11月21日(木) 休日

 翌日。昼前に弘志は目覚めた。木曜日のため家には一人だけだ。


 夜の7時頃から平田家でご飯を一緒に食べる以外の予定はなかった。


 弘志は3時頃までダラダラと過ごした。妻に何があったのかも考えたが、自分が原因である可能性は限りなく低いとわかったため、ゆっくりと見つけていけば良いと思っていた。


 千尋の迎えの前に、少しランニングしようと外に出た。佐藤家の前を通る。昨日のことを思い出す。妻に佐藤忠文の奥さんについて聞こうと思っていたが、昨日は聞くことが出来なかった。妻や平田夫妻の話と実際の奥さんの様子がかみ合っていない。


 佐藤家で曲がり、和田家の脇を通り抜けていこうとすると和田春樹に呼び止められた。


 春樹と会うのは3回目だが、服装は変わっていなかった。顔の上半分だけが外に出ている格好だ。いつもと違うのはシャツとズボンの色が違うことくらいだろう。


 そして、今回はさらに変だった。季節的に服装はあってきたので、変なのは服装ではない。


 和田家の周りは正面以外が柵で囲われていた。正面には白とシルバーの2台の車がコンクリート上に止まっていて、その隣のもう1台止められそうなスペースは芝生で覆われていた。


 春樹は芝生の開けたスペースではなく、車と車の狭い間にしゃがみ、誰かから隠れるようにしていた。弘志を呼び止める声も小さく、気づかないで通り過ぎてしまいそうだった。


 弘志が春樹の方を見ると、春樹は声を出すのを止め、手招きしだした。前回会ったときに何か言いたそうにしていたことを思い出した。あの時は用事があり、深く聞かなかったが今回は前回よりも深刻そうだと直感した。


 弘志は父親から警察官へと気持ちを入れ替え、ゆっくりと近づいた。


 何かから追われているのかと思い、弘志も声を小さくした。春樹は周りをあちこち見ていた。昨日の佐藤忠文と重なった。


「どうかしましたか、和田さん」


 春樹は何も言うこと無く、弘志の袖を少し引っ張り、ついてきてくださいと伝える。弘志は玄関に向かっていく春樹に無言でついていった。


 昨日思い出した美希の顔も表情が喪われていた。春樹からのDVなどではないだろう。いや、人間は誰もが裏の顔を持っているから、絶対というのはあり得ないな。でも、もしかすると美希のことで困っているのかもしれない。


 しかし、3ヶ月前から美希は感情を喪った表情だった。今頃になって助けを求めようとしているのか? それも医者ではない自分に。それとも別に何かが起こったのだろうか?


 少しでも情報を得ようと弘志は春樹についていきながら周りを見るが、特に変わったものはない。


 玄関のドアを閉めると、春樹は、はあぁ、と大きな溜め息を漏らした。まるで化け物から逃げ切ったかのように大きな溜め息だった。


 弘志はもう一度前で膝に手をついている春樹を見た。春樹の額からは大量の汗が噴き出し、足が少し震えていた。もともと細い顔も前回よりもげっそりしている気がした。想像以上に大きな事件なのかと、もう一段階警戒レベルを上げた。


「それで何があったんですか?」


「妻を助けてください! 柳岡さんは警察官なんですよね。お願いします」


 全ての体力を使い果たしたように疲れていた春樹は、膝から手を離しゾンビのように弘志の両肩に手を乗せて体重をかけてきた。マスクの脇から見える頬と目元は青白くなり本当に死人のようだった。


 弘志はいきなりのことで春樹の体重を支えきれず、玄関のドアに背中から激突した。


 弘志の「イタッ」という叫びとドアへの激突音で春樹は冷静になったのか、弘志の肩から手を離し、頭を深く下げて謝った。


 弘志は白い手袋が目に入り、それが殺人犯が指紋を残さないための手袋かと身体が反応してしまい、とっさに撃退しようと柔道の構えを取っていたが、すぐに構えを解いた。


 弘志はそこまで痛かったわけでもないのですぐに春樹の頭を上げさせた。


「とりあえず、上がってください。お茶くらいは出しますので」


 春樹の声はまだ震えていたが、先ほどまでよりは落ち着いていた。


 玄関を入って、廊下が奥に伸び、すぐ左手のドアを開けるとリビングだった。リビングとキッチンがくっついるオープンキッチンだった。2階はわからないが、1階は柳岡家と同じ構造だった。


 弘志は案内された椅子に腰をかけた。春樹もすぐにキッチンから冷たいお茶を持ってきた。


 いつも長袖長ズボン+手袋などの完全防御形態なので寒がりだと思っていた。そのため冷たいお茶が出てきたのは少し予想外だった。部屋を見渡すと、エアコンはあるが、ストーブは出ていなかった。柳岡家ではもう炬燵もストーブも出ている。


 そういえば和田夫婦は寒がりなのではなく、潔癖症だったことを思い出す。部屋は確かに綺麗だが、柳岡家とあまり変わらないように見えた。挨拶回りの時と同じく執拗に服の袖を気にして肌を出さないようにしている。服装や行動の印象と部屋の綺麗さにずれが生じている気がした。


 出されたお茶を一口飲み、春樹の顔を見る。マスクを外さずに、水を飲むときだけ下からマスクを上げている。肌を見せないことを徹底している印象を受ける。


「それで何があったんですか?」


「信じられないかもしれないんですが」


 春樹は弘志の目を見て話し出した。


 カーテンは閉まっているが、隙間から日光が入ってきて、電気もついているので明るい。一方で、春樹の暗い声により、テーブルの周りは暗い空気が漂っている。


「妻が監禁されているんです」


 何を言っているんだ? と思ったが、目の前の真剣な春樹を見ると荒唐無稽ではないと感じた。


「えっと、どういうことですか?」


 これだけでは何が起こっているかわからないため、質問した。そもそも監禁されているということは、誰かに攫われたことになる。なぜすぐに警察に連絡しないんだ。身代金を要求され、警察には連絡するなと脅されているのか。そう考えるなら庭で身を隠していたことにも納得できるが、それなら10月に会ったときのあの態度はどういうことだ?


 弘志は前回会った10月から春樹は何かの事件に巻き込まれているのではと考えていた。この1ヶ月以上の間に何かしらの変化があり、やっと弘志に話をする決心がついたのだと思った。そうすると弘志の推測は外れていることになる。誘拐犯がこんなに長く待つわけがない。そもそも交番勤務の弘志はそこまで難解な事件を解決したことが無い。そういう事件は本部の刑事などの担当だ。


「監禁されているといっても会えないわけではないんです。どこで監禁されているかも分かりますし、たまあに会うこともできます」


 ますますわからなくなってきた。弘志の頭の上に?が浮かぶが、春樹は続ける。


「墨田さんの家で監禁されてるんです」


「はい?」


 弘志はつい声を上げてしまった。なぜなら先週の休日も千代子は墨田家に投資について教えてもらいにいっていた。確かに千代子が入らない部屋に監禁している可能性はあるが、それならわざわざ妻を家に入れるはずがない。それに平田昌二も墨田家には時々上がらせてもらうと言っていた。


 お互いに沈黙する。どちらが次に話すか微妙な雰囲気になった。


 墨田光都がお墓でお経を唱えていたのを思い出した。あのときは怯えていた。そんな大学生が監禁なんてしてるはずがない。


 いや。


 弘志は光都の姉のことを思い出した。家族をいれないようにしているのは、客人なら入る部屋を制限できるが、家族だとどの部屋に入られるか分からないからか。


 でも家族を入れないのは同棲者がいるからのはず。


 弘志は妻の話を疑っていた。本来なら絶対にあり得ない。しかし、昨日の妻の裏の顔、佐藤さんの奥さんの話がかみ合わなかったこと。その二つが弘志の思考回路に穴を開けようとしていた。


「すみません。えっと、墨田さんってあの墨田さんですか?」


「はい」


「墨田家のどこらへんに監禁されてるんですか? 玄関に入ったらわかりますか?」


 普通だったらあり得ない質問だが、春樹は会うことができると言っていた。


「1階のリビングにいます。どうか助けてくれないでしょうか」


 掴みかかってくることはないが、切羽詰まっていることは伝わってきた。


 本当に妻と平田夫妻が言っていることと矛盾する。どちらかが嘘をついていることは確実。


 もう一度、春樹を下から見た。何か情報がないか探すように。だが肌は隠れててなにも見えない。眼鏡のレンズの奥には一点を見つめている目があった。レンズの度数が強いのか大きく見える。挨拶回りの時に玄関前で話した時はあちこちと視線をずらしながら話していたはずだ。庭に居たときもあたりを見回していた。あのときから監禁されているのか? いや、挨拶回りのときは和田美希もこの家に居た。


 考えれば考えるだけわからなくなっていった。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴った。止まっていた時間が動き出す合図のようだ。


 弘志は玄関の方を向こうとしたが止めた。春樹の身体は電気を流されたかのように大きく揺れ、頭を抑えた。再び血の気が引いて顔が青白くなり、震え出す。「助けて」「僕は何も話していない」「約束は守っている」などと小さく呟いていた。


 再びチャイムが鳴る。


 弘志は玄関の方と春樹を交互に見て、玄関の方に向かった。廊下に出ると玄関の鍵が開いているのがわかった。腰を落として、誰が侵入してきても対応できるようにする。


 すり足で玄関のドアに近づいていく。


「和田さんいなんだあ? まだ仕事中だか?」


 聞き覚えのある声だ。


「昌二さんですか?」


「そうだあ。もしかして弘志さんかあ。なんでここに?」


 弘志は安心して、玄関を開けた。そこにはいつもの笑顔を貼り付けた平田昌二がいた。人間には裏の顔があるとわかってから、平田夫妻の笑顔は不気味に見えてしまうが、今は知っている人を見て安心できた。昌二は手に袋を抱えていた。中身は見えないがカレーの匂いがする。たぶんお裾分けだろう。柳岡家も何度か貰っている。


「平田さんでしたよ」


 リビングにいる春樹に向かって呼びかけたが、応答は無い。


「まだ、落ち込んでんだか?」


「どういうことですか?」


「最近、妻が実家に帰ったんだあ。それで落ち込んでんだあ」


「でも攫われたって」


「和田さんは少しきょげんへき? もうそうへき? いうのがあんだって。儂はあんまりわかんねえけど、時々変なこと言うって和田さんの妻も言ってただあ」


「虚言癖、妄想癖ですか?」


 弘志は納得できた。怪物から逃げているような態度や荒唐無稽な話は全てが可笑しかった。現実を受け入れなくて変な想像をしてしまったのだろう。過度な潔癖症も妄想癖から来ているのかもしれない。


 このときの弘志は交流のある平田夫妻や最愛の妻を信じたがっていた。


 「妻が嘘をつくはずがない」「家族ぐるみで仲が良い平田夫婦が嘘を言うはずがない」という思考になっていた。


 感情を喪った和田美希のことは医者や他の誰かが解決してくれるだろうと思った。警察官の自分ではどうしようもないのだから。


 そして、美希の家出はたぶん、その病んでしまった心を治すための気分転換か、春樹と喧嘩でもして実家に帰ったのだろうと思い、弘志の中で納得できた。


 弘志は安堵の溜め息をついた。


 妻が自分に嘘などつくはずがない。裏の顔を見せるわけがない。柳岡家は幸せな家庭を築いてるのだから。


 弘志の中では、昨夜の千代子が見せた睨むような顔は見間違いだと思うようになっていった。


「それより、ちひろちゃんの迎えは大丈夫だあ? ここは儂に任せて行ってこ」


「あ、そうでした。じゃあ任せても大丈夫ですか? それと今日の夜はお世話になります」


 弘志はその場を昌二に任せて幼稚園に向かった。


 正義感が強すぎた、少し前の弘志なら佐藤忠文の奥さん、和田美希のことを何とかしようと思ったかもしれないが、今の正義の警察官を演じる弘志にはそこまでの気持ちはなくなっていた。


 それよりも大切な娘の千尋を迎えに行く方が重要だった。良い父親として。




 夜7時に家族3人で平田家へと向かった。


 平田夫妻はいつもの笑顔で出迎えてくれる。やはり気味が悪く見えてしまう。千代子と千尋の顔には不快感が感じられないから、こんなことを考えてるのは自分だけなのだろう。


 何度も来ているので、案内されることなく席に着く。いつも柳岡家が着く前にテーブルに食事が用意されている。今日は真ん中に円盤餃子が大きく居座っている。周りにはポテトサラダやきんぴらゴボウなどの野菜がある。


 平田恵子がお盆で全員分のご飯を持ってきて、食事を開始する。


「そういえば、夕方は大丈夫でしたか?」


「何かあったの? お父さん」


 千代子が聞いてきたので、夕方のことを話した。千尋は興味なさそうで、話に耳を傾けることなく笑顔で餃子を食べていた。


「大丈夫だったあ。少し話したら落ち着いたあ。前にもあったからなあ」


「一応なんですけど、墨田家にはなにもないですよね?」


 春樹の言葉が嘘だとわかったが、一応千代子と昌二に聞いてみる。


「何にもないだあ。なあ千代子さん」


「はい。私が投資について教えて貰うのは一階のリビングなので。さっきの話は嘘だとしか」


 千代子は昨日から変わらず一定の距離を保っている。最近は平田夫妻とも家族に話すようになれてきていたが。やっぱり何かがあったのだろう。


「そういえば、墨田さんからは何を教えて貰ってるの?」


 弘志は千代子から投資についてとしか聞いていなかった。詳しくは聞いたことが無かった。


「えっと、……」


 横文字が多くて理解できない話が続いた。弘志が理解できないのだから、平田夫妻はさらに理解できていなそうだった。


 ご飯に集中していた千尋はすでに食べ終わり、やることがないのか静かに話を聞いていた。もちろん、千尋にも理解できなくつまらない話であるのに笑顔で相づちをうっていた。最近の千尋はいつも笑顔で、感情がわかりにくいが、その笑顔は愛らしく疲れた体を癒やしてくれることに変わりはない。


 千代子も全員が退屈そうなことに気づいたのか、他の話題について話し始めた。


 千代子はネックレスをしていなかった。毎日付けているものでもないので不安はない……。

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