9月1日(日) 当直
原因を見つけることが出来なくても、次の日は勝手に来る。昨日とは違い、晴れていた。今日から9月だというのに暑さはまったく変わることをしらない。
弘志はいつも通り鼓芽とパトカーに乗り、パトロールしていた。
「テル、僕らが武田さんと班を組んでいたときのことなんだけどさあ。僕が頭を抱えて叫んだことがあったと思うんだけど覚えてる?」
赤信号で止まったタイミングで弘志は話し始める。昨日の痛みを思い出して腕や足、顔をさする。もちろん今は痛みなどない。以前にも似た経験をしたことがあると思っていたが、理沙が帰ってから、いざ考えてみるとはっきりと覚えていなかった。何度か似たような経験をしたはずなのに、思い出せなかった。唯一思い出せたのが10年くらい前の初心者警察官の時のことだ。時々、武田さんにあのときのことを心配されたため覚えていたのかもしれない。
だが、これも内容までは思い出せなかった。弘志は記憶力に自信が無いわけでもなく、もちろん記憶障害などでもない。
今は千代子のことで手一杯のため、他の不安要素はすぐにでも消しておきたかった。そのため鼓芽に訊ねた。
「覚えてるけど。突然どうしたんだよ? またあれが起きたのか。最近おかしかったのはそれが原因なのか?」
いつも話すのも面倒くさがる鼓芽が食い付いてきた。
2週間ずっと鼓芽には心配され続けてる。鼓芽にとっては自分の体調なんてどうでもいいはずなのに「オカンかよ!」ってツッコミたくなるくらい聞いてくる。
少し前まで、鼓芽に同じ質問を投げかけていたのをウザがられていたのが実感できた。毎日同じ質問をされると嫌になる。旅行で何かあったのかと疑われたが、斉藤に酒を大量に飲まされたとだけ話した。またひとつ嘘を重ねた。
「まあ。最近も似たようなことがあってね」
嘘は言っていないが、本当のことも言っていない。
「それで、あのときってどんな感じだったけ? 考えたんだけど思い出せなくてね」
「あれは……」
鼓芽は詳細に話し始めた。弘志は話を聞くうちに思い出していった。
***
警察学校を卒業して1年が経とうとしたときだった。
「もしもし、○○交番の武田です」
武田の顔はどんどん曇ったものになっていった。ついには立ち上がった。このころの武田は背筋がピンと伸びていて、ベテランでありながら現役という最も調子が良い時期だった。
武田は電話を受話器に戻すや否や、本部に電話をかける。本部が電話に出るまでのほんの数瞬の間に鼓芽と弘志に指示を出す。
「お前ら、急いで出れる準備しろ! 早く!」
いつもはおっとりとしている武田が叫んだ。
「はい!」
弘志は警察学校の教官にしごかれていたことを体が思い出したのか、敬礼のポーズをとって大きく返事をした。鼓芽も優しい武田が叫んだことで、きびきびと行動した。
覆面パトカーに乗り込む。弘志は運転席、鼓芽は後部座席。
武田は電話を終えて、助手席に飛び乗った。そして行き先も言うことなく、「右に行け!」とだけ指示を出した。弘志は指示に従った。
走り出してから武田は行き先を弘志に伝えた。そして通報の内容も。要約すると1年前に誘拐された女子高校生の津田紀子を見たという通報だった。
目的地に到着した。2階建てのアパートで、それぞれの階に2部屋ずつある。壁は茶色だが、ところどころ塗装が剥がれ白色がむき出しになっている。
弘志たちはアパートの近くで車を止めている。本部の警察が到着するまでは監視役に徹底する。
弘志は次第に落ち着いていった。武田の変様に驚き、気を引き締めたが、ここからは本部の人達が解決してくれるため、背中から重荷が下りたような感覚だった。正直、1年目の警察官には荷が重い事件であることは誰もが納得するだろう。
本部の人はまだ来ないが、犯人もまさか見つかっているとは思っていないだろう。一年間近く潜伏し続けてきたのだろうから。
そのため弘志の思考は犯人を捕まえなければいけないから、犯人はどんな人なのだろうかという疑問に変わっていった。まず、なぜ犯罪など起こすのだろうか?
今回のような凶悪な犯罪者ではないが、この約1年間で何人もの犯罪者を捕まえてきた。その人達は皆、自分がやっていることを悪だと認識していた。それなのに犯罪を犯す。弘志には理解できなかった。弘志にとっては、法に違反しないこと、違反だとしても暗黙の了解のようなことでも悪ならやってはいけない。嘘をつく、誰も居ないところで信号無視・速度標識無視、ポイ捨て、SNSへの悪口、イヤホンしながらの自転車、分別しないゴミ、……。それら全てをやってはいけないと思っていた。
だからこそ犯罪者はさらに理解できない。犯罪を犯したら、死刑、懲役、禁固、罰金などが課せられる。つまり自分の命、時間、資産、信用などを失うということだ。中学生でも知っている。悪いことをやっても良いことなど一つも無い。
そして今回の犯人は今までの万引き犯とはレベルが違う。まず、自分がやっていることが違法だと認識しているのだろうか。認識していたら何を考えているのだろうか?
弘志の思考は中断させられた。
「お前ら、出る準備しろ!」
フロントガラスからは、アパートの右上のドアが開けられるのが見えた。犯人と思しき男は焦げ茶色のニット帽にマスク。黒のダウンに黒のズボン。男の後ろの女性は赤色のニット帽。それ以外は男とほとんど同じ格好だ。犯人だと考えなければ、仲が良い親子のように見える。
男は手を引き、津田を外に出す。そこからは女性は自分の意思で前を歩いているようだった。
「いくぞ!」
武田の声が車内に響いた。
3人は同時に車から出た。犯人の男に抵抗する隙を与えることなく、無事に捕まえることが出来た。
弘志は監禁されていた津田を保護しようと近づいた。
そして顔を合わせたときに数十秒間、記憶がなくなった。気づけば地面に膝をつき、うめいていた。
***
弘志も初めの方は覚えていた。後半は話を聞いた途端に霧が晴れたように、鮮明に思い出していった。忘れていたのが不思議なくらい印象に残っている。
忘れていたはずなのに、ずっと覚えていたようだ。そのせいで、鼓芽の話は、先生が誤って同じ授業をしたときのように退屈でしかなかった。
鼓芽の話よりも、鼓芽がこんなに長く話していることへの驚きの方が大きかった。鼓芽がこんなに話したのは10年間以上一緒に居て初めて見たかもしれない。
「結局、何が原因だったんだよ? あの時は、たしか緊張からの脱力で気を失ったようなもんだろうって武田さんが言ってたけどよ」
「うーん。僕も分からないんだよね。僕はあの後、女性を見ることがなかったけど、何か変わったところあった?」
「もう10年以上前だからなあ。俺もあんまりおぼえてねえな。俺はおまえの心配、いや何でもない」
そのわりには事件のことはしっかり覚えていたのだなあと弘志は思った。
鼓芽は突然「あ」と声を上げた。
「本部と武田さんが話していたのを少しだけ聞いたんだったわ。あの女性は心が壊れていたらしい。まあ1年間も監禁されればそうなっても不思議じゃねえけどな」
「相当壊れてたの?」
あのときの思考も思い出せたのに、女性の顔だけは思い出せなかった。どれほどやつれていたのか、まずやつれていたのかすら分からない。完全に想像でしかない。それなのに、最近似たような顔を見たような気がする。
「ああ。確か、家族と会っても表情が動かなかったらしい。目に光が戻るまで1年間以上かかったんだとよ。なんでそう思ったんだよ」
「さっきの話でいろいろ思い出したんだけど、あの女性は拘束とかされてなかったのに、家から出ても男から逃げようとしなかったし。それにあのぼろいアパートなら逃げられる機会もあったと思うんだよ。実際近所の人に見つかったりするほど、男の注意力も散漫になっていたんだから」
「それは俺も武田さんに聞いたわ。『何で女性は逃げなかったんですか?』って。そしたら『人間は恐怖などのトラウマを植え付けられると抵抗をしなくなる。むしろ悪化しないように従順になることもある』って言われたわ。あのときの武田さんは真剣過ぎて今でも覚えてるわ」
警察学校の生徒が教官の声を聞くだけで背筋が伸びるのも少しは似ているかもしれない。きっと恐怖は体に刻み込まれるのだろう。
「確かにそうかもね。大学時代の友達も言っていたよ。友達が母子生活支援施設に研修に行ったときに、DVを受けた母親が、男性を見るだけで震え出し、その場から動けなくなったところを見たって。人間にとって、痛みとかの恐怖は最も体に刻み込まれるのかもね」
「そうだな」
「でもそこまで心が壊れるって何をしたんだろうね?」
「それは教えて貰ってないな。それに聞かない方がいいだろ。俺ら交番勤務にはそんな凶悪犯の担当なんて回ってこないんだから、そういうのは想像しない方が楽しく生活できる」
「そうだね」
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