9月1日(日) 夜中

 正面の入り口からは電灯の光が入ろうとしているが、交番の中の蛍光灯の明かりの強さに負けて道路を照らすことにとどまっている。


 交番の受付から見えるのは弘志と斉藤の二人だけだ。鼓芽は仮眠室で寝ている。


 斉藤とは旅行前と同じ関係に戻っている。元々斉藤は弘志とキスをしたことを覚えてないため、弘志だけが斉藤と顔を合わせるのが気まずい状態であったが、仕事中は気まずいと感じることが少なかった。


 仕事している時間だけは仕事に集中することで千代子のことを考えなくて済んだ。しかし、それ以外の時間は弘志にとって地獄でしかなかった。家に千代子と居るときは、ずっと死刑台の上に立たされている気分だった。


 でも、もしかすると今日自分は死刑台から降りられるかもしれない。そんな希望を胸に抱いていた。


「弘志先輩。どうかしましたか?」


 書類整理中に斉藤に話しかけられるのは珍しい。仕事中は基本的に斉藤はずっと真面目に取り組んでいるため、コミュニケーションを取る必要があるとき以外は話しかけてこない。


 弘志はパソコンを閉じようとしてしまった。エロサイトを見ているときに母親が部屋に入ってきたときのように。ぎりぎりのところで平静を保った。


 まず斉藤に心配されている時点で、弘志は今回も顔に緊張がにじみ出ていることが分かる。


「なんでもないよ。さっき鼓芽と話したことを思い出していただけ」


 また嘘をついた。最近嘘をつき続けてるせいか、口が軽くなり回るようになっていると感じる。それなのに体は重くなっていく。何かが自分に抱きついて足を引きずっているように。


「何かあったんですか?」


 弘志の額には汗が流れていた。それを斉藤は心配したようだ。昼間に鼓芽と話したことを斉藤に伝えた。自分が最近も同じ症状が出たことは伏せて。


 斉藤は一通り話し終えると、机に載っている紙と再びにらめっこを始めた。


 弘志は斉藤が仕事に集中したことと、仮眠室から鼓芽が出てこないことを確認した。


 そしてパソコンを動かし始める。


 キーボードの触れる指先は湿り、それぞれのキーに霜のような白をうっすらと付けていく。警察官専用のページを開く。今まで何度も開いたことがある。だが、今日初めて開いたような感覚だった。


 弘志は、今、私用で警察官専用のページを利用しようとしている。


 もちろん私用で利用することは禁止されている。悪を許さない弘志にとっては殺人のような犯罪と同等なことをしている。だが、指は動いていく。自分にしがみついている何かに引かれる力がどんどん強くなっているのか、背筋は熱くなっていく。


 パスワードを打ち込むページまで移動した。


 覚えているパスワードを、一文字ずつ打っていく。まるで心霊スポットで一歩一歩確実に進むかのような緊張感がある。


 打ち終わると押したキーだけに指紋がついている気がした。弘志はキーボードを手のひらで何度かなでる。


 そのせいで変なページに移動したので、ページを戻るボタンを何度かクリックして元に戻す。


 検索欄に「露光」と打ち込む。十に満たない選択肢が広がる。


 上から押していくと、「露光理沙」「露光凜」が子供の欄に載っている男性が出てくる。


 「露光理沙」の欄には飛行機事故で死亡と単調な文字で書いてあった。そこには一切の悲しみも存在しない。幽霊を見たときのような驚きもない。ただ事実だけが書いてある。


 弘志は理解できなかった。悪魔に魂を奪われたように口を開けて放心状態だった。


 斉藤が紙をめくる音で意識を取り戻すが、モニターに表示されている言葉は変わらない。


 理沙は死んでいる。それならばあれは誰だ? 凜と理沙は同一人物だということか。


 たしかに、それが事実ならば見た目がそっくりすぎることにも納得できる。


 さらに凜の父親は1年前くらいから仕事を辞めていることも分かった。それならばいつも家にいないのはなぜなのか?


 それに、凜が理沙のふりをする意味が分からない。千代子が理沙、凜のことをぼかした理由も。疑問は増えた。


 もしかすると理沙は事故ではなく、他殺なのか? 生き残ったのが凜ではなく、理沙のほうなのか?


 不安も増えた。千代子が事件に巻き込まれている可能性が増えた。


 だが、確実に千代子に何かしら影響を与えているはずだと確信できた。心霊スポットで幽霊を撮影できたような達成感があった。自分は危険に足を踏み入れて、成果を手に入れて無事に帰ってきた感覚が、困惑、不安を上回っていた。それほど弘志は自分が原因だと、自分自身を追い込んでいた。


 あとは、千代子に最近何があったか聞けば良いだけである。自分が原因ではないと思った途端に、千代子に質問するのが簡単なことのように思えた。


 今までは自分以外の原因が思い当たらなかったが、他の原因があると思えた今では、犯罪者ではなく、自分は観衆側だと思えた。死刑台から降りることができた。隠し事、嘘、職権乱用などの罪からも解放されたと弘志は錯覚した。

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