8月14日(水) 当直終わり
お盆期間で交通事故が何件か起こり、以外と忙しかったが、無事に当直を終えることができた。
昼前に帰り、朝食をとり、3時頃まで仮眠をとった。
弘志はお墓に向かって歩いていた。
千代子と千尋はすでに墓参りに行っていたので、一人で向かっていた。お墓までは歩くと40分ほどかかる距離だが、最近鍛錬の時間が減っていたので運動がてら走って向かった。
お墓につき、呼吸を整えた。お墓が並んでいるエリアの入り口にある蛇口で桶に水をくみ、柳岡家のお墓に歩いてく。地面の砂利は濡れていた。弘志が寝てる間に雨が降っていたらしく、お盆期間だというのに、ほとんど人はいなかった。
だが、一人の男に目が留まった。普通だったら知り合いでもない限りお墓参りしている人に目が留まることはないが、その男は手を合わせ、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」とお経を周りに聞こえる声量で唱えていた。男は周りの砂利よりも一段上がったお墓の上でしゃがみ、目の前にある『墨田家』と掘られていた棹石の方に体を向けていた。
珍しい名字なので、弘志はもしかしてと思い、男をじっくりと見た。
チリチリな髪が目のあたりまで伸び、顎のひげは整えられていない。フード付きのねずみ色の半袖パーカーに黒のチノパン、バンドが赤の黒のサンダル。鼻のあたりに皺が寄るほど目を強く閉じ、手と手がくっついて離れなくなるのではというほど強く手を合わせていた。体型は痩せ型で、顔の肌の感じから20代前半であろうと思われた。
弘志は初めから近所の墨田光都だと思っていたため、大学生にしか見えなくなっていた。熱心にお祈りしてるのを邪魔するのも悪いと考え、自分の墓に行き、お線香を上げ、家族全員が無事に過ごせますようにと見守っていてくださいと祈り、コップの水を入れ替えた。
弘志が桶を返しに戻ろうとした。男は全く動くことなくお経を唱えていた。暑さからなのか分からないが、額から大量の汗を流していた。弘志は先ほどまで何かをお願いしていたのかと思っていたが、そんなものではないと感じた。何か異常なことが墨田に起こったのではと。
「あの、だいじょうぶですか?」
もしかしたらまったく知らない人かもしれないと思い、控えめな声で話しかけた。
男は聞こえていないのか、お経を止めることも目を開くこともない。
近くで見ると唇は乾燥し、背中まで汗でびっしょりだった。長い間、ここで祈っていたのがわかった。
「あの、だいじょうぶですか?」
弘志は初めよりも大きな声を出した。このままでは熱中症や脱水症になってしまうと心配した。
「ひぃ!」
男は声のした方から逃げようとして失敗したのか、弘志とは逆の方へ尻餅をついた。男の顔は真っ青になり、足が震えていた。
「だいじょうぶですか!」
今度は怪我をしていないか心配して、早口で言った。
男は目を見開き、弘志の方を見て、ふぅーと長い息を吐いた。落ち着きをとり戻した男は立ちあがり、お尻について砂利を払い落として、お墓から降りて弘志に向き合った。
「なにか用ですか?」
インターホンで聞いたときのとげとげしい声よりは、幾分かとげが落ちた声だったが、思春期男子のようなぶっきらぼうな話し方は変わらない。顔色もだんだんと赤みがかって平常に戻っていく。
「顔色が悪かったし、必死にお経を唱えてるから何かあったのかと思って」
「気にしなくていいです」
「でも……何かあったら言ってね。おじさんこう見えて警察官だから何かの役に立てるかもしれないから」
「はあ、わかりました。あとはいいですか?」
すぐにこの場を立ち去りたいというニュアンスがこもっている。
「あと、墨田光都くんだよね?」
「なんで知って!?」
光都からすると、目の前の男が警官だと名乗り、教えてないはずの名前を呼ぶのは恐怖以外の何物でもないと言った様子で、一歩後ずさった。
弘志は墨田の様子から自分の言動が良くなかったと気づいた。
「ああ、ごめんごめん。警察官にいきなり名前呼ばれたらそうだよね。近所の平田さんに教えて貰っただけだから。あと墨田さんには一度も会ったことなかったから、確認のために聞いただけだから」
「ああ、そうですか。それじゃあ、これで」
墨田は小走りで止まってる車の方にいった。
弘志は墨田が何に恐れているのか疑問に思ったが、考えても答えは得られないと思い、来た道を引き返し始めた。
家への帰り道の途中のコンビニを通り過ぎるときに、コンビニからちょうど佐藤さんが出てきた。
「お、柳岡さん」
挨拶回りをしてから、何度か顔を合わせている。佐藤忠文は休日はだいたい妻と昼からお酒を飲みながら映画などを見て、家でゆっくりしているらしい。そのため今日の服装も半袖半ズボンの部屋着で、顔にはひげが残り、頬はほんのり赤い。手には大量のお酒の缶が入ったコンビニ袋を持っている。
「どうも、佐藤さん」
昨日、鼓芽から佐藤さんの両親の自殺の話を聞いたばかりなので、少し身構えた。
「どうかしましたか?」
顔に出やすい弘志は、警戒心が顔にまで出ていたらしい。
「何でも無いです。……いや、実は佐藤さんの両親のことを聞いてしまって……」
弘志の声は尻すぼみになっていく。
弘志は嘘をつくのが苦手だ。それは顔に出やすいからというのもあるが、本人が嘘をついたり、隠し事をするのが悪いことだと思っているため、正直に話してしまうからだ。結婚前に妻に千代子の姉のことを話したのも同じ理由だ。弘志は正義感が強くもあるが、それ以上に悪いことを悪だと見なし、悪いことをすることに嫌悪感を強く感じている。だから悪いことはしない。
佐藤は態度を変えることなく、あっけらかんに話す。
「ああ、そうなんですか。てっきり初めから知ってるんだと思ってましたよ」
「あの事件の対処に僕は関わってなかったので最近まで知らなかったんですよ。昨日同僚の方から聞いたんです」
「もういいんですよ。確かに両親が亡くなったのは悲しいですけど、悲しんでもしょうがないですからね」
佐藤は前を向く。
「えっと、奥さんの具合とかは……」
「妻はまだ心が弱っていまして。でも少しずつ元気にはなっているので心配しなくて大丈夫ですよ。もう少し経ったら挨拶にもいけると思うので」
「そうですか」
弘志はこれ以上掘り返すことでもないと思った。
「柳岡さんと佐藤さんじゃねえか。二人でどうした?」
弘志たちが住む住宅街に近づくと、いつも通り笑顔の平田昌二が庭から声をかけてきた。
二人は平田家の前で立ち止まった。昌二の手には小さなスコップが握られていて、足下の土が掘り返されていた。周りには花が植えられていたので花壇の整備を行っていたのだと分かった。
「ちょうどコンビニの前で会いまして」
「佐藤さん家は今日も夫婦仲良くお酒か?」
「まあ。そうですね。平田さんも久しぶりに一緒に飲みますか?」
佐藤の声は少しだけ小さくなった。眉の端が下がり、微妙そうな表情をしていた。
あまり妻との時間を邪魔されたくないタイプなのかもしれないと思った。
「そうだな。一応妻にも聞いてみるだ。柳岡さんもどうだ?」
「僕は大丈夫です。明日の朝早くから同僚と旅行でして」
「そうかあ。じゃあまた今度だな」
無言になった。気まずくなったので、弘志はさっきの墨田さん様子を話した。
「……それで墨田さんって何かに恐れてたりしますか?」
「いやー、儂はわからんけど。佐藤さんはどうだ?」
「分かんないですね。でも、あの家の墨田さんがお墓でお経を唱えてたんですよね」
佐藤は弘志が言ったことを確認するように繰り返した。
佐藤は墨田家の方向を見ていた。
「はい。名前を聞いたので間違いないと思いますけど」
昌二と佐藤は目を合わせ、何かを確認するようにした。
「なにかあるんですか?」
「いや、特に何もねえと思うだ。今度会ったら、儂が聞いといてみますわあ。光都くんとは何度か話してるんで」
そこで3人は別れた。
去り際の佐藤が心臓に手を当てて溜め息をついていたのが気になったが、昌二との晩酌がそこまで嫌なのだろうか。それとも墨田さんについて何か知っているのだろうか。弘志は疑問に思ったが、玄関に入る前にはそのことを頭の隅に追いやった。今は警察官でもないので家族との時間を大切にする。
家に入ると千代子が出迎えてくれた。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま。千尋はまだ?」
「もう帰ってきて、部屋に居るわよ」
妻との関係は戻ったが、斉藤に引き続き、千尋の様子も変わった。しかし、斉藤とは違い、千尋が変わった理由は分かっている。それなのに困ってはいる。
千尋は1ヶ月前近くから部屋にこもりがちになった。食事と幼稚園と露光家に遊びに行くとき以外は自分の部屋にいる。その理由は弘志が旅行から帰って来る2日後の妻の誕生日である。千尋は部屋で妻への誕生日プレゼントを作っている。千尋の部屋の掃除をしたときに、机の上に大量の折り紙と鶴が置かれていた。たぶん千羽鶴を妻にプレゼントしようとしてるのだろう。それもサプライズで。もしかしたら、箸の練習を止めたときから作り始めたのかもしれない。
もちろん妻も千尋の部屋に入ることがあるので気づいてはいるが、弘志と千代子は気づいていないふりをしている。そのため千尋もバレてないと思っている。千尋も弘志同様顔に出やすいタイプなので食事の時も弘志たちと顔を合わせないようにしている。会話も最小限で「はい」「いいえ」などの返事しかしない。顔はずっとうつむいてるが、笑ってるのがバレバレである。これに関しても気づいてないふりをしている。
娘が妻にサプライズでプレゼントを渡すのは見ていて微笑ましいし、親としては見守りたいのだが、それまで千尋と会話ができないのは辛いという板挟み状態になっていた。
これもあと2日で終わるし、明日からは旅行なので我慢できると弘志は思った。
「あれ、今日もその香水をつけているのかい?」
「ええ。せっかく貰ったんですし使わないと失礼でしょ」
「そうだね」
これも変化といえばそうかもしれない。妻はお洒落とかにあまり興味が無い。どちらかというと機能性重視だ。最近は斉藤から貰った香水をつけてることが多い。特に桃の匂いの香水が気に入ってるようだ。甘い匂いと言うよりは、桃のお酒っぽい匂いで大人らしい。
妻が新居祝いを喜んでると、斉藤に伝えたら喜んでいた。
明日からの旅行の荷物の最終確認をし、夕食を食べ、寝た。一応、佐藤家の事件のことを妻に話し、佐藤さんについて聞いてみた。千代子は何度か電車で一緒になったときに話したことがあるらしい。
妻によると、佐藤忠文は平日の出勤日はいつも同じ時間の電車に乗っていて、帰りも同じ電車に乗ってる。休日はお酒を買いに行く以外は外に出ない。同じような1週間を繰り返している。
ほとんど弘志が持っている情報を同じだった。
妻の印象としても怪しいところはないそうだ。だが、いつも電車では同じ席に座っていたりと、少しだけ機械っぽい気がするらしい。
この日も千尋とはほとんど話すことができなかった。
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