場所が壊れかけている。愛し合った妻との関係が崩壊しかけている。大切に育ててきた娘との溝が大きくなる。
それを理解しながらも、違うと思い込んでいる精神はぼろぼろになっていく。
11月30日
気づけば当直が終わっていた。
交番から出て帰ろうとすると、斉藤に話しかけられた。鼓芽は「本当に何かあったら言えよ」と言って先に帰った。
「先輩、今日も行かないんですか?」
斉藤は頬を赤くし、もじもじしながら言った。真面目な優等生の姿はなかった。すでに裏の顔が出ていた。
斉藤から誘われることは今までなかった。いつも弘志がメッセージで「今日行ける」と連絡していた。斉藤はいつでもそれを了承してくれた。
「まあ。行こうか」
弘志は行っても、行かなくても、どっちでも良かった。特に欲求不足ではなかった。どうでもよかった。
でも家に帰りたくなかった。理由は分からない。何で家に居たくないんだっけ?
でもやるべきことはある。すぐに帰って近所の誰が原因なのか調べないといけない。理由は、変わってしまった妻の千代子を助けるために。
それなのに、なぜ自分は斉藤の誘いを受けたのだろうか? まあどうでもよいか。
「はい!」
斉藤は今にでもスキップを始めそうなくらい嬉しそうに返事をした。
移動中、斉藤に腕を組まれた。今まで千代子としかしたことが無かった。
二人で並んでホテルに入った。初回以外は別々に入っていた。誰かに見られてもごまかせるようにするため。
でも今日はそんなこともどうでも良かった。いや、何も考えていなかった。
「弘志さん。それじゃあ愛し合いましょう!」
「うん」
そして、ヤッた。
今まで気持ち良かったと感じていたのが不思議なほど、何も感じなかった。斉藤の顔はいつも通りとろけていた。
仮眠を取った。起き上がると大きな鏡に自分が映っていた。その顔は津田紀子、和田美希と同じ。そして美琴の白目と同じく何も映していない。
ホテルを出たときには外は暗くなっていた。
弘志のなかに生じたズレは表と裏を区別する壁に断層を作り、ついには決壊していた。
家の前に着き、弘志は視線を上げた。前には自宅。右には佐藤家、左には平田家。家の裏にある家も全体ではないが一部が見える。それは一つの怪物のように見えた。子供が積み木で作った不格好でぐらぐらと揺れるほどバランスが悪いものに、死などのありとあらゆる負の感情をべったりと塗ったような異形の存在。
以前に露光家が悪魔の住処にみえたことがあったが、あの時の比ではないほど禍々しい。それでいて危ういほど脆そうでもあった。少しどこかに力を加えればこの化け物を倒せそうな。
弘志は目をそらし、玄関に近づく。
家に入ろうとすると、足へかかる重力が倍になったかのように重くなった。理由は分からないが、力を入れて家に入る。
「ただいま」
玄関には二人の靴がある。耳を澄ませると音が聞こえてくる。たぶん「おかえり」と言っているのだろう。
そういえば、なぜ二人は2階にいるんだっけ?
昨日とまったく変わらないか。それなら問題はない。これも千代子が変わった原因を見つければ終わる。思考がちぐはぐだが弘志は気づけない。気づかないふりを自動的に脳が実行する。
何かつくろうかとキッチンに向かった。
「はあっ!」
呼吸が止まった。
弘志はとっさに自分の首を触った。
2つあるはずの包丁が1つしかなかった。
冷や汗が突然吹き出した。何度か自分の首があるかを確かめる。それでも心配になり洗面台の鏡で首がついているか確認する。洗面台で顔を洗ってもう一度確認する。触って確認する。
そこでやっと落ち着いた。
階段の方を見ないようにしてリビングに戻る。なぜか階段から嫌な予感がした。
キッチンに行くのが怖くなり、電気をつけたままリビングで横になる。電気を消してしまえば、襲われるのではと恐れながら。でも誰に襲われるのかは分からない。強盗、殺人鬼でも来るのかもしれない。
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