9月2日(月) 当直終わり

 当直を無事に終えた。鼓芽からは朝も心配された。


 家に帰り、仮眠を取った。久しぶりにぐっすりと寝られた。最近の弘志はずっと目の下にクマをつけていた。


 夕方に千尋を向かいに行った。足が軽かった。


「パパ。今日はねえ、お絵かきしたんだ。それで……」


 久しぶりに千尋に話しかけてもらえた気分だった。一昨日も話したが、あの時は理沙もいたし、夜は考え事をしてぼうっとしていた。


 今も千尋は笑顔だ。最近は、この笑顔が弘志の精神安定剤になっていたことは間違いないが、その純真無垢な笑顔が眩しすぎて直視できなかった。今日はしっかりと目を合わせることが出来た。妻と同じく目はつぶらでととても可愛らしい。自分がこれからも妻と娘を守っていかなければいけないと感じた。


 露光家が悪魔の住処に見えた。弘志の中では凜とカラスが結びついていた。不吉の象徴として。弘志の中では千代子を変えた犯人は、露光家だと決めつけていた。


 7時過ぎに千代子が帰ってきた。3人で夕食をとり、千尋は自分の部屋に行った。


 リビングには弘志と千代子だけになった。


 目の前に座る千代子とは、やっぱり距離がある。何重にも壁がある。


 それでも昨日よりもその壁の1枚1枚が薄く見えた。


 千代子を前にして、気後れしたが、弘志はためらいがちに声を出した。


「千代子さん。えっと。僕が旅行に行ってたとき露光家で何かあった?」


 千尋が生まれてくる前の呼び方で呼んだ。千代子も結婚するまでは弘志のことを『弘志さん』と呼んでいた。


 弘志の態度が変わったのに気づいたのか、千代子は椅子に座り直して、姿勢を正す。千代子からは重い溜め息のように、言葉が発せられる。


「やっぱり、分かりますよね」


 今までの外行きの微笑みが消え、顔から精気が抜け落ちたような暗い表情を浮かべる。姉の話をしたときに似た表情だ。


 弘志は心の中で長い溜め息をついた。完全に犯人から観衆に変わることができた。


 弘志は気が楽になったが、千代子の暗い雰囲気で、大事なことが話されると思い、曲がりかけた背筋を再び伸ばす。


「弘志さんに隠していたことがあるんです」


 弘志は安全だと思った瞬間に背中から刺されたかのような衝撃を受けた。まだ自分は犯罪者側になりうるかもしれない。もしかしたら自分の隠し事に前から気づいていたと言われるかもしれない。


 弘志の顔は引きつり、体を震えさせた。探偵が犯人を指名するときに視線が合ったような動揺だった。千代子はうつむいていて気づいていないようだ。


「なんだい?」


 恐る恐る聞く。自分の鼓動が速くなっているのがわかる。心の中は「証拠を見せてみろ」と言う犯人と似たようなものだった。


「実は、前に話した姉の話には嘘があるんです」


 再び心の中で深い溜め息を弘志は漏らした。力が入り上がった肩がガクンと勢いよく下がる。


 千代子は机の下に置いていた手を机の上で組む。


「この話は両親にも話していません。誰にも話していません。私は姉がジャングルジムから落ちた瞬間を見ました。その後に姉の友人の菫さんと目が合った。それ以外は覚えていないと話したと思います」


 まるで教会で神に懺悔しているようだ。


 弘志が頷いたのを確認して、千代子は話を再開する。前に話した時のような悲しそうで、悲しくなさそうな微妙な表情ではなく、顔に後悔、憎悪を貼り付けていた。初めて見る表情だ。


 ここからの話は一言一句逃してはいけない。自分の知らない千代子の話だと表情の変化から直感した。


 いつも食卓を囲んでいる、楽しい空間はカケラも残さず消えた。重力が何倍にもなった感覚。停電したのかと錯覚するような暗い雰囲気。


「地面に当たった瞬間は見ていませんが、本当は頭から血を流していて死んだのを確認したんです。正確には死んでいたかはわかりませんが、子供の私でも助からないとわかる状態でした。私はすぐに救急車を呼ぼうとしたり、親を呼びに行ったりしようとしませんでした。もう助からないからしなかったわけではありません。姉を助けるよりも、姉を裏切り、殺した菫さんを殺したいと思ってしまったんです。私の隣を通り過ぎようとした菫に、私は体全体をぶつけるようにタックルをしました。そして菫さんの腰あたりに跨がり、顔を思いっきり殴りました。何度も。そのあとは他のいじめっ子たちに邪魔をされて逃げられてしまいました。私は普通の女子小学生だったので力も無く、骨もたぶん折れませんでした。でも……」


 一呼吸する。軽い酸素を吸い込み、重い二酸化炭素を吐き出す。場はさらにどんよりと重くなり、吸い込もうとする空気は喉のあたりで詰まりそうになる。


「……本気で殺そうとしました。近くに刃物があったら迷わずに使ったでしょう。しばらくして冷静になったとき、私は自分が怖くなりました。私は平気で人を殺そうとする人間なんだと。それから私は人と距離を取るようになりました。特に『裏切り』や『いじめ』などの姉の死を連想させるものからは距離をとろうとしました。そうしないと、いつか自分は人を殺してしまうのではないかと思って。それから徐々に自分を客観的にみるようにしたんです。そうすれば感情に振り回されることがないので。そして気づけば自分の本心をさらけ出すことが家族とかのとても親しい人にしかできなくなりました。今のように弘志さんにも本心を出せなくなることもあります。でも悪いことばかりではなく、そのおかげで『いじめ』を減らすために教師として働けているんです」


 最後に少しだけ声を弾ませようとしていたが、投げたボーリングの玉が地を滑るように暗くなる。


 弘志は何も言うことができなかった。千代子が『裏切り』、『いじめ』を嫌うのは姉の死を思い出してしまうからだと思っていた。人と距離をとってるのも、そこまで深い理由ではないと思っていた。


 千代子はずっと組んだ手を見ている。今何を思っているのかはわからない。でも、とても悲しい目をしていた。暗い声のまま続ける。


「それで、あなたが旅行に行っているときに露光さんの家に挨拶に行ってきたんです。ちょうどあちらの両親も居ました。そこで理沙ちゃんと凜ちゃんのことを聞きました。理沙ちゃんは、何か特殊な力があり、IQもとても高く、周りの子供と馴染めず虐められたそうです。精神的に弱くなった理沙ちゃんは海外のギフテッドがあつまるところに行くことになり、その飛行機で亡くなったそうです」


 声がどんどん小さくなる。


「それが2年前で、小学3年生だったそうです。凜ちゃんは当初3歳で姉を失ったそうです。それからは姉の真似をするようになったそうで、その理由はわかってなく、病気なのか、ただ真似をしているだけなのかわからないそうです。それで親さんは仕事を辞めて病院を回ったり、研究室を回ったりしているそうです。私とは違いますが、いじめが絡んでいて、姉を幼くして亡くした。その点では私と同じで、私も過去のことを思い出して、最近は変になっていたんです。一応表面上は普通にしていたつもりなんですけど、あなたにはやっぱりバレてしまいますよね」


 最後は微笑んだが、外行きの顔も作れていなかった。


「それじゃあ、お風呂が冷めないうちに入ってきますね」


 千代子はリビングから出て行った。リビングには弘志だけが残された。


 弘志は椅子から立ち上がれなかった。後ろから引かれる感覚が戻ってきていた。いや、そもそも、消えたと勘違いしていただけで、ずっと何者かがしがみついていた。幽霊のように姿を消していただけであり、そこにずっといたのだ。その何者かというのも弘志は理解し始めていた。


 初めから分かっていたが、考えないようにしていた。


 それは自分の罪だ。隠し事をした。嘘をついた。職権乱用をした。……。


 弘志は自分が醜くてしょうがなかった。


 千代子が悲しんでる間、自分は千代子が悲しんでいる原因は自分ではない何かにあると信じ、必死に探した。悲しんでいる千代子のことを気にすることなく、自分の罪から逃げるためだけに。


 そして悲惨な過去を持つ凜のことを犯人だと決めつける始末。


 それでも千代子に旅行であったことを正直に話そうとは思わなかった。今の千代子は精神的に追い込まれているからという自分に都合が良い言い訳を立てて。


 それがまた弘志を自己嫌悪に陥らせる。


 部屋には千尋が作った『夫婦円満』を意味する千羽鶴が悲しげに存在を主張していた。

 



 弘志も千代子が上がってからお風呂に入り、二人でベッドに寝転んだ。もう電気は消したため、普段だったら黙って寝るだけだが、千代子が独り言のように話し出す。


「私はこれからは他の人と関わってみるようにする。凜ちゃんはきっと姉を失ったことを受け入れることができていない。私には何もできないと思うけど、似たような境遇の私が過去にとらわれていたらダメだと思う。だから私は前を向く。まずは近所付き合いから始めてみる。もしかしたら凜ちゃんに影響を与えられるかもしれないから」


 千代子は子供が夢を語るように明るく言った。芝居がかったような宣言だった。


 きっと今もまっすぐ前を見ているのだろう。


 弘志はその宣言を聞くことしかできなかった。自分がこんな前向きな宣言を聞いて良いのだろうか。耳を塞ぎたくなった。


 しばらくして隣からは寝息が聞こえ始めた。


 弘志も今日という日を終わらせるためにまぶたを降ろした。

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