11月20日(水) 当直終わり

 10時頃に次の班の人に仕事を引き継いで、当直が終了した。


 弘志はいつものホテルへと向かった。移動中に斉藤からメッセージが届いた。斉藤とのメッセージの履歴には三桁の部屋番号と「今日行ける」という言葉しか残っていない。約2ヶ月の間、斉藤との身体の関係が続いている。


 ホテルに到着して、送られてきた部屋に迷わず進む。ドアを開けるとバスローブ姿の斉藤が待っている。


「弘志さんもはやく入ってきてください」


 「弘志さん」という呼び方には慣れた。


 頷いてシャワー室に入る。周りは透明で外から見えるが、斉藤は携帯をいじっている。初めの頃はじっくりと観察されていたが、前回からは携帯を触って待っている。


 弘志もバスローブ姿になり、ベッドに向かう。


 行為を終えて、仮眠をとる。そして、夕方家に帰る。


 最近はずっとこれの繰り返しだ。




 弘志は家に帰るために一人で電車に乗っていた。電車の窓から見える景色が輝いて見える。紅葉も終わりにさしかかっている。


 最近は全てが充実している。


 人間には裏の顔があると分かり、自分にも裏の顔があると認めてから悩みがなくなった。正義にとらわれていた弘志はいなくなった。


 妻との関係も元に戻った。


 弘志は妻のことを最も愛している。斉藤のことは好きだが、愛してはいない。ただ性欲という自分の欲を満たすためにホテルで会っているだけである。きっと斉藤は自分のことを愛しているだろうが、それに応えるつもりはない。それは弘志にとって裏なのだから。


 家では今まで通り、表の顔を貼り付け、幸せに生活している。妻に隠し事をしている罪悪感は消えた。人間は誰もが隠し事をしていると理解したから。きっと妻にも自分に見せていない顔があるのだ。今年の夏まで本当の姉の話を隠していたように。それでも問題はない。弘志も千代子も幸せに暮らせているのだから。


 最寄りの駅に着く。そのまま千尋の迎えのために幼稚園に向かう。


 千尋は今日も迎えに来た弘志の元に笑顔でやってきた。とても楽しそうなのだが、千尋にまで裏の顔があるのではと思ってしまう。なぜだか平田夫妻の笑顔と重なる部分がある。もちろん幼稚園児が表と裏の顔を使い分けているはずがない。それに千尋には悪いことをしないように教育しつつ、のびのびと暮らさせているのでまだ純粋のままである。これからもこのまま成長して欲しい。


 最近はどうしてもほかの人の裏の顔を気にしてしまう。


「もう少しで凜ちゃんの誕生日!」


 凜の誕生日が12月1日でその日に誕生日会を開くことになっていた。千尋は未だに凜が姉の理沙の真似をしているのを理解しているのか分からない。弘志は千代子との話し合いで、千尋に理沙のことを話さないことにした。まだ幼稚園児の千尋に話すべき内容でないと判断した。


「そうだね。何か渡したりするのかい?」


「うーん。お母さんと考え中なの」


 理沙(凜)の影響なのか、ママ・パパ呼びが変わった。


 妻は今も近所付き合いを積極的に行っている。そのため弘志も平田夫妻と一緒にご飯を食べるときがしばしばあるのだが、平田夫妻はずっと笑顔を貼り付けていて、どんな裏の顔があるのかとても気になっている。そして、なぜだか恐怖も感じる。常に笑顔のため、裏の顔が相当危険なのではと考えているのかもしれない。


 家の前に着いたちょうどその時に、佐藤家から女性が出てきた。髪は真っ白で、灰色のパジャマ姿。


 体に力が入らないのか極度な猫背。足下がおぼつかない。手はぶらんと下がっているだけ。挙げればきりが無いほど正常な人間とはかけ離れている。


「大丈夫ですか?」


 今は表なので正義感溢れる弘志である。千尋を家の中に入れて、女性の元に向かった。


 佐藤さんの奥さんだと思った。会うのは初めてだ。佐藤忠文の話では、体調は良くなっていると言っていたが、今まで挨拶しに来ていなかったことからあまり良くないのだろうとは思っていた。だが、ここまでだとは思っていなかった。


 妻の話ではここまで精神が弱っているとは聞いていない。普通に食事が出来る程度には回復していると言っていた。平田夫妻に関しては明るい夫婦だとまで言っていた。


 今はそんなことより目の前の女性を心配するべきだと考えを改めた。


 女性は聞こえていないのか歩き続ける。


 何度か声をかけたが止まらないため、少し強引だが両肩を掴んで止めた。


 初めて女性は顔を上げた。30代とは思えないほど肌は張りを失い、皺だらけだ。老人のように顔が赤くなっていた。唇もくしゃくしゃで、鼻も潰れている。そして目から光は失われていた。


 弘志は目を見た瞬間、和田美希、津田紀子の顔を思い出した。全員似たような顔をしていた。顔に表情はなく、感情というものを喪ったような人たち。


 こういう人達の目を見ていると自分までも闇の中に呑込まれそうになる。今まで、自分の欲を抑えつけ、悪を排除し、正義に縛られていた弘志にはそれが耐えられなかったのだろう。だから自己防衛反応が働いて記憶が消えていたのだ。


「なんで外に出てるんだ!」


 佐藤家から佐藤忠文が部屋着のまま出てきた。忠文は休日は基本ラフな格好をしているため違和感はなかったが慌てているのは分かった。


「どうも、柳岡さん。妻が迷惑かけてすみません」


 忠文は弘志に気づいた途端、いつも通りの話し方に戻った。一礼して、弘志から女性を受け取り、手を繋いで女性が逃げないようにする。女性は今も会話を聞くことも視線を合わせることもしないで、前に進もうとしている。


「大丈夫ですか?」


「ああ。大丈夫です。玄関のドアに鍵をかけわすれていたようで」


 少しだけ回答がズレていた。忠文は弘志に気づいてから、周りを気にしているようだった。支線を周りに飛ばしていた。


「何かありました?」


 もう一度聞いてみる。


「本当に大丈夫なんで。それとこの話は誰にもしなくて良いんで」


 「お願いしますね」と何度か言って、足早に去って行った。


 弘志も家に帰り、家事をこなし、夕飯を作る。


 千代子に佐藤さんの奥さんについて聞こうと思っていた。もしかしたら今日だけ精神的に不安定だった可能性もある。両親の自殺現場を思い出す何かがあったのかもしれない。


 だが、弘志はあの感情が抜け落ちた姿はずっとあのままだったのではと考えていた。もちろん、妻や平田夫妻が嘘をついていたとは思わないが。


 7時頃千代子が帰ってくる。いつも通りの声が玄関から聞こえた。


「ただいま」


「おかえり」


 弘志はキッチンから玄関に向かいながら声を出した。弘志はキッチンから玄関に繋がる廊下に出た瞬間、足が止まった。


 まだ半年も住んでいない新居の廊下はピカピカとまではしていないものの汚れのない綺麗な木の板が敷き詰められていて、木の板の間も黒くなることなく、清潔に保たれている。木の匂いがほんのりとまだ香る。廊下と玄関の照明も寿命をまったく感じさせない。玄関の棚には引っ越し初日に撮影した写真と、空気清浄の効果が高いサンスベリアと呼ばれる観葉植物が置かれている。


 誰もが心地よい気分で帰ってこられる玄関。しかし、その場に似つかわしくない負のオーラを纏った女性が立っていた。弘志は一瞬妻とまったく声が同じ知らない人かと思った。そのため足が止まったが、すぐに妻だと認識できた。


 それでも足は動こうとしなかった。


「どうしたの、あなた」


 自分の親よりも見てきた女性。髪の長さは大学の時から変わらず胸あたりまであるストレート。肌はとても白く、顔は小さく、それぞれのパーツも小さい。目は丸っこく、とても弱々しくて可愛らしい。今はスーツを着ているため、私服の時よりは威厳があるが、それでも守ってあげたくなるようなめんこさがある。


 見間違えるはずがない。その女性から妻の声が発せられている。どう考えても今、見えている女性は妻の千代子だ。


 弘志が止まっている脇を、二階から降りてきた千尋が通り抜けていく。千尋は千代子に飛びついた。千尋にとっては千代子はいつもの母であることがわかる光景。


 自分だけが千代子が違った存在に見えている。なぜ? という疑問が浮かぶ。


 千代子に『いじめ』の話題を出したときのような一定の距離を取られたときとは違う。千代子に嘘をついて自分が妻との間に壁を作ったときとももちろん違う。今の弘志は千代子に対して悪いことをしたという引け目はない。斉藤との関係も欲を満たすためであり、人間なら誰もが持っている裏の顔である。それは妻も同じはずである。


 千代子は抱きしめるのを止めるが、千尋の肩に手を置いて離そうとはしない。千代子は千尋から視線をきり、弘志に目を向ける。


 弘志は廊下に出した右足を引いた。顔だけを廊下に出した状態になった。弘志の困惑した感情は恐れへと変わった。


 千代子の優しそうなまるっと開いていた目が、半分以上閉じ、目は細く、弘志を睨む目になった。曲線を描いていた眉も一直線になった。目の白い部分の結膜が黒い瞳によって脇に押しやられ、どこまでも深く沈みそうな闇が広がった。今まで見たことがない軽蔑の眼差しだった。


「なに? ママ」


「何でもないよ」


 ゴミを見るような目はすぐに消え、優しい目が千尋を見つめる。


 弘志は目をこすった。千代子の顔の変化が衝撃的すぎて、幻覚を見たのではと自分を疑った。


 千代子の顔はいつもの優しい顔だ。でもやはり、今まで感じたことがない負のオーラを放っている。


「千尋は先にお風呂に入っておいで」


 千尋が廊下からいなくなると千代子の目は再び鋭くなった。


 弘志はずっと動かず顔だけを廊下に出して、千代子から目が離せなくなっていた。


 千代子が靴を脱ぎ玄関に上がる。スーツの黒のスカートの下にスパッツを穿き、黒の靴下を履いている。少しずつ近づいてくる。口の中にたまった唾を飲み込む。大量の水を飲んだときのようなゴクッと大きな音がなったように感じる。千尋がお風呂のドアを開けたり、シャワーを使っている音が廊下まで聞こえてるはずなのに、弘志には全く聞こえなかった。ただ、千代子の足音だけが大きくなっていく。


 千代子の鋭い目つきは変わることなく、弘志の横を通り過ぎ階段を上っていく。足音が聞こえなくなる。


 行き場をなくし不自然に空中で止まっていた腕を膝につけて大きく息を吐いた。まるで幽霊に遭遇して身体が固まっていた気分だった。いや、幽霊よりも恐ろしかった。


 知っていたはずの妻が、未知の生き物に変わったのだから。


 これが妻の裏の顔なのか?


 そんな疑問が湧いた。もしそうだとしても自分に対してその顔を向ける理由がわからない。昨日まで妻との関係は良かった。いきなり変わるのは不可解だ。


 斉藤との関係がバレることはない。ホテルの行くのはいつも千代子が仕事中の時であるから。そして千代子には連絡を取り合っているような親友はいなく、誰かに見られても千代子に報告されることはない。弘志は表の事情に影響が出ないように考えて、裏の顔を使っている。そうでなければ裏の顔ではなくなってしまう。


 弘志は一度落ち着こうとリビングの椅子に座るが、すぐに両手をついて立ち上がる。落ち着くことなどできない。


 もしかしたら近所の誰かに見られたのかもしれない。少なくとも平田夫妻とはかなり仲良くなっている。明日は千尋も含めた3人で平田夫妻の家で食事することになっている。


 墨田光都のところにも投資について教えて貰うために千代子は通っている。露光凜の両親とも仲良くなっているそうだ。佐藤夫婦ともたまあに食事を家でしているそうだ。これは全て千代子から聞いた話だ。弘志は平田夫妻との食事以外には行ったことがない。仕事の関係で時間が合わなかったりしたために。そのため千代子からの話からしか想像できないが、連絡を取り合う仲になっていてもおかしくはない。


 弘志はキッチンからコップを取り、水道水を入れて飲む。熱くなった頭が冷えていく。


 まだバレたと決まったわけではない。前回も自分が原因で妻が変わったと思っていたら違かった。今回もきっとそうだ。


 額には冷たい汗が流れていた。


 弘志は途中だった夕食の仕上げを終わらせる。


 千尋がお風呂から上がり、食卓を家族3人で囲む。千代子の表情はいつも通りに戻っていた。これは近くに千尋がいるからだろうか。


 千尋は一番に食べ終わり、自分の部屋に戻っていく。リビングには2人になる。


 弘志は大好物のハンバーグを口に運ぶが、まったく味がしない。正面に座る千代子の表情が気になってしょうがない。自分が原因ではないと思っても、まっすぐ千代子の顔を見ることができない。


 もし斉藤との関係がバレていたら。裏の顔が知られていたら。……。


 頭の中には嫌な考えばかりが浮かぶ。


 斉藤のことを愛していない。愛しているのは千代子ただ一人だと言い切ることができる。だが、斉藤との行為を気持ちいいと思い、自分の欲が満たされているのも事実。


 これは完全に千代子からしたら『裏切り』以外の何ものでもない。


 だから、決してバレてはいけない。表に影響が出てはいけない。


「さっきからどうかしたの? 具合でも悪いの?」


 うつむいていた弘志は顔を上げる。千代子と目が合う。心配そうな顔をしていた。


 壁は感じるが、玄関で感じた負のオーラは感じない。前回の凜の姉の話で落ち込んでいたときの千代子がいた。


 まだ安心はできないが、斉藤との関係がバレた可能性は低いと感じた。もしバレていたら、『裏切り』で姉を亡くした千代子なら自分を殺しに来てもおかしくない。少なくとも、他人と関わるときのように愛想良く振る舞うことは無い。


「なんでもないよ。それよりお母さんこそ、何かあった?」


「何にもないですよ」


「そう。それなら、いいけど」


 途切れながらも言い切った。弘志はそれ以上深く突っ込もうとは思わなかった。


「ごちそうさま。私もお風呂に入っちゃいますね」


「うん」


 立ち上がった千代子の首には誕生日で上げたネックレスがかけられていた。弘志はさらに安心できた。

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