8月31日(土) 休日

 窓の外は薄暗く雨が降ってた。朝の天気予報によると台風が接近しているらしい。ほとんどは東北地方に届く前に逸れるため、珍しいといえば珍しいが、別に大した雨が降っているわけではない。普通の雨。ジメジメとして、低気圧で気分が揚がらないいつもと変わらない雨だ。


 対照的にリビングには明るい声が響いていた。千尋と理沙が柳岡家で遊んでいる。


 今まではずっと露光家で遊んでいたのに、旅行の日を境に柳岡家で遊ぶようになった。それも千尋の部屋ではなく、リビングで遊ぶ。幼稚園児ならリビングで遊ぶのも普通だが、弘志にはそうとは思えなかった。千代子が弘志と二人きりになる時間を減らそうとしてるのではと感じた。まるで死刑台に運ばれる囚人が暴れられないように警官を周りに配置するかのように。


 もちろんこれは弘志の妄想でしかない。千代子とは普通に会話しているし、隣同士のベッドで寝ている。旅行から帰ってきたときと何も変わっていない。つまり、まだ元の状態に戻れていない。


 人間はたとえ悪いことをしたとしても、それが他人に悪影響を与えていないならば、悪いことではないと否定することが出来る。正義感が強く、悪を悪だと思える弘志も、このときはその考えに流された。自分の嘘が原因で誰も傷つかなければ、その嘘は悪いものではなく、良い嘘になる。弘志もお笑いのための嘘などは、もちろん悪だとは思っていないのだから。


 千代子の態度の変化は、弘志に対してだけではなく、千尋に対してもだったため、原因は自分ではないと思えていた。それでも斉藤とのことが頭の中にちらついた。


 1週間が経っても千代子の様子は変化しない。原因の手がかりも掴めない。次第に原因が自分にある可能性が高いのではと思うようになっていった。


 そのせいで余計に「旅行中に何かあったの?」と千代子に聞くことができなくなった。「お前のせいだ!」と聞いたこともないような怒声を返されるのではと不安になったため。


 原因は自分ではないのか? 斉藤とのことがバレたのではないか? 『裏切り』行為だと妻に判定されたのではないか?


 不安はどんどんと募っていった。


 しかし、2週間近くが経った今の弘志は幾分か気分が軽くなっていた。


 昨日の夜、「そういえば露光さんの両親にまだ挨拶できていないね」と千代子に話した。普通の会話は今まで通りできる。その結果、千代子は旅行中に露光家に挨拶に行ったという情報を得た。


 必死に原因を探していた弘志は、露光家への挨拶で千代子が変わってしまったのではと直列的に考えた。それから露光家について知っていることを思い出した。


 まず理沙の両親は千代子の話によると、普通の両親らしい。千代子もあまり詳しくは知らないので、見た目や話した感じから普通っぽいと判断したそうだ。


 そして子供は凜、理沙の二人だということ。そこで家には理沙しか来ていないが、凜はなぜ来ないのか疑問に思った。千代子に聞いてみると、何かあるんじゃないとぼかされた。その時の、千代子の目の瞳孔が大きくなり、角膜、虹彩から光が消えていった。肌の張りも失われていくように、顔の筋肉が下がっていった。その表情にはいろいろなものが含まれているようだった。恐れのような、哀れみのような、いろいろな負の感情が混ざっていた気がする。


 その反応が重圧に押しつぶされそうになっていた弘志には、蜘蛛の糸に見えた。まだその糸の先が外かは分からない。それでも何も無かった暗闇で解決策らしきものを発見できたことに違いはない。


 そして、千代子は穏やかな表情で千尋の頭をなでていた。鬼子母神きしぼじんを想起させた。千尋を授かったと分かったときに千代子とお参りに行った。鬼子母神は他人の子を食べていたが、自分の子供を隠されたことで子供を喰う罪を理解し、安産・子育ての神となった存在。


 千尋を大切にしていこうという慈愛に満ちた千代子の表情は、弘志の心にちくりと何かをさした。だが、弘志は糸をどうやって昇るか考えるのに必死で気づかなかった。


 この日は、千代子は実家に用事があったため家には居なかった。今日も凜は遊びに来ていない。


 弘志はリビングの椅子に座って、子供二人が遊んでいる姿を見ていた。昨日までは自分以外の原因を見つけようと必死になっていたので、千尋たちが遊ぶ姿がぼんやりとしか視界に入ってきていなかった。


 千尋とは2ヶ月近く、しっかり話していないかもしれない。旅行に行く前はサプライズのため千尋が母、父と関わらないようにしていた。旅行の後は弘志が原因を探すのに必死だった。


 相変わらず千尋はとても笑顔だ。理沙はいつもの真っ黒のドレスで、装飾品も黒で統一されている。


「今日も凜ちゃんはいないのかな?」


 昨日、千代子に曖昧にされたことを聞いてみる。弘志は糸に手を掴んだ。


「……居ないでありんすよ」


 理沙は一度足下を見てから、胸を張り直し堂々と言い切る。


 千尋は顎に人差し指を当てながらも笑顔でいる。仕草と表情が合っていないが可愛らしい。


 弘志は二人が遊んでいる脇でしゃがんでみた。旅行から帰った時に露光家の玄関でしたように。


 凜と理沙は顔だけではなく、身長まで同じことが分かる。見た目がまったく同じだ。ここまで同じ双子は存在するのだろうかと疑いたくなる。


「凜ちゃんと理沙ちゃんって双子なんだよね?」


 一応聞いてみる。弘志はできるだけ露光家の情報を引き出そうとしていた。千代子を変えた原因を特定するため。


 再び、ほんの少しだけ間を開ける。


「……違うでありんすよ。妾は10歳でありんす。妹は5歳でありんす」


 弘志は目を大きく開き、数回瞬きをしてしまうほど驚いた。そして、徐々に頬が緩み、喜びが生まれていった。自分が握っている糸は当たりかもしれないと思えた。


「どうかしたんでありんすか?」


「あ、何でもないよ。ごめんね。遊びの邪魔しちゃって」


 弘志は右手で口元を隠した。


 露光家には何かあると確信できた。


 10歳の子が5歳の子と同じ身長のわけがない。もちろん、可能性はあるが、さらに顔まで一緒ということは考えにくい。


 もしかしたら、妻は何か大きな事件に巻き込まれたのかもしれない。喜びは不安に変わりつつあった。


 弘志は千尋たちに少しだけ外に出ると伝えた。


 傘には雨が当たる。周りからは雨音しか聞こえない。


 あの時に似た状況。


 軽くなった体は再び雨によって重くなっていく。雨は弘志に当たっていないのに、服が濡れて重くなっていくように、体に一滴一滴蓄えられるかのように、不安は増していく。これは妻が危険に巻き込まれているかもしれないという不安なのか、それ以外なのかは分からない。


 不安を晴らしたい気持ちが先行し早足になる。何度かつまずいて転びそうになった。


 露光家の前に着く。


 ふとカラスの羽を思い出した。そして理沙、凜が連想される。あの黒い服。カラスが人間に変化したのではという恐ろしさ。薄暗い雲の下に佇む露光家が悪魔の住処のように禍々しく見えてきた。


 弘志はインターホンを鳴らす。地獄から抜け出すために、地獄への入り口に立つような矛盾した気分で。


 何の返答もない。両親がいないのはいつも通りだ。しかし、凜はどうなのだろうか。


 両親はたぶん仕事のはず。そうではなく、遊びに行っているなら理沙も連れて行くはず。凜だけを連れて行くのはあまり考えられない。


 何度かインターホンを鳴らす。だが、誰も出てこない。


「何してるでありんすか?」


 最後にもう一度チャイムを鳴らそうとしたときに後ろから声をかけられた。


 心臓が跳ね浮いた。ジャットコースターの浮遊感とは比較にならない恐怖。


「両親に挨拶しようと思いまして」


 顔は玄関に向けたまま、大人相手にするように話した。


「それより、理沙ちゃんは、……」


 落ち着きを取り戻して、声を出しながら理沙の方へ振り返る。口が止まった。


 理沙はこちらを見ていた。じっと見ていた。


 顔に何かついているのか触れようとしたが、「違う」と脳の中で叫んだ。


 見ているというレベルではない。


 観察されている。胸あたりをずっと見ている。まるで表面だけではなく、心の中まで覗こうとするように。



 …………



 弘志は頭を抑えて屈んでいた。


「大丈夫でありんすか?」


 理沙は弘志の背中をさすっていた。


 何がどうなっている? 動画の10秒飛ばしのように記憶が飛んでいる。自分が屈んでいる理由も、理沙が背中をさすっていることも理解できなかった。


 体中が痛かった。中から何かが押し上げてくるような感覚。その痛みは次第に心臓あたりに戻っていく。最後に心臓の痛みも消える。まるで体の中で化け物が暴れ、それが再び封印されるように。


 弘志は自分の右腕をさすり、関節がついているか確認するように曲げたり伸ばしたりする。なぜだか執拗に右腕を確認してから、他の部分も確認していった。肌には傷も何も残っていない。あの痛みが幻覚だったことを示すように、体には何の形跡もない。


「大丈夫でありんすか?」


「ああ。大丈夫だよ。心配かけてごめんね、理沙ちゃん。それより僕は何かしてた?」


「いきなり心臓を抑えて、次に、屈んで頭を抑えて叫んでいたでありんす。たぶん『僕は警察に憧れている少年だから』みたいなことを言っていたと思うでありんす」


 確かに弘志は小学生から警察官だった父に憧れていた。でも、なぜそんなことを言ったかは検討もつかない。まず、こんな状態になったのは初めて……じゃないな。確か前にも一度、いや何度か似たようなことがあったはずだ。


 弘志はこの症状がなんなのか疑問に思ったが、とりあえず立ち上がった。自分が平気だと子供の理沙にアピールするために。


 そういえば、こうなった原因は何だったのだろうか?


 理沙に話しかけられたから? いや、それなら家で何度か話しているから違うな。でも理沙に後ろから話しかけられて驚いたところまでしか記憶がない。その後に何かあったのだろうか?


 理沙の様子を観察する。


 理沙の目は、自分が露光家を怪しむように、弘志を警戒しているかのようだった。互いに牽制しているようだった。露光家を疑っている弘志にはそんな風に見えた。


 咳払いをする。今は、千代子が変わった原因を探す方が重要だったと思考を切り替える。


「それより、理沙ちゃんはどうしたの? 千尋と遊んでるんじゃなかったの?」


「妹からおもちゃを借りにきただけでありんす?」


「凜ちゃんは家のなかにいるの?」


「……いるでありんす」


 妹の話になるといつも間が開く。それが弘志を不安と喜びが混ざり合った気持ち悪い空間に引きずり込む。


 ここで妹に会わせて欲しいといえば情報が得られる。この地獄からの脱出方法が見つかるかもしれない。だが、その一歩を踏み出せなかった。理沙の表情は普段の堂々としたものではなく、暗い表情になる。妹の話になると一瞬だけこの顔になる。理沙自身もその変化に気づいていないほど一瞬だけ。千代子が姉の話をしたときの、どうしようもないやるせない表情とどこか重なった。


 それが弘志にとっての一時停止標識となる。家の中でも理沙に妹のことを詳しく聞こうとしたができなかったのはこの表情のためである。そのため露光家に居るはずの凜に会おうとしていた。


「じゃあ、僕は先に行ってるね」


 理沙はうなずき、家に入っていった。


 その後、理沙は一人で戻ってきて、千尋と遊んでいた。

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