8月15日(木) 旅行一日目

 弘志と斉藤は箱根に来ていた。


「鼓芽さんは何でこんなときに風邪なんて引くんでしょうね」


 斉藤は胸あたりで腕を組み、頬を膨らませてムスッとしていたが、笑顔が隠し切れていない。服装は新居祝いに着ていたものと色違いの白のキャミワンピース。今回は中にTシャツなどを着ていなく、熱い日差しの中少し焼けた肌を露わにしている。前回は黒のワンピースで肌も出していなく落ち着いた雰囲気だったのが、今回はより女の子っぽく見える。


「そうだね。もしかしたら、面倒くさくなっただけかもしれないけど」


「確かに鼓芽さんならありえそうです。まあ居ない人のこと考えてもしょうがないですから、楽しみましょう。弘志先輩」


「そうだね。せっかくの旅行だしね。それで旅行プランは任せてくださいって言ってたけど、今はどこに向かってるの?」


 太陽は若干東に傾いているが、気温はすでに30度を超えている。そんななか二人は電車を降りて外を歩いている。


「ここです」


 斉藤は黒い建物の前で両手を広げる。今日の斉藤はテンションが高いなあと感じた。いや、最近テンションが高かったのは旅行を楽しみにしていたからなのかと弘志は考えた。


 その施設ではサンドブラスト体験をした。


 簡単に説明すると、好きなグラスにシールを貼って模様をつける体験だ。


 2時間ほどで体験が終了し、できあがったグラスを貰い、外に出た。


 斉藤は包んで貰ったグラスを出し、太陽の光に当てながら観察していた。


「似たようなデザインになっちゃいましたね」


「そうだね。これなら鼓芽の分も作って3人で同じグラスにすれば良かったね」


「そ、そうですね。そういえば、弘志先輩。私の今日の服装どうですか?」


 斉藤はグラスを大切に新聞紙で包み直し、カバンに戻した。


「え、ああ。普通に可愛いと思うよ」


「どこら辺がですか?」


 斉藤は弘志に顔を寄せた。


 弘志が驚いて一歩下がると、斉藤は一歩詰めてきた。


 こんなに近くで斉藤の顔を見るのも、注目して見るのも初めてだった。顔全体にうっすらと化粧が施されていて、一切の毛穴も見えることなく綺麗だ。遠くからでは気づかなかったが、唇には薄ピンク色の口紅が塗ってあり、眉毛も切りそろえられている。目もキリッとしているが大きくパチッと開いている。


 動揺で止まった呼吸を再開すると、桃の匂いが鼻をくすぐる。妻のものとは違い甘くてフレッシュな果物の匂いだ。


 初めて会ったときとは別人のように変わったなあ。そういえば初めは化粧などしていただろうか。いつから化粧をし始めたのだろうか。やっぱり人は変化していく生き物だよと心の中で鼓芽に言った。


「弘志先輩。聞いてるんですか!」


 気づけば、斉藤は顔を離していた。


「ごめん。考え事をしていて」


「まあ。いいですけど。それじゃあ次の場所に行きましょうか」


 弘志はうなずいた。そして、後ろで手を組んで先を歩く斉藤についていった。

 



 駅に戻る途中で見つけた喫茶店で軽く食事を取り、弘志たちは箱根神社にきた。


 箱根は一帯がパワースポットであり、その中心をなしてるのが箱根神社である。


 芦ノ湖のほとりで平和の鳥居を撮影して、本殿に続く階段を上っている途中だった。


「これが第四鳥居ですね」


「そうだね。ここからは階段が急だから気をつけないとね」


「弘志先輩は箱根神社にどんなご利益があるか知ってますか?」


「開運厄除けとかって聞くけど、詳しくは知らないなあ」


「それなら私が教えてあげます。しっかり下調べは十分なんで」


 斉藤は眼鏡をかけてないが、眼鏡をあげるジェスチャーをする。


 斉藤は変わったけど、書類整理などの仕事に一切手を抜かないところや、こういう下調べなどをするところの真面目さはまったく変わらない。


「まず、今向かっている本殿には、天地が豊かに賑わう神である『瓊瓊杵命』が祀られています。そして、その妻である『木花咲耶姫』、その子供の『彦火火出見命』を含めた3神を総じて箱根大神と言うんです。そして開運厄除け以外にも商売繁盛、交通安全にも御利益があるんです。他にもあって……」


 階段を上ってる間、ずっと斉藤の解説が続いた。公式ホームページを全て覚えてきたのではと疑いたくなるように早口で大量の情報を垂れ流してくる。弘志はほとんど理解できなかったが、斉藤がとても調べてきて、今回の旅行を楽しみにしていたのは痛いほど伝わった。


「もう、着くぞ」


「あ、そうですね」


 斉藤の参拝の作法を教えて貰い、本殿の鐘の前まで進み、言われたとおりに参拝した。


 最近は何も困ってることがないので何を祈ろうか迷ったが、このままの生活が続きますようにとお願いした。


 目を開けると、隣の斉藤はまだ祈ってる途中だった。後ろに待ってる人も居たので、さきに鐘の前から離れた。斉藤もすぐに弘志の元に来た。


「何を願ってたんだ?」


「秘密ですよ。もうすぐ叶うはずなのでそのときに教えてあげます」


「え、叶うなら祈らなくても良くない?」


 弘志が言ったときには、斉藤はすでに移動していて弘志に背を向けていた。


「弘志先輩。こっち来てください」


 斉藤の前には9つの龍の口から水が出ていた。


「この水は龍神水って言うんですよ。これを飲むことで心身から不浄なものを清めてくれて、良いものを引き寄せてくれるんです。なのでこの水を飲めば、恋愛相手や素敵なパートナーを引き寄せてくれるかもしれないんです。まあ、先輩も私も必要ありませんけどね」


「え、僕は分かるけど、斉藤は彼氏とかいたっけ?」


「まだ居ないですけど、すぐにできる予定なので」


「そうなのか。その人とうまくいくと良いな」


 ふふ、と口を押さえながら斉藤は笑った。


「はい。でも一応飲んどきます? 不浄なものを清めてくれるので」


「そうだね」


 手水の作法も斉藤に教えて貰った。意外とこういうマナーは大人になっても覚えてないのだと、弘志は感じた。


 その後、斉藤がこの水は持ち帰ってもいいと教えてくれたので、開いてるペットボトルに水をくんだ。鼓芽に渡そうと思っている。


 鼓芽はこの水を飲んだところで彼女はできないだろうと思った。鼓芽は彼女ができないのではなく、彼女がいたら時間が奪われて面倒くさいという理由で作っていないだけだ。もし作ろうと思えば、元がかっこいいので身だしなみを整えるだけですぐにできるだろう。


 斉藤も水をくんでいた。


 その後は近くをぶらぶらと散策して宿に向かった。


 それぞれ部屋に荷物を置き、夕食の時間までは自由時間となった。今朝、鼓芽が来れないとわかり、鼓芽の部屋は予約を取り消してある。


 弘志は大浴場に足を運んだ。夕食の時間までのんびりと過ごし、斉藤の部屋に向かった。


 夕食は斉藤の部屋で食べることになっていた。弘志は自分の部屋にしようと言ったが、斉藤が先輩の部屋を使うのは後輩としてどうかと発言したことで、斉藤の部屋になった。弘志もどちらの部屋でもかわらないと思い、斉藤の言い分に素直に従った。


 ノックを数回するとドアが開いた。斉藤も着物に着替えていた。


 座敷にはすでに料理が準備されていた。


「それじゃあ、弘志先輩食べましょうか」


「そうだな」


 二人で「いただきます」と気持ち大きめな声を出して食べ始める。


 今日の観光について話したり、明日に買うお土産の話などしながら食べていった。お酒も飲んだ。


 食事を食べ終わったことをフロントに伝え、食器類を片付けて貰い、布団を端の方に敷いて貰った。


 その後、買っておいたお菓子とお酒を飲みながら話を続けた。


 二人の頬は赤くなり、少し酔っていた。


「そういえば斉藤とお酒飲むのは初めてか?」


「確かにそうですね」


 初めての出勤日は朝までではなく、夜までだったので、祝いで飲みに行こうと誘ったのだが、断られた。そのためいつも通り鼓芽と二人で行くことになった。


「あのころの斉藤は真面目すぎたもんな」


 弘志は家ではお酒を飲まない。千代子がお酒を飲めないため、一人だけ飲むのもどうかと思ったから。結婚して、警察官になってからは親戚が泊まりに来たときや鼓芽などの同僚と飲みに行くときしかお酒は飲まないようになった。


 さらに弘志はお酒があまり強くない。そのため今日も少量をちびちびと飲んでいる。これは今までの飲み会で学んだ飲み方だ。今日の相手は斉藤なので飲んでる振りをする必要はないが、本部のお偉いさんなどと飲むときはそうはいかない。


「そうですね。あのときの私は班のメンバーと会話する意味が無いと思ってました。そんな時間があったら周りをパトロールし、書類整理をした方がよい思ってたんです。でもコミュニケーション不足で失敗したりして、学んだんです」


 お菓子をひとつまみして口に入れる。近くの布巾で手を拭く。


「そんなことより、先輩は奥さんと最近どうなんですか?」


「うん? 最近は何もなく、仲良くやってるよ」


 弘志は自慢したい気持ちがあるが、妻とのことを話すのが恥ずかしくて声が小さくなる。


「それより最近は娘の千尋がな……」


 弘志はむずがゆくなり、缶チューハイを一口飲み、話を変えた。


 その後、斉藤はハイペースでお酒を飲んでいった。


「先輩は私のことどう思ってますか?」


 まだ口はしっかりと回っていた。斉藤は結構お酒が強いのかと思った。弘志は変わらず少しずつ飲んでいる。自分がどれだけ飲んだら理性がなくなるか理解している。


「僕はね、交番勤務での班のメンバーのことをもう一つの家族だと思ってるよ。斉藤は妹みたいな感じかな。鼓芽は双子の兄弟かな」


「妹ですか?」


「うん。最初の頃は取っつきにくくて思春期の娘みたいだったけど、最近は真面目は真面目だけど周りとも馴染めるようになって、僕たちとも対等な関係になったから妹みたいだなあって。まあこれは僕の考えだけどね」


「ふーん」


 斉藤はジト目で弘志を見つめた。


 その後も雑談を続けた。


 斉藤の頬は真っ赤になり、キリッと引き締まっていた目がトロン垂れ下がり、口も回らなくなってきた。さっきまで姿勢良く正座をしていたが、今では足を崩し、女の子座りになってる。


 弘志はそろそろヤバいなと思い、斉藤からお酒を取り上げて寝させようとした。


 しかし、「先輩ももっと飲みましょうよ。後輩の頼みが聞けないんですか?」「じゃあ、先輩がこれ飲んだら寝ます」などと言われ、弘志も自分の限界値以上の酒を飲み、酔っ払った。思考が鈍く、視界がかすんでいく。初めて自分の班にできた後輩からのお願いであることと、旅行で浮かれていたことでつい飲み過ぎてしまった。


 頭の中が真っ白で何も考えられない。自分は今何してるんだっけ?


「弘志先輩、昼間に聞きそびれたんですけど、今日の私どうですか?」


 隣から話しかけられた。自分の名前が呼ばれたのが分かった。


 弘志は声が聞こえた方に顔を向けるが、視界はぼやけて、目の前に誰かがいる程度しか分からない。


「うん?」


「弘志先輩は、私、斉藤知香のことどう思ってますか?」


 違う質問だったが、弘志には同じ質問をされたと思っていた。


 弘志の唇はとても重くなり、開くのが大変なので、口を開けることなくもごもごと話した。


「斉藤かあ。だから妹だって。いっちゃろう」


「私だって女なんですよ」


「おんな? いもうとだってぇ!」


「まだそう言うんですね」


 ぼやける視界に何かが迫ってくる。どんどんと薄いピンク色の何かが近づいてくる。


 見覚えがある。どこで見たのだろうか?


 そんなことをぼんやりと考えていると、口に柔らかい何かがぶつかる。


 甘い、しょっぱい味がしてさっきまで食べていたお菓子だと思い、口を開く。


 噛もうと上歯を下歯に降ろそうとすると、それを妨げるように何かが口の中に入ってくる。唇に触れているお菓子よりも柔らかく、うねうねと口の中を彷徨う。ゼリーが入ってきたのか?


 ゼリーなど買っていたっけと疑問が頭の中を支配する。


 その間も舌に絡みつくようにゼリーは入り込んでくる。しかし、一向にゼリーは食道に入り込んでくることはない。ずっと口の先で動いてるだけ。


 この不思議な感覚に脳が支配されていく。歯を降ろしたらこの感覚が終わってしまうと思い、何もせず受け入れる。


 しばらくそのままいると、ぼんやりと目に映っている真っ黒な丸が気になってくる。鼻に入ってくる甘い匂いが気になってくる。耳から聞こえる粘着音のようなものが気になってくる。肌にあたたるそよ風のようなものが気になってくる。


 でも全て口の中の幸福で打ち消されていく。


 口の中の何かが離れていく。今まであった温かさがなくなり、寂しくなる。もう一回欲しくなる。体を前に倒すと、唇にあの感触が戻ってくる。そして口の中の冷たさを取り消してくれるように温かい何かが入ってくる。


「弘志先輩、少し待ってね」


 意味が分からない言葉が聞こえ、体が勝手に動きを止める。なぜだか負の感情が生じる。でも今はそんなことどうでもいい。あの温かい感触を求める。手を前に出して何かを探すように動かすが、何にも触れられない。視界にも何も映っていない気がする。さっきまでいた何かが消えたと直感で分かった。


 だからといって何もできない。体は「待って」という理解できない言葉の指示に従っている。


 横から押される。


 弘志は布団に横になる。


 目の前は真っ暗になった。また横から押される。視界が開ける。


 弘志は仰向けになる。


 さっきまでぼやけて見えていたものが目の前に戻ってきたと分かる。


 また口に柔らかいものがくっつく。中にまで入ってくる。


 これだ! これを待っていた!


 口の中以外のものはどうでもいい。視界も、聴覚も、触覚も。さっきと変わらず、どうでもいいことだ。


 臭覚もどうでもいい。


 下半身が寒くなる。


 匂いもどうでもいい?


「弘志さん、わたしのことどう思ってます?」


 懐かしさを感じる。


 さっきまでの甘い匂いではない。高級感がある。


 感覚器官が再始動し始める。脳が働き始める。


「裏切っちゃいます?」


 スッと背筋に冷たいものが流れた。


 『裏切り』


 頭の中に響いた。


 視界が完全に開けた。脳も再起動のロードが終わり、通常運転に戻る。


 弘志は自分がどんな状況かすぐに理解した。理由は分からないが、今は理由なんてどうでもいいと分かった。


 弘志が着ていた着物ははだけ、下半身が露わになり、至近距離には顔を真っ赤にした斉藤が覆い被さるようにしていた。


 すぐに斉藤を横にずらした。その瞬間に斉藤は充電が切れたように、布団の上に落ち、動かなくなった。


「大丈夫か、斉藤!」


 斉藤の呼吸は安定していた。弘志はそれを確認して、着物を着直し、斉藤の近くに水の入ったペットボトルを置き、部屋を出た。


 部屋の外は電気がうっすらと灯っていた。窓の外は真っ暗闇だ。今が昼間ではなく、夜中だと分かる。とても静かで自分一人だけが廊下に立っている。


 隣の自分の部屋に入った。


 弘志は右手の人差し指を唇に当てる。


 湿っていて、温かい。口の中にも自分のものではない何かが残っている。


 気持ち悪いわけではない。でも無くしたい。この温かさを取り除きたい。


 弘志は洗面台で口をゆすいだ。


 弘志は洗面台に設置されている鏡を見る。自分の顔が映っている。


 唇には何もついていない。顔にも何もついていない。


 口の中も清潔になったはず。


 でも今まで見てきた顔と違う。何かが違う。


 何度も水を口に含んでは捨てた。


 それでも元通りに戻ることはなかった。冷えた口の中には温かい感触が残っていた。


 現実逃避するように布団をかぶる。目をつむる。鼻をつまむ。今感じたものが全て夢だったと思えるように。


 結局、弘志は一睡もすることができなかった。現実を夢だと思うことすらできなかった。


 結婚してから変わることがなかった弘志は、少しだけ変化を遂げた。

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