10月12日(土) 「9月のある日」
弘志は家に一人だった。千尋は露光家に遊びに行っている。千代子も外に出ている。
あの宣言から、千代子は近所の人と関わるようになった。昨日は千尋を露光家に預けて、弘志と千代子の二人で平田家に行き、一緒にお酒を飲んだ。今日は、墨田家に行って、投資について学びに行っている。千代子の話では、ゴミ捨ての時にあって、そこから話して投資について教えて貰うようになったそうだ。先週から通っている。
昨日の平田さんと話す千代子には壁がまだ存在したが、今までよりも確実に壁が薄くなっていたと思う。
弘志の目から見ても、千代子は良い方向に変化していると感じていた。
その一方で弘志の時間は嘘をついてから止まったままだ。千代子との関係も元に戻っていない。千代子はどう思っているかわからないが、千代子とは何十枚もの壁を挟んでいる、いや、存在する高さが異なる感覚である。ソファの上と床。ビルの上と地面。山の上と低地。
これは弘志自身に原因があるとわかっている。千代子が上にあがったのではなく、自分が下にさがっている。妻に隠し事をしてから、どうしても前の関係に戻れない。戻ってはいけないと思っている。
今では千代子の精神状態は安定している。そのため、旅行であった事故のことを話しても問題なくなっているのに、話す気にはなれていない。話せば元に戻れるはずなのに。理由は自分でもわからない。
あの夜の斉藤とのことには一切の不純な気持ちが無く、完全な事故だったはずなのに話せない。
弘志は暇を持て余していたので、散歩のために外に出た。7、8月と比べると暑くはないが、まだ夏だと思うほどには暑い。地球温暖化の影響がこんな田舎まで広がってきてるのだなあ。
住宅街の中をぐるりと回ろうとする。引っ越す前日にこのあたりでいじめをする中学生を見たのを思い出して、妻の目に入れないためにもパトロールでもしようと思った。別に本気で探そうとするのではなく、散歩の目的があった方がよいと考えただけだ。
周りをぼんやりと見回しながら歩く。遠くの山には赤や黄色がちょくちょく現れてきた。あと1ヶ月もすれば紅葉の見頃になるだろう。
季節も移り変わっていく。妻も変わっていく。千尋は身長が伸び、見た目すら変わっていく。
自分だけ夏に取り残された気分だ。
ふと昨日の平田家での宴会を思い出す。平田夫婦はどちらも、引っ越してきたときから笑顔だった。いや、1年くらい前の事件から笑顔のままだ。
笑顔ではない顔は見たことが無い。まるで笑顔の仮面をかぶっているようだ。
自分以外にも変わらない存在を見つけて弘志は安心する。
そういえば鼓芽も変わっていない。いや、最近変わり始めているか……。
弘志は溜め息を吐く。まだ息が白くなるのは先だ。
最近の鼓芽は寝癖をつけてくることがなく、ボタンも一番上まで閉めている。今日の夕方の飲みの誘いも断られた。今まで体調が悪いとき以外は断ったことが無いのに。
彼女でもできたのかもしれない。鼓芽は話すのもめんどくさがるため、聞かなければ答えてくれない。だが、最近の弘志は周りに構ってられる状態ではなかった。仕事中は斉藤とのことを思い出さないように黙々と仕事に取り組んでいる。
軽トラックが脇から出てきたので、弘志は止まる。
『売家』の看板が立てられた家。
以前、庭で子供が遊んでいた家には車が無く、どこかに出かけたのがわかった。
道にまではみ出すほどたくさんの車が止められている家。
あらゆる家がこの住宅街には存在している。
運転手のおじさんは頭を下げて、進んでいく。
本当は歩行者優先なんだけどなあと考えながら、弘志もまた歩き出す。
****
9月の初め、弘志はずっと自己嫌悪を続けた。罪を受け止める覚悟を持とうとし、償う方法を正面から考えた。しかし、受け入れることも、償うこともできなかった。そして、このままでは自我が崩壊してしまうという理由で、罪から逃げようとするようになった。時間が解決してくれるかもと一縷の望みを抱いたというのも事実である。
9月のある火曜日。当直終わりで昼頃に帰宅した。家には誰も居ない。千代子は教師として中学校へ、千尋は幼稚園へ行っている。
当直前の日はほとんど寝ることが出来なかった。というよりも、最近は寝られない日々が続いた。
思考したままでは寝ることが出来ない。つまり寝ようとしたとき思考をやめなければいけない。思考をやめた途端、弘志の頭の中には斉藤とキスしたあの夜のことが思い浮かんだ。そして千代子に隠し事をしたこと。可哀想な子供を犯罪者と決めつけたこと。何度も嘘をついたこと。今まで悪を徹底的に排除してきた弘志にとっては、全てが殺人と同じく大罪であった。
そんな大罪を犯した自分が醜い、気持ち悪い、人間として屑、人間ではない、という思考に沈んでいく。自分が嫌いで、どうしようもなく、ただ嫌悪するしかない状態。
罪を償うこともできない自分をさらに責める。
だから他のことを考えていなければならない。
そのため寝ることができない。
睡眠不足での当直は相当大変だ。弘志は仕事中も千代子や斉藤のことを考えないようにするために仕事に没頭する。尚更、疲労は蓄積された。
家に着いて、ベッドに足を運ぶと倒れるように寝た。ほとんど気絶と同じだ。
それでも1時間もしないうちに目覚める。
眠たい、寝たい。
起きたばかりで、脳はまだ回転し始めてない。ただ、疲れから寝ようとする。
口の中に温かい感触を感じた。
弘志はベッドから飛び降りた。唇が取れるのではというくらい強くこする。口の中の感触は取れない。
押し入れに入っているリュックから1本のペットボトルを取り出して、洗面台に走る。
このペットボトルは鼓芽に上げるつもりで持って帰ってきた龍神水である。旅行から帰ってきた後、いろいろあり鼓芽に渡し損ねたものだ。すでに半分以上が無くなっている。
ペットボトルの水を口いっぱいに含み、うがいをする。口の中を清める。本来は飲むことで体の不浄を清めるものだが、弘志はいつも飲むことはなく、うがいをする。まるで自分の体には不浄なものがないと訴えるように。
口の中が冷たくなると共に、脳も動き出す。掃除をしよう。自己防衛反応のように体は罪から身を守ろうとする。
掃除を終えると、他の家事もこなしていく。妻が担当の家事もする。全て、思考があの夜に向かないために行っていることだ。
千尋の迎えの時間になり外に出る。墨田家の前に一人の女性がいた。女性は玄関のインターホンを何度も押し、ドアをドンドンと叩いている。そして何か叫んでいた。
弘志は警察官モードに移行する。警察官をやっているときが最も他のことを考えなくて済む。
近づいてみると「開けて!」などと言っていることが分かった。ドアを叩く強さや口調からかなりイラついてることが分かる。
「どうしましたか?」
「は、はい!」
女性は飛び跳ねるように振り返った。さっきまでの威勢は身を潜め、背を丸め、お腹の前あたりで手をもじもじさせている。
女性は灰色のジャージのズボンに、肌色のカーディガンを羽織っている。そしてマスクに眼鏡。眼鏡の奥は歪んでいないのでだて眼鏡かもしれない。部屋着にとりあえず上着を着たといった感じの服装だ。
「えっと、どなたでしょうか?」
声も小さくなる。下から弘志の表情をちらちらと窺いながら問いかける。
弘志は自分の家の方向を見ながら答える。
「近所に住んでいる柳岡です。一応警察官です。あなたはどちら様でしょうか? なにかトラブルなら助けになりますが」
「あ、え、私は墨田京子です。光都の姉です」
「ああ、そうでしたか。それならなんでこんなにも家の外で?」
事件性は薄そうだという安心と、これではすぐに警察官モードが終わるという落胆という不謹慎な気持ち。
京子は気まずそうに玄関の方を見る。少し悩んでから、決意したかのように弘志の目を見る。
「弟が出てこないんです。最近様子もおかしいし」
弘志は2ヶ月前にお墓で異常なほど真剣にお経を唱えていた光都のことを思い出す。あれから直接は見ていないが、平田昌二の話によると、悪夢を見ただけだと言っていた。特に興味もなかったので、深くは考えていなかったが、悪夢を見ただけであんな行動をとるものだろうかという疑問が生まれた。
「……それに前、子供が入っていくのも見たんです」
「子供!?」
まさか千尋が。
警察官ではなく、父親に戻る。身を乗り出すようになるが、つかみかかる気持ちは必死に抑える。できるだけ平静を保とうとするが、脅迫するような口調になってしまう。
「どんな子供ですか?」
京子は一歩後ずさりしようとして踵をドアに当てた。拷問が開始される寸前に下っ端スパイが情報を吐くように早口で答えた。
「黒いドレスをきた子、です」
弘志は身を引く。警察官に戻る。
「そうですか。他には何かありますか? いつから様子が変であるかなど」
「様子が変になったのは1年ほどまえくらいからだと思います。そこからは一度も家に入ってませんが、実家には何度か帰ってきているし、電話もしていたので問題はないはずです。3ヶ月近く前から電話での様子が変だったと思います。それで二週間前に様子を見に来たときに子供が入っていくのを見たんです。すぐにインターホンを鳴らしたんですが、まったく応答してくれなくて。電話してもでなくて。……もしかしたら犯罪のようなことを……」
最後は息を吐くような小さな声で話した。
「二週間前のいつか覚えてますか?」
弟が犯罪をしたことが確定したかのように、暗い顔で俯いていた京子は、何を聞いているんだという困惑の面持ちで顔を上げた。
「えっと、土曜日の12時頃です」
「それなら犯罪のようなことではないと思いますよ。その日は私の妻も墨田家に訪れて、投資について教えてもらっていたので。たぶん私の娘とその女の子が妻と光都のとなりで遊んでいたんでしょう」
膝に手を当て、安堵の溜め息を漏らす。
「少なくとも、家の中では犯罪のようなことはしていないと思いますよ。私の妻や近所の方も時々、墨田家に最近も訪れているので」
「じゃあ、なんで入れてくれないのかな?」
ひとりごとのようにつぶやいた。
「まあ、家族には見られたくないものもありますからねえ」
「そうですか? 例えば何ですかねえ?」
場の緊張感はすでになくなっていた。
「彼女ができたとか、家族には見せづらい趣味ができたとかですかね。僕も注意を払っときますし、妻にも光都さんがどんな感じか聞いてみますよ。何か分かったら連絡します」
「ありがとうございます」
京子と連絡先を交換した。
別れ際に形式として質問した。
「他に変わったこととかはありませんか?」
視線を上に向け考える素振りを見せる。
「ああ、でも、今考えると1年前から家に帰ってきたときも空元気だったような気もしますね。私もなんですが、弟も暗いほうで笑顔を見せることが少ないのに、無理に笑っていることが増えていた気がします」
「そうですか。それじゃあ、何かあったら連絡しますんで」
京子は一礼して去って行った。弘志も一度だけ墨田家のインターホンを押し、出ないことを確認して千尋の迎えに行く。
出かけているのだろう。弘志は光都の危険性は低いとして、光都の情報を頭の隅へと移動した。
千尋を迎えに行き、夕食を作った。
全てを終え、千代子とベッドに入った。千代子はすぐに眠りについた。弘志は目を開けたままで、暗闇に目が慣れていった。3ヶ月が経ち、見慣れた天井。特に最近はこの天井を見ていることが多い。
眠気が来て、頭の中が白くなり始める。意識を失う寸前でまぶたの裏に斉藤の顔が浮かぶ。唇になにかが当たる気配を感じる。AEDで蘇生されたように一気に息を吸い込み、目をかっぴらく。横をみると千代子が寝ている。
頭の中に「隠し事をした」という言葉が浮かぶ。
爪で唇をつねるが、痛みはだんだんと消えていく。罰にならない罰を自分に与える。
明日に向けて力を蓄える千代子。過去の罪と向き合わず、止まっている自分。
美しい。醜い。好き。嫌い。死んで欲しくない。死にたい。正義。悪。……
相反する気持ちが弘志の体中を埋め尽くし、暴れ回る。そして明るい光は暗い闇に呑込まれていく。黒い霧だったものは個体になっていく。心臓、肺、口全てを塞ぎ、息苦しくなる。心臓が痛い。吐き気がする。
脳の隙間も埋め尽くされ、自分は醜い存在だと訴えてくる。浸食していく。
自分の体を殴れるだけ殴る。つねる。蹴る。外からも痛みを加える。罪悪感を減らすために。
そして他の思考を始める。罪から逃げるために。
何度もこれを繰り返し、朝方にやっと眠りについた。
次の日。弘志は仕事が休みで、家で一人だった。
昼前にハッと目を開けた。カーテン越しに日光が差し込んできていて、部屋の中はぼんやりとした明かりに包まれていた。
弘志の額には汗が溜まり、背中にはジトッとした気持ち悪い感覚が広がっていた。そして、心臓に手を当てて、過呼吸気味な呼吸を整えていた。
最近はこういうことがよくある。悪夢を見て、目覚める。しかし、内容は忘れている。
だが、この日はいつもと違った。
弘志は悪夢を見ていた。弘志はその途中で目覚めた。ここまでは同じだが、この日はその内容が目覚めても頭の中から離れない。映像の続きが流れ始める。
目をつむって見ない振りをしようとしても、まぶたの裏にその映像が流れ込んでくる。耳を塞いでも脳に直接音が響いてくる。この映像には一時停止も電源ボタンもない。
弘志はベッドの上で暴れる。布団にくるまり、左右に転がり、枕に頭を押し込み、自分の心臓を叩いた。それでも映像は流れ続ける。それは弘志が封印した過去の記憶だった。
弘志は小学生の頃から警察官を目指したと思っているが、それは弘志が過去の記憶を封印するための嘘だった。
本当は、警察官が嫌いで嫌いでしょうがなかった。弘志の父は正義感が強い警察官だった。弘志にも同じような正義感を持ってほしいと考えていた。
小さな子供は親の仕事に憧れる、もしくはひどく嫌うのどちらかだと思う。弘志は後者だった。
弘志にとって父は自分を拘束する鎖でしかなかった。門限。ゲームの時間。宿題の強制。礼儀作法。起床・就寝時間。……。
「困ってる人を助けなさい」「人に迷惑をかけるな」「ルールを守りなさい」などと父に言われるたびに反抗した。そして、怒られ、さらに口うるさく正義について教え込まれる。
母は父の言うとおりにする人だった。弘志にとっては父の味方をする母も嫌いだった。家は牢獄だった。
そのため弘志にとっては学校が唯一自由にできるところだった。
小学校6年生の時、3人の仲間と一人の女子を虐めた。名前は美琴。
虐めた理由は美琴がブスだったからだ。
仲間たちと「ブス」「豚」「デブ女」などと揶揄った。
それからは他のクラスメイトも協力し始めて、体操服や上履きを隠したり、トイレに入っているところに水を投げ入れたりとエスカレートしていった。その頃には誰が主犯とかはなくなっていた。全員が楽しんでいた。
人間は自分より弱い人間がいることに安心を覚え、自分が上だと示すことで満足感を覚える。弘志も家で抑圧された欲望を十分に発散していた。
そして美琴は3階の教室のベランダから飛び降りて死んだ。ほとんどのクラスメイトはそれを見ていた。弘志も見ていて、感情が高ぶっていた。
コロッセオでの決闘、命をかけた死亡遊戯。昔から、人間は他人の死を楽しんできた。それは自分には関係がない人だから。法でも取り締まられてない、または自分が罪を犯したことにならないから。つまり、死という最大の不幸をタダで見られるということ。
想像力が足りない小学生は、死ぬことを理解していなかった。周りの人も同じことをしていた。悪いことだという認識をしずらい環境が作られていた。だから、死という最大の不幸を純粋に楽しめた。
救急車や警察が学校に集まった。その後はいろいろあったが、教師だけが責任を取らされる形で終了した。
弘志は死んだ美琴を見たとき恐怖した。救急車に運び込まれる美琴の顔は潰れていて、顔のパーツが歪んでいた。目は白目を剥いていて何も映していなかった。右腕はまがってはいけない方向に曲がり、肌は青白くなっていた。
弘志はとっさに自分の顔に触れ、次に右腕を確認した。自分の右腕を美琴の右腕がまがっていた方向に少し押してみると痛くて、全然曲げることができなかった。
この時、初めて自分がひどいことをしたのだと気づいた。
いや、思い出したと言ったほうが正確だろう。殴られたら痛いことなど初めから知っていたのだから。
いつも以上に家に帰るのが嫌だった。父に怒られるのが怖かった。
父は家に居なかった。この日は家に居るはずだったのに。母から父が仕事中に亡くなったと聞いた。
そして、それから死んだ美琴が学校に来ることも、死んだ父が家に帰ってくることももちろんなく、自分が取り返しのつかないことをしたのだと徐々に理解していった。
死というものを本当の意味で知った。
自分が人を殺したという事実が恐ろしくてしょうがなくなった。それから自分の心が壊れるのを防ぐために、記憶を封印して、自分は正義の味方の警察官に憧れる、正義感あふれる少年だと思い込むようになった。嘘。隠し事。ルールを破ること。……。全ての悪を自分の中から排除して、常に正義の味方でいることにした。
今までこの記憶を思い出すことはなかった。もしかしたら、あったかもしれないがそれも封印してきた。何度も繰り返してきた。自分の欲を封印し続けてきた。
気づけば、自分は寝ていた。目を開けると、最近見慣れた天井があった。
再びその記憶は自分の奥深くに封印された。
弘志は何もなかったように起き上がり、千尋の向かいに行った。
***
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