8月16日(金) 旅行二日目

 朝、鏡を見るとクマができ、顔色は青白く、目が充血していた。


 昨日のことが現実であることを証明しているような顔だった。弘志はすぐに鏡の前から逃げ、風邪を引いた場合に備えて持ってきていたマスクをした。


 昨日のことが夢だったと最後の望みをかけて朝食会場に向かった。


 斉藤は端の席で座って待っていた。弘志と同じく浴衣姿だった。嫌でも昨日の光景が頭をよぎる。


 私服に着替えてから来れば良かったと後悔した。


 会場の奥側の壁一面はガラス張りで太陽の光が差し込んでいる。昨日と変わらず、今日も暑くなりそうだ。


「おはよう」


 いつも通りの声で挨拶する。


「おはようございます」


 斉藤は弘志から目線を逸らす。最後の望みも砕け、弘志は落ち込む。


 お互いが無言になる。


 斉藤は叱られる子犬のように小さく体を丸め、うつむいている。


 後輩の落ち込んだ姿を見て、先輩の自分が話をしなければと思うが、なかなか言葉が出てこない。


「朝食でもとりにいくか」


 かろうじて声を絞り出す。


 斉藤は小さくうなずいて弘志についていく。朝食はバイキング形式になっていた。


 皿に野菜やパンを載せ、テーブルに戻ってくる。


 お互い「いただきます」と小さな声で言い、食べ始める。弘志はマスクを顎に下げる。


 夏休み期間ということもあり、周りでは家族連れの人々が楽しそうにわいわいと食べている。弘志たちはとても静かだ。皿にスプーンが当たる音が聞こえる。


 弘志は周りを見て、千代子と千尋のことを思い出す。自分に対する嫌悪感が生まれる。


 目の前に座る、落ち込んだ斉藤を見て、さらに嫌悪感が増す。


 自分は家族も第二の家族である同僚にも悪いことをしてしまっている。


「斉藤。……昨日の事って覚えてるか?」


 斉藤の体が大きく震えた。空中で卵焼きを持っている箸が止まった。弁当のおかずを貰うときに似た光景なのに、まったく違って見える。


「……はい」


 まるで罪を認める犯人のように肯定する。


「すみませんでした。先輩。酔っていたとはいえあんなにお酒を勧めてしまって」


「え?」


 重い空気のなか微炭酸のような軽い驚きが弾ける。


「え?」


 斉藤も弘志につられて、間抜けな声を漏らす。


 お互いの目がやっと会う。互いに口を半開きにしている。


 少しの間そのままで、すぐに二人とも笑った。


「そうなんだよ。あの後、何度もトイレで吐いたんだからな。それに斉藤が寝落ちするから心配もしたんだから」


 弘志は口を押さえるようにしながら明るく言う。


 弘志はとっさに嘘をついた。お笑いのような嘘はついたことがあるが、こんな重大なことで嘘をついたり、隠し事をしたのは初めてだった。千代子にも隠し事なんて一切していない。


「すみません」


 斉藤は顔がテーブルにぶつかるくらい顔を下げる。


「もう、いいよ。それより今日の予定はどうなってるの?」


 軽くなった唇を動かす。自分の口から出ている声のはずなのに、違う声帯から出ている声のように感じた。まるで自分の中に居る別人が話しているようだ。


「えっと、今日は……」


 斉藤は少しの申し訳なさを含みつつも、昨日のように明るく話し始める。




 その後は何事も無く旅行を終え、新幹線に乗って帰った。


 弘志と斉藤は駅で別れた。


 箱根は晴れていたが、新幹線を降りると大雨だった。遠くでは雷まで鳴っていた。


 弘志は傘をコンビニで買ってから、最寄りの駅まで電車で移動した。


 柳岡家は最寄り駅から歩いて15分くらいのところにある。


 ボストンバッグを持ちながら、この大雨の中歩くのは大変だ。


 新幹線を降りた駅に妻に迎えに来てもらえば良かったが、弘志は妻と連絡を取らなかった。こんな大雨の中わざわざ外に出てきてもらうのは良くないという理由で。


 最寄りの駅に着くと、携帯に妻からメッセージが入っていた。


『迎え大丈夫?』


 無機質な言葉だった。


 一個上のメッセージには『今日帰り遅くなります』と書いてある。いつもと変わらないはずの淡々とした言葉なのにいつもと違うように感じる。


 感情が一切含まれていないように感じた。


 弘志は『大丈夫』とだけ返した。何に対しての「大丈夫」なのかは自分でも分からない。


 コンビニで買った新品の傘をひろげ、駅から出る。地面にはうっすらと川のように水が流れている。通気性の良い運動靴を履いていたため、すぐに靴下が濡れた。


 空を見上げるが、まだ4時前なのに真っ暗で夜のようだ。鼓芽に佐藤家のことを聞いたときのように、すぐにやむ天気雨ではないと分かる。遠くまで黒い雲で上空が覆われている。


 弘志は遠くの山の方を見ながら歩いて行く。雨が強くて山はぼやけて見える。山の方で雷が落ちる。数秒後に大きな音が耳に届く。


 雷の音がなくなれば、傘や地面にあたる雨音だけが空間を支配する。周りには誰も居ない。


 弘志の思考はどうしても昨夜のことに傾いていく。


 新幹線を降りるまでの斉藤と一緒に居たときは、旅行を楽しむことに集中することで、昨夜のことを考えなくて済んだ。電車に乗っているときも箱根で買ったお土産のお菓子がどんな味がするのかなど考えていた。だが、もう考えることもなくなってきた。


 雨が傘にぶつかるたびに体が重くなっていく。今朝の朝食で一度は体が軽くなった。


 今では昨日の夜以上に体も心も重い。


 理由は分かっている。でもそれを考えたくない。


 しかし雨音しか聞こえない一人の空間ではどうしても頭が働いてしまう。


 弘志の靴の中は完全に濡れていた。


 同僚とキスをした。妹みたいな関係の女性と深いキスをした。後輩に陰部を見られた。


 斉藤と不純なことをした。斉藤に嘘をついた。


 『裏切り』を憎む妻を裏切った。


 自分の罪が頭の中に並び立てられていく。裁判で検察官が罪状を読み上げていくように。


 ふと浮かぶ。

 


 この全ての罪は自分が何も言わなければ無罪になる。

 


 斉藤は昨日の夜のことを覚えていない。覚えているのは自分だけ。自分が言わなければ妻には伝わらない。


 一度嘘をついた。それならばもう一度くらいやっても良いのではないか?


 今まで嘘をついたことがないのだから少しくらい良いだろう。みんなやってることだ。


「これはみんが幸せになる嘘だ」


 弘志のささやきは雨の音でかき消されたが、発言したという事実は消えない。


 一度決めてしまえば、心は軽くなっていく。弘志は悪い嘘をついたわけではないと自分に言い聞かせた。


 弘志は住宅街に入った。柳岡家とは反対側なので、住宅街を横切るように歩いて行く。


 だが、家に近づくたびにまた体は重くなっていく。妻はこのことを知らない。昨夜のことを知っているのは自分だけだ。分かっていても怖い。妻にバレているのではと最悪なケースを考えてしまう。


 もしバレていたらどうしようか?


 弘志は立ち止まった。こんなことを考えるのは無意味だと頭では理解してるが、体は動かない。答えを見つけるまで動かないと足は主張している。


 地面を流れる水の量は増えている。水は家とは反対方向に流れている。弘志に立ち止まらせる理由を与えるように。


 あれは事故だった。


「そうだ。あれは事故だった。もし聞かれても事故と言えば問題ない」


 弘志は足を再び動かし始めるが、すぐに止まる。


 何で僕は嘘をつこうとしている?


 初めから事故で後輩とキスしてしまったと言った方が良いのではないか? 不純なことをしたが、僕に不純な気持ちは無かったのだから。


 それなのになぜ?


 いや、夫が他の女とキスしてたなんて妻は知りたくないに決まっている。


 弘志は深く考えることなく、結論を出す。


 どんな状況になっても乗り越えられると自信を持つが、足は重い。体は家に帰ることを拒絶している。


 それが影響したのか、墨田家の脇を通り抜けようとしたとき、墨田家の隣の露光家の玄関がわずかに開いてることに気づいた。普段だったら気づかなかっただろう。それも大雨の中では注視しなければ気づけない。


 空き巣に入られたのかもしれない。もし今日も両親がいなかったら理沙ちゃん、凜ちゃんが襲われてるかもしれない。


 弘志は露光家の庭に傘やバッグを投げ捨て、玄関に走った。玄関を開けようとすると、少し開いて止まった。チェーンロックがされていた。


 弘志は安心した。無事を確認するため、チャイムを鳴らそうとしたとき、玄関の隙間から視線を感じた。玄関のドアのすぐ向こうにはいつものゴスロリ衣装の理沙がいた。


「りさちゃん。大丈夫? 何かあった?」


「……」


 答えない。弘志はいつもと様子が違うと感じて、ジッと少女を見た。服装はいつもと同じだと思う。しかし、いつも胸を張って、堂々としている理沙ではなかった。肩を内側に丸め、顔は下の方を向き、目の端が下がり自信がなさそうな気弱な少女だった。


「もしかして、りんちゃん?」


 弘志は凜のことを見たことがなかった。挨拶回りのときに声を聞いただけである。


「うん」


「何かあった?」


 弘志はしゃがみ凜と視線を合わせた。凜は理沙とまったく同じ見た目だったが、雰囲気はまったく異なった。双子なのだろうか? それにしても似すぎではないだろうか。


「外に出てみたかっただけ」


「今日は大雨だから家の中にいたほうがいいよ」


 凜は小さくうなずいて、次の言葉を発する時間もないうちにドアを閉めた。鍵を閉める音も聞こえたので、とりあえず安心した。弘志は投げ捨てた傘とバッグを拾った。バッグも弘志自身も雨でびしょ濡れだった。


 自宅の玄関のところで傘をたたみ、バッグについている雨粒を気持ち程度に払い、地面に置いた。


 携帯のカメラを起動して、内カメにして自分の顔を確認した。弘志は笑顔を作ったが、ぎこちない笑顔だった。これでは何かあったことがバレると思い、数分間使っていつもの笑顔をなんとか作り出した。服が濡れてるのはどうしようもないので、もし聞かれたら事情を話そうと決めた。


 地面に置いたカバンを肩にかけようとしたときに、カラスの羽が目に入った。玄関の屋根にぎりぎり入らないあたりに真っ黒な羽が落ちていた。


 ドォーンと戦車の大砲から爆薬が打ち出されたような轟音が響いた。今までで一番大きい雷が落ちた。


 自分に天罰が下る前兆のような不気味な現象が続く。


 弘志はカバンを掴み、すぐにドアを開けた。


「ただいま」


 声が震えた。今の自分の顔が引きつった笑顔であることが分かった。さっきの数分間は雨の滴が地面に落ちて割れてしまうように儚く流れ去った。落ちたしずくが戻らないよう、やり直すことは出来ない。


 千代子はリビングから顔を出した。


「おかえり。お風呂入ってるからどうぞ」


 いつも通りの妻の声が聞こえた。


 弘志の心臓は直接殴られたように大きく揺れた。


 千代子と弘志の間には何枚もの見えない壁があった。いじめの話題を出したときの比ではなかった。


 弘志には千代子の周りに黒い粒子が漂っているように見えた。まるで家の中まで黒い雲が侵入して光を遮ってるようだ。


 なんで?


 疑問が湧いた。


 想定外の状況だった。バレてるはずがないのに、妻は変わっている。でもバレてると決まったわけでも無い。この状況では何をすれば良いのか考えていない。


「うん」


 とりあえず頷いて、荷物を玄関に置き、お風呂場に向かった。いつも通り着替えのパジャマが用意されていた。


 頭と体を洗い浴槽に入る。冷えた体が温まっていくが、体の中にその熱は届かない。


 お風呂から上がり、早めの夕食を始めた。今日は千代子の誕生日のため、高級寿司の出前とケーキ、ちょっとした野菜がテーブルに並べられていた。妻と千尋は椅子に座っていた。


「早く、パパ椅子に座ってよ。もうお腹空いた」


 笑顔の千尋は言う。千尋から話しかけてくれたのは1ヶ月ぶりくらいだが、今の弘志は喜ぶことができない。ただ、「うん」と言い、席に着く。


 「「いただきます」」全員で挨拶をそろえて、食べ始める。千尋はお寿司とケーキを食べるのに夢中になっている。


 千代子とは普通に会話できる。でもこれは家族以外と話すときの千代子だ。


 弘志は落ち込むとともに、僅かな希望も見えた。千代子は決して自分を拒絶してるわけではないと分かった。千代子は『裏切り』と『いじめ』を異常なほど嫌っているため、弘志が裏切ったり、いじめをしてたら軽蔑して同じ空間にも居てくれないだろう。もしかしたら千尋が居るから一緒に居てくれるかもしれないが、拒絶するようなオーラを出すはずだ。


 千代子の様子を確認しつつ、食事が終了した。


 弘志はカバンからお土産を取り出し、引き出しからはラッピングされた長細い箱を出した。


「これ箱根で買ってきたお土産。あとこれが誕生日プレゼント」


「開けても良いかしら?」


「うん」


「ネックレス?」


 箱には小さなサクラの花びら型の宝石がついたネックレスが入っていた。あまり派手ではなく、普段使いでるようなデザインのものだ。


「うん。最近香水にもハマってたから、何か身につけられるお洒落なものも欲しいかと思って」


「ありがとう、お父さん」


 千尋も二階の部屋からドタドタと降りてきて、千羽鶴を千代子に渡す。


「私からも。これ。ふうふえんまん? ってりさちゃんに教えて貰ったの。これでパパとママが喜ぶって。だから私頑張ったの」


「夫婦円満ね。ありがとう、千尋」


 千尋に話しかける千代子もいつもと違うような気がする。15年近く見てきたが、初めて見る千代子だった。千代子の目は気弱だが、今日の目はいつも以上に弱々しく、まるで振動を与えたら割れてしまうのではという儚さを含んでいた。そしてその目を千尋に向け、頭に手をのせる。


 自分以外にも接し方を変えていることから、原因が自分でないとさらに思え、安心できた。だが、弘志には『夫婦円満』という言葉が刺さった。


「どうかしたの? お父さん」


 自白を促されている気分だった。


「何でもないよ」


 やっぱりバレてるのか? いや、バレてはいない。大丈夫だ。でも、やっぱり……


 この日、千代子に、旅行中に何かあったのか聞くことができなかった。


 その日以降、弘志は自問自答し続けた。

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