10月12日(土) 休日
平田夫妻以外に仲間はいないか?
そんな疑問を浮かべながら住宅街を歩き続ける。
他に自分と同じように変わっていない人間がいないか考えるが、思い浮かばない。
今、こんなことを考えているのも、自己否定をしなくて済むようにである。
住宅街の外側に出た。
中学生どころか誰とも出会うことは無かった。
家に戻ろうと引き返した。
どのくらいの期間、変化しなかったら、変わっていないといえるのだろうか?
そんな疑問が湧いた。最近の自分は変わっていないと思う。
そういえば自分はいつから変わっていないのだろうか?
嘘をついたときに変わったのは確かだ。
それ以前はどうだっただろうか?
結婚してから自分は変わっただろうか?
仕事ができるようになった。千尋が生まれた。後輩ができた。引っ越した。
自分の外側の変化しか思い浮かばない。
自分の内側。内面。考え方。価値観。その全てが変わっていない。
結婚したのが26歳。今は35歳。10年間経っている。
弘志は自分がネガティブになっていると気づき、思考を振りほどこうと首を揺らす。
前の方から4人の中学生が歩いてきた。今回の散歩の目的の人物だった。しかし、4人は仲が良さそうに話していた。いじめはなくなっていた。
変化した中学生から視線を外すために、弘志は俯きながら走った。
自分たちが住む区画の近くまで来ていた。前には墨田家が建っている。京子と会ってから3日後に、「光都には同棲者で出来たそうで、それが変わった原因だと思う」という旨のメッセージを送った。京子は安心しているようだった。
この情報は千代子から聞いた。千代子と話していていて光都の話題が出たときに、京子と会ったことを話し、「光都さんの家に家族に見られたくなさそうなものあった?」と質問した。京子は体をビクッと震わせて、千尋の方を見た。千尋の頭に優しく手を置いた。以前にも見た儚い目だった。最近はよく千尋にその目を向けている。今の自分ではその弱々しい目を壊してしまいそうで、弘志は目をそらしてしまう。
何かあるのかと警戒して、もう一度聞いてみたところ、同棲者がいると答えた。もしかすると光都に内緒にするように言われていたのかもしれないと思うことにした。自分が千代子の位置に上がるまではあの目と向き合うことができない。
弘志は京子との約束を破るわけにはいかないので、光都には伝えないようにと添えてメッセージを送った。妻に嘘をつき、他にも悪を実行しておいて、まだ悪を排除しようとしている自分に気づき自己嫌悪した。
墨田家で曲がり、露光家、和田家の前を通って行く。
窓越しに和田春樹と目が合う。お互いがお辞儀をする。
春樹は窓から離れていく。
弘志は気にすることなく自宅に帰ろうとすると、和田家の玄関が開いた。
「どうも、柳岡さんですよね」
おどおどして、視線をあちこちにやりながら話しかけてきた。
和田春樹と話すのは挨拶回り以来だ。千代子も和田夫婦と話したことがあるとは言っていなかった。
弘志は春樹の方へ歩いて行った。
春樹の服装は前回と同様で長袖長ズボンに白の布手袋、黒のネックウォーマー、マスク。顔の上半分しか外に出ていない。夏の頃よりは季節にあった服装だが、まだ違和感はある。
「こんにちは。和田さん」
弘志はあまり人と話したい気分ではなかった。だが、春樹の服装が変化していないのを見て、仲間なのではと少し期待した。
春樹は袖の部分を執拗に触っていた。子供が何か悪いことをしたときの決まりが悪そうなように。袖に手袋が重なっていて、肌は全く見えない。
「えっと。柳岡さんって警察官なんですよね?」
「はい。何かありましたか?」
何か事件なのかと弘志は身構えた。警察官をしているときは、他のことを考えなくて済むので、今の弘志にとっては気持ちが楽だ。
「いや、なんでもないです」
春樹は手を前で振って、慌てて答える。
「ただ、平田さんから教えて貰っただけで……」
「そうですか。でも何かあったらすぐに来るので言ってくださいね」
「はい」
春樹はお辞儀して、家の中に入っていく。その時の横顔はなんだか暗い顔をしていた気がした。
弘志は声をかけようとしたが、先にドアが閉まってしまった。そういえば奥さんの和田美希はどんな人だっただろうか。胸が大きく、服装が変なことしか思い出せない。顔がまったく思い出せない。顔の上半分しか見えていなかったとはいえ、まったく思い出せないことがあるだろうか。
以前にも似たようなことを考えた気がしたが、それすらも思い出せない。歯に挟まった海苔がとれないような歯痒さがある。確かに記憶が存在しているはずなのに、隅に隠されているような感覚。
腕時計に目を向けると3時を指していた。そろそろ時間だと思い、思考を切り替える。和田美希のことはどうでもよいことであるかのように再び頭から簡単に追い出される。
和田家から回れ右すると、佐藤さんが小走りで露光家の方向へ行くところだった。道路に出て周りを見た。佐藤さんは墨田家を通り過ぎたところで曲がるところだった。佐藤家は和田家の裏側だから逆回りの方が家に近いはずなのに。
胸騒ぎしたので、弘志は走って追いかけた。これ以上、頭を悩ませるようなことが起きて欲しくないという思いだった。すぐに佐藤さんは見つかった。
墨田家の裏側の平田家の玄関で昌二と話していた。なんとなく弘志は陰に隠れて二人の会話を盗み聞きしようとした。これに関しては悪いことというより、警察官をやってきた直感がそうするべきだといった。それに、もし何にもなかったら盗み聞きしたことを謝れば良いだけである。
「どうしたんだあ?」
「それが和田さんが、――――――――。お願いします。僕はこのままで、このままが良いですから」
佐藤の言葉は小さくて一部聞き取れなかったが、怯えているようでもあり、懇願しているようでもあった。休日のため、お酒を飲み赤くしているはずの頬から血の気が引いていた。
和田春樹について何か話している程度のことしか分からなかった。さっきの会話が見られていたのかもしれないが、ほとんど何も話していないため弘志には何を言ったのか検討もつかなかった。
「わかっただあ」
昌二はいつも通りのんびりとした口調に仕草だった。
「お願いしますよ。僕はこのままがいいんです」
佐藤は昌二の両肩をがっちり掴み、弘志にまではっきり聞こえるくらいの大きな声で言った。切羽詰まった様子だった。
弘志は緊急事態かもしれないと思い、出て行こうとしたが、その時に、ポケットに入っている携帯が振動した。バイブレーションだけのアラームだ。体を前後に揺らし、出て行くべきか悩んだが、今日の約束は絶対に破れないと思い、身を引いた。
二人はまだ話していたが、弘志はその場を離れ、駅に向かった。
16時頃駅前で斉藤と待ち合わせをしていた。日が傾き、空は夕焼け色に染まっている。
この前まで8月で夏だったはずなのに、日の入りがいきなり早くなったように弘志は感じた。
駅前には多くの人がいた。田舎では駅前くらいしか遊ぶところもないので当然か。
人混みの中から斉藤がこちらに来た。たくさんの人の中からなぜ人見知りはすぐに見つけられるだろうか。
ライトブルーのブラウスに白のパンツ。袖のところにラッフルがついてることで、シンプルでありながら可愛らしさも伴っていた。首元には2つボタンがついていて、一番上が開いていた。
弘志は薄い長袖の白のシャツの黒のチノパン。
弘志は斉藤の唇で目が留まったが、すぐに視線を下にずらした。
斉藤は周りを見ながら弘志に声をかけた。
「お待たせしました。鼓芽さんは?」
「鼓芽は用事があるって。ということで、行こうか」
弘志は斉藤の首元から視線をきり、予約しているお店へと進んだ。
普通の居酒屋だったが、土曜日ということもあり混んでいた。予約していたので、すぐに席に案内された。
テーブルにはお酒とおつまみが運ばれてきた。初めの方は仕事のことや、最近あったことなど適当に話した。弘志はほとんど話の内容が入ってきていなかった。
今日は斉藤に聞きたいことがあった。鼓芽が来られないといった時から決めていた。というよりも鼓芽は来られないと答えると思っていた。自分がいうのもあれだが、最近の鼓芽は変だ。元気がないようだし、真面目になるし、自分のことを心配してこない。もちろん心配されても相談できないため、弘志にとっては都合が良い状況なのだが。
弘志は無意識のうちに親友の心配を後回しにするほど、心にダメージを負っていた。
あの夜の行為は酔っていたとはいえ、斉藤が自分に好意があるからではと弘志は考えていた。旅行の前まではそんなこと考えていなかったが、斉藤は弘志に対して積極的に話したり、お弁当を分けたりしていた。それに旅行中に何度か自分をどう思っているかも聞いてきていた。
しかし、最近はこの考えが間違ってるのではと思い始めていた。旅行が終わってから、斉藤は今までのように積極的に関わってこなくなった。話しかけてきたりはするが積極性は失われていた。それに自分には妻がいるのだから、斉藤が自分を好きになるのもおかしい。
それでも、斉藤が自分をどう思っているか聞かなければいけないと思った。そうすれば止まった時が動き出す気がした。
目の前の斉藤は笑顔で話している。その笑顔がなぜか平田夫妻の笑顔と重なり、斉藤の顔に仮面が張り付いてるかのような不安に襲われる。別に平田夫妻の笑顔を恐れてるわけではないはずだ。確かに事件後の笑顔は不気味だったが、今は子供達が来たときにずっと笑顔の田舎のおじいちゃん、おばあちゃんのような存在でしかない。
なぜか平田夫妻も斉藤も顔に、別の薄い皮膚を貼り付けているのではないかと思ってしまった。人間ではない、別の何かを。
斉藤に「自分のことをどう思っているか?」という質問を投げかけたとしても、斉藤との関係が崩れるはずがないのに、唇が重く、口から質問が出てこない。斉藤の笑顔に恐怖したからだけではない。口内から唇を引っ張られてる、舌も回らないように口の下に固定されている。自分の中の何かが必死に弘志を止めている、この先には進んではいけないと。
弘志は立ち上がり、お手洗いにいくと伝え、トイレへ向かった。
鏡に映る自分の顔は口の端が上がり、赤くなった頬も張っていて、目もにっこりしている。パーツごとにみれば笑っているのに、全体を見るとそれぞれが独立しているようで不気味な笑みをしていた。
弘志はほっぺを両手で挟みほぐし、目もパチパチと数回瞬かせ、いつもどおりの笑顔になるまで顔を作り替える。やってることは目隠し無しの福笑いだ。
少し引きつっているが、だいぶマシになった笑顔を貼り付け席に戻る。斉藤は変わらず笑顔のままだ。やっぱり平田夫妻の笑顔と重なる。笑顔の下になにか隠しているようだ。いや、それは自分の方かと心の中で自嘲した。
ジョッキを傾け、お酒をいつものように少し口に入れる。
「斉藤、聞きたいことがあるんだけど。いいか?」
「もうそろそろ飲み放題の時間も終わるので、つぎのお店でにしませんか?」
「ああ。そうだな」
想像以上に時間が経っていたようだ。
弘志は安心した。
しかし、なぜ自分は安心しているのだと疑問に思った。
やっと質問する勇気を振り絞ったのに。今日の目的を達成できそうだったのに。止まった時が動き出すはずだったのに。
半分以上残っていたお酒を少しずつ飲んでいく。
何で顔が引きつっていた? 不純な気持ちはなかった。いや、質問の内容的にそれは今関係ない。
頭がくらくらしてくる。まだ自分のお酒の限界値まではまったく達していないはずなのに。
弘志は前回の失敗から、今日はかなりお酒を飲む量もペースもセーブしていた。だから、酔っ払うことなんてないはずだった。
弘志の視界はだんだんと暗くなった。必死に抵抗しようとテーブルに手をつけて、体勢を立て直すが、手の力は抜け、視界は真っ暗になった。最後に目に映ったのは斉藤の貼り付けたような不気味な笑顔だった気がする。
「弘志先輩。大丈夫ですか?」
弘志は目をこすりながら開けると、水が入ったペットボトルを持った斉藤がかがんでいた。
弘志は自分の状況を確認するために見回した。
弘志はベッドの上に座っていた。ベッドはダブルベッドくらいの大きさ。
オレンジ色の薄い明かり。透明な壁で囲まれたシャワー室。ベッドの正面には大きな鏡。そして、ベッドに附属している棚には『0.03』と書かれた白色の小さなプラスチックの袋が二つ。
ラブホテル以外のなにものでもなかった。
斉藤は弘志がここがどこか気づいたのを確認して頭を下げる。
「すみません。いきなり先輩が寝始めて、近くで休める場所がここしかなくて。あと、これどうぞ」
弘志は差し出された水を受け取り、飲んだ。
「それじゃあ、一度ここを出ようか」
弘志は平静を装った。弘志の頭の中には斉藤とのキスのことが思い出されていた。この場所に居るのはマズイと思った。
立ち上がろうとするが、足に力が入らなくベッドにお尻をつける。
「もう少し、休んでからにしましょう」
「ああ」
ここで否定するのも変だし、また斉藤に迷惑をかけるわけにもいかないと思い、弘志は了承した。斉藤は隣に座ってくる。そこまで近い距離では無い。車の運転席と助手席くらいの感覚だ。
しかし、部屋の影響なのか、あの夜のことを思い出しているせいなのか、弘志の鼓動は速くなった。
唇に視線が自然と引き寄せられる。すぐに視線を斉藤の目に持って行くが、また下にずれていく。
無言の時間が続く。
気まずくなったのか、斉藤が話し出す。
「そういえば、私に聞きたいことがあるっていってましたけど何ですか?」
唇にいきかけた視線を再び目に戻す。斉藤の後ろには鏡があり、自分の顔が見えた。酔っ払ったときのように頬が真っ赤になってるわけではなく、頬はほんのりと赤く、真顔だ。何年もずっと見てきた顔だった。まったく変わっていないような気がした。
「斉藤は僕のことどう思ってる?」
まだ頭のなかがぼーとしていたのか、聞きたいことがスッと出てきた。
「弘志先輩のことですか?」
弘志は頷くこともなく、斉藤を見つめる。受験の合格発表の時のように真剣に見つめる。まるで、ここが人生の分岐点であるかのように。
斉藤はベッドに手をつけて、弘志と肩が当たるくらいの距離まで詰める。
さらに心臓の鼓動は速くなる。そして大きくなる。身体全体が内部から熱くなっていく。
弘志の視線は唇に釘付けになっていた。
「好きですよ」
斉藤は弘志の肩に手を乗せ、ベッドに押し倒すように体重をかける。弘志はその力に従って倒れていく。あの夜と同じで、斉藤が弘志の上に跨がる構図になる。
斉藤も弘志が倒れた軌跡に沿うように倒れていく。
二人の唇が重なる。
すぐに離れる。
「先輩はどうですか?」
「ダメだ。僕には妻がいる。こんなことはダメだ」
弘志の言葉は弱々しい。視線は斉藤の唇から動いていない。拘束されていない手足もまったく動かそうとはしない。身体はどんどん熱くなっていく。
「妻がいたらダメなんですか? 先輩は私とエッチなことしたくないですか? たまには悪いことやっても良いじゃないですか?」
弘志は唇から目を離し、斉藤の顔全体を見る。今まで見ていた斉藤が嘘だったかのような顔があった。口の端はこれほどまでにかというほど上がり、キリッとした目は左右の目の端が下がりトロンとし、頬は蒸気を発するのではというほど赤く熱くなっていた。
「弘志さん、嫌なら避けてもいいですよ」
弘志には悪魔からの甘美な囁きだった。斉藤の熱が伝わってきたのか、身体の表面まで熱くなっていた。
千代子にあの夜のことを話せなかった原因がやっとわかった。僕には不純な気持ちがあった。あの夜は自分の欲が満たされた。
今まで必死に押さえ込んできたものが心の奥底から湧き上がってくる。それと一緒に過去の記憶も昇ってきた。
弘志は頭を抑え、叫んだ。近づいてきていた斉藤のことも腕で振りほどきベッドから落とした。全てから逃げるようにシーツに包まった。
朝になっていた。斉藤はいなかった。小学生のときの記憶は封印できずに頭の中に残っていたが、受け入れることができた。人間には表と裏の顔がある。昨夜の斉藤のように。自分もただの人間で、裏の顔を持っていただけだと、身体全体に浸透するように納得できた。
鏡に映る顔は腫れ物が落ちたかのようにすっきりとしていた。
弘志はすぐに家に帰り、スーツに着替えて出勤した。
斉藤は昨日のことがなかったかのようにいつも通りだった。しかし、弘志を見る目は今までと違って見えた。そして笑った顔も不自然に見えた。本当は、昨日見せた笑顔こそが不自然で不気味で歪なはずなのに。
当直が終わった翌日、二人で同じホテルへと足を運んだ。
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