11月27日(水) 28日(木)
今日は仕事を終え、すぐに家に帰ってきた。千代子の様子が変わってからは斉藤と会うのを止めている。
家に帰ってからは千尋の迎えや家事を全てこなした。千代子が担当の家事もした。
「ただいま」といつもの声で千代子が帰ってきた。そして千尋が千代子に抱きつく。先週から、いや新居に引っ越してからほとんど毎日見てきた光景が目の前に広がる。しかし、弘志は先週の水曜日の光景にしか見えていない。
千代子は千尋を抱きしめながら、廊下で佇む弘志を鋭い目つきで睨む。その目には軽蔑、侮蔑、怒り、恨み、全ての負の感情が載っている。玄関と廊下では異なる空気が流れていた。
笑顔で母の帰りを喜ぶ娘、冷や汗が止まらず身体を震えさせる自分。春と真冬。温帯と寒帯。
先週から少しずつ千代子は弘志にこの眼差し、感情を向けてくるようになった。そのため斉藤と会うのを止めた。今では先週の水曜日の少しの間に見せた負の感情を常に向けてくるようになった。
水曜日のあの睨み付ける眼差しが見間違いだとは思えない状況になっていた。
しかし、先週から今日まで千代子が自分を嫌う理由が思いつかない。今日も家事を全てこなして、機嫌を取るような行動すらしている。だが、状況は悪化の一途をたどっている。
でも分かったこともある。今、千代子が見せている顔は裏である。人間には表と裏の顔があると理解してから、千代子にも裏の顔があると思っていた。だが、自分にその裏の顔を見せてくるとは想像もしていなかった。
裏の顔とは、表の顔をサポートするため。表の顔ではできないことをするため。普段の生活ではやってはいけないことを隠れてするため。
使い方はそれぞれあるが、表であるはずの家族の前では絶対に使わないはずのもの。
「おかえり」
弘志の小さな声が廊下の壁に吸い込まれて消える。
千代子は弘志の視線から千尋を守るような位置取りをして弘志に向かっていく。千代子と千尋は手を繋いでいる。その手には力が入り、絶対に千尋を弘志に渡さないという意思を感じた。千尋は千代子と対照的にとても笑顔だ。
二人は弘志の横を通り過ぎて2階に上がっていく。そしてパジャマを持ち、また弘志の横を通り過ぎて、お風呂に入っていく。新居に来て、二人でお風呂に入るのは一昨日からの3回だけである。
弘志は夕食をテーブルに運び、二人を待つ。部屋はストーブがついていて暖かい。でも弘志の身体は温まらない。
ドライヤーの音が聞こえてくる。
千代子に隠し事をしてから、悲しんでいる原因が自分ではなく露光凜にあると分かるまでの期間を思い出す。あの時のように、再び自分は死刑台の上に立っている。今回は、首にギロチンの刃が当てられるところまできている。
ドライヤーの音が止まる。二人分の足音が近づいてくる。
ドアが開けられたらギロチンが落ちてくるのではと思い、首を引っ込める。動くことで汗が落ちる。自分の前に置かれた箸は濡れる。
足音が離れていく。階段を上ったのだと分かった。
強く握っていた拳が緩む。指の先は白くなっていて、手のひらには爪の跡がついているほど強く握っていた。
握ったり、開いたりする。止まっていた血液が流れ始め指の先が赤くなっていく。
ふうと溜め息を吐く。安心と不安が混在した白い息。
まだ殺されていない。だが、確実に死が近づいている。
一昨日までは一緒に食事をしていた。すぐに食べ終わり、千尋の部屋に避難していたが。
弘志は心の奥底で千代子に自分の不倫がバレたことに気づいていた。だが、もし先週からバレていたとしたら、なぜ自分は一度許されたのかが分からなかった。
先週の水曜日の夜、一度は壁はあるものの普通の千代子に戻った。それは許されたことを意味する。
普通だったら許されない。『裏切り』を憎む千代子が許すはずがない。今も避けられてはいるが、なにも危害を加えられていないし、この家に残っていてくれている。千代子の実家はここから近いのだから千尋を連れて行くはずだ。
だからまだ原因が自分ではないのではと弘志は考えることができた。
これを考えたのが一昨日の夜である。その日は寝室に千代子は現れなかった。今まで家に居るときは一緒に寝ていたのに。
押し入れの奥にしまったペットボトルを必死に探した。
龍親水が入ったペットボトルは水滴がついてるだけだったが、ペットボトルをこれでもかと傾け、その数滴を口に含んだ。あの頃と同じ行動をすることで心を落ち着かせようとした。
それでも寝ることが出来ない。隣の空白地帯から吹雪きが流れ込んでくるように、背筋に冷たいものが流れ続ける。ずっと見られているような、いつ凍えた死体になってもおかしくないような感覚が収まらない。
寝室には化粧台も備えられている。すでにほとんどの化粧品が台から消えていたが、香水セットだけがぽつんと残っていた。千代子が気に入っていた桃のお酒の匂いがするものを妻が寝ていた場所に数滴かけて弘志はベッドに寝転び、目をつむった。
ほんの少しの安心感と温かさを感じる。その裏に香る、斉藤を思い起こさせる甘い臭いは無視した。
千代子がいないのは今日だけ。きっと千尋が一人で寝るのを怖がったのだろう。妻は僕を愛している。
弘志は思考を無理矢理ねじ曲げた。心が死んでしまうのを防ぐために。
自分の不倫が原因ではない。他の原因がある。自分は妻に嫌われていない。拒絶されていない。他の原因を探すと決めた。まるで小学生の時に自分を正義感が強い少年だと思い込んだときのように、防衛機関を自分の中に作り上げた。
自分の死が近づいていることと他に原因があることは矛盾しているが、今の追い込まれた精神状態の弘志はそんなことには気づかない。
弘志は一人で夕飯を食べようと思ったが、口を通らなかった。全ての料理をキッチンに運び、ゴミ箱に捨てた。そして食器を洗った。水切りラックに並ぶ食器は今までと何も変わらない。まるでさっきまで3人で食事をしていましたと証明しているようだ。
弘志は再び椅子に座る。
昨日まで弘志の席の後ろには千尋が千代子に誕生日プレゼントで送った千羽鶴が飾られていた。今はなくなった。まるで鶴が『夫婦円満』を持ち去ったように、白い壁があるだけ。
しかし、弘志は千代子の誕生日前の関係に戻れる暗示ではないかと考えた。自分に裏の顔があると気づく前の平和な家族に。
弘志はお風呂に入り、二階に行くことなくリビングで寝た。寝室に妻がいない事実から目を背けるために。自分が避けられているわけではないと思い込むために。
11月28日
目を覚ますと家には一人だった。いつも通り幼稚園と仕事に行っただけだろう。
外に出た。目的は散歩ではない。妻が変わった原因を探すためだ。
妻が変わった原因は近所づきあい以外には考えられなかった。職場の中学校でなにかあったなどの話は聞いたことがないため。それに中学校に原因があったとしても調べることができないため無意識的に除外した。
今の弘志は近所の誰かが原因で妻が変わったと信じ込んでいた。そうでなければ原因は自分の不倫になってしまうのだから。
柳岡家がある区画の6つの家を囲む道を回るようにして歩く。挨拶回りの時と同じく反時計回りだ。
まず佐藤家。平日はスーツで、髪もワックスできめていて、できるサラリーマンといった感じ。休日は昼間からお酒を飲んでダラダラしている。奥さんもかなり回復しているらしい。
次は和田家。和田春樹は妄想癖と虚言癖を持ち、かなり変わっているが千代子とは関わっていない。
次が露光家。両親とは会ったことがないが妻や平田さんの話から子供思いでよい方たちのようだ。子供の凜は姉を亡くしたショックからなのか姉の真似をしている。しかし、千尋とは仲が良いただの子供だ。妻を変えたとは考えにくい。
次が墨田家。お墓で一度会った以来だ。妻の話では無愛想だけどわかりやすく投資のことを教えてくれるそうだ。平田さんの話しでも根は良いと聞いた。家族を家に入れない。
最後が平田家。平田夫妻の貼り付けたような笑顔は不気味だが、一緒に食事をしたりしていて不審な点はないはず。妻も一番仲良くしている。
10分もかからずに1周が終わってしまう。
妻を変えた原因はまったく検討もつかない。しかし、これは妻や平田夫妻の話から得た情報をまとめたものだ。実際は佐藤さんの奥さんはまだ精神的に回復していない。他にも違いがあるかもしれない。
何かがおかしいのは明らか。妻が嘘をついているはずはないので、平田夫妻が嘘をついていることになるが、平田夫妻と妻の話はほとんど同じだ。
家にはなぜだか体が向かおうとはしない。自分でも理由はわからない。家は自分、最愛の妻・娘の居場所のはずなのに。最も安全な場所のはずなのに、死の恐怖を感じる場所になっていた。
弘志は千代子が自分に向けている負の感情から目を背けるために、自分の思考をねじ曲げたことで、認識と感覚にズレが生まれ始めていた。
頭の中での妻は自分に心を開いている互いに愛し合っている存在。一方で、千代子は自分を『裏切り』行為をした憎むべき人間と考えていると体は理解している。大きなズレ。
話からの情報と、実際に見た情報の小さなズレ。頭の中では自分が見た情報を否定しようとする。最愛の妻が自分に嘘をつくことはないから。だが、本当は妻が嘘をついていると理解している。その現実を弘志は必死に体の奥底に押しやる。
そのため妻が嘘をついている理由を考えることが出来ない。妻が嘘をつくはずないと信じ切っているから。思考する脳に、妻が嘘をついているという情報が伝達されないから。
脳は妻の情報を完全に信用しようとする。そして近所の人に怪しい人はいないと答えにたどり着く。しかし、それを否定する。
まだ情報が足りないだけだ。妻も知らないなにかがこの近所の誰かの家にあると改めて結論を出す。
住宅街を大きく1周する。近所の6軒を1周する。近くの公園のベンチで休憩する。また住宅街を1周する。それを夜まで繰り返した。近所の人とは会うことがなかった。
家に戻ったときには千代子の車が止まっていた。
そういえば今日は千尋の迎えに行っていない。何も考えずに歩いたり休憩したりしたせいで、完全に忘れていた。
玄関に入ると千代子と千尋の靴があったが、家の中は誰も居ないかのように静かだ。階段に近づき、耳を澄ますとかすかに音が聞こえてくる。
なぜ自分が安全な家の中でこんなにこそこそと行動しているのか分からない。
家の中に二人がいることが分かった。なぜだか体の強ばった筋肉が弛緩する。妻と娘が家に居るのは当たり前のはずなのに。
冷蔵庫に入っている冷凍食品をレンジで温める。お腹を満たす。味はほとんど感じなかった。少し前までは美味しかったはずなのに。
今日も千代子が変わった原因を見つけることができなかった。自分の死刑決行日時が縮まった気がした。何の罪も犯してないはずなのに。
昨日と同じくリビングで寝る。理由は分からない。ベッドで寝た方が気持ちも良いし、体も休まるはずなのに。
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