8月13日(火) 当直
弘志は今日も鼓芽とパトカーに乗り、パトロールしていた。
「テル、何か妻に言ったのか?」
最近、当直のたびにしている質問を今日も投げかける。
鼓芽たちが新居祝いを渡しに来てから、妻との関係が徐々に戻った。特に何かがあったわけではないので、鼓芽と妻が二人で会話してるときに何かあったのではと思った。
「だから、何もやってねえよ」
頬杖をつき外を眺めている鼓芽からは同じ回答が返ってくる。
弘志もムキになってまで聞こうとはしない。言葉通り、鼓芽は本当に何もやってない可能性がある。時間が解決することもあるということは30年以上も生きていれば知っていて当然だ。それに今回は二人とも元の仲が良い状態に戻ろうとしていたのだから。
これからは『いじめ』『裏切り』の話題を出さないように努めるが、気が抜けたりする可能性があるということは今回の件で分かったため、心の距離が離れてしまったときの対処法があるのなら知りたいと思い、毎回聞いてしまう。
いつもならここで会話が終わっているのに、鼓芽は話を続けた。
「奥さんと仲直りできたんだろ」
「うん。仲直りって、喧嘩してたわけではないんだけどね」
自分がべらべらと話す内容ではないため、親友の鼓芽にも妻の姉のことは話していない。千代子が『いじめ』や『裏切り』が嫌いだということだけ伝えている。そのため今回の妻とのことも詳細は話していないが、弘志は顔に出やすいので、長年一緒に居る鼓芽は弘志が妻と何かあったことには気づいていた。弘志も鼓芽にバレていることくらいは分かっている。
「一応伝えておくんだけどよ」
「やっぱり何かしたの?」
「いや、してねえって。今回はしつこいな」
「ごめん」
鼓芽は少し声を荒げた。本気で怒っていないと分かったが、素直に謝った。
「前に弘志の新居見に行った時に、ここらへん見たことあるなあ、って言ったの覚えてるか」
いつもより真剣な雰囲気だと感じ取り、シートベルトをしたまま姿勢を正し、ハンドルを握り直す。
「うん」
「弘志の家の隣の家って佐藤さんだろ」
挨拶回りに行ったときのことを思い出した。休日の昼間からお酒を夫婦で飲んでいた家だ。奥さんは実際には見てないから正しいかは分からないが。
弘志が思い出したのを確認して、鼓芽は続ける。
「そこの60代のおじいちゃん、おばあちゃんが二人で自殺したんだよ。今からだとちょうど2ヶ月前くらいか。俺たちじゃなくて武田さんの班が対応した事件なんだがよ」
今から2ヶ月前だとすると、挨拶に行ったときからだと1ヶ月前かと頭の中で計算する。
弘志たちが住んでいる県での自殺者数は一年間で400人近く居る。県の人口の割合でいうと、都道府県でも上位である。学生などの自殺がニュースでよく取り上げられるが、自殺するのは老人の方が多い。
そのため年に一回くらいは自分たちが担当の管轄エリア内でも自殺が起きることはあり得るし、それも老人の自殺ならまったく不思議なことはない。確かに自分が住んでいる家の近くで自殺が起きることは珍しいが、そこまで深刻なことだとは思えない。
だから、まだ何かあるのだろうと思い、黙って鼓芽が続きを話すのを待つ。
しかし、鼓芽はなかなか話し出さない。窓の外に顔を向ける。
フロントガラスに水滴が落ちる。
一粒、二粒と。そこから一気に大雨になった。ワイパーを起動させる。
真上の空が暗くなり、車内には雨音だけが響く。遠くの空は明るいままなのですぐに止むだろう。
しかし、話の内容も内容だけに、何だか不気味だと感じた。
ふと佐藤さんの笑顔が浮かんだ。あのときは佐藤さんの両親が死んで1ヶ月しか経ってなかったのに、あんなに休日を楽しんでいたのか? もしかして自殺ではなくて他殺なのか?
赤信号で止まる。横断歩道は誰も通っていない。
「もしかして、自殺じゃないのか!」
さっきまで気にしてなかったエアコンの風が妙に冷たく感じる。
「いや、ちげえよ」
鼓芽はいつもの調子に戻った。弘志は最悪のケースではないとホッとした。
雨はすぐにやんだ。やっぱり天気雨だった。
「ここまで話しといてなんだけどよ、わざわざ弘志に話す必要あるのかと思ってよ」
「おい! もうここまで話したなら教えてくれよ」
漫才のようなツッコミをする。
車内の空気は元に戻る。
「まあそうだよな。その自殺した老人がちょうど一年前に生命保険に加入していたんだよ。だいたいの保険会社は自殺による死亡の場合は、保険加入から1年くらいは経たないとお金を支払わないようになってるんだ。それは保険が自殺を推奨するものになってはいけないとか、なんとか理由があるらしい。まあ、それはどうでも良くて、保険金が支払われるちょうど1年後に自殺したってのが問題なんだよ」
いつもの適当な感じで話す。
「結局支払われたの?」
「支払われた。本部は一応殺人の疑いをかけて調査をしたが、死体からは自殺で見られる痕跡しかなかったし、近所の人達も佐藤家の仲が悪かったという内容を言う人はいなかった。むしろ仲が良かったという人もいたからな」
「それの何か問題があるの?」
「いや、それが、武田さんの話によると、事件直後の事情聴取のとき佐藤忠文の顔が、引きつってはいたものの笑顔だったらしんだよ。普通は仲が良かったなら悲しんで泣いたりするだろう。奥さんの方は悲しみすぎて、情緒不安定のように心が壊れていたらしいが。まあ、たまあに死んだことを受け入れられなくて笑っていたりすることもあるけど、武田さんにはそうは見えなかったんだってよ。何かに怯えているような、何かを隠しているような、不気味な笑みだったらしい」
弘志は佐藤忠文の笑みを思い出すが、不気味な笑みではなかったと思う。ほどよく酔っ払って気持ち良くなっている普通の人だった。それに最近も出勤する佐藤さんとは会っているが、スーツを着こなしていて出来る会社員といった感じだった。
化粧とかの問題だと思っていたが、佐藤さんの奥さんはもしかしたら、まだ心が弱っているから挨拶に顔を出さなかったのかもしれない。未だに佐藤さんの奥さんとは会っていない。佐藤さんからも奥さんの事情は詳しくは聞いていなかった。
「いきなり両親が自殺して、呪われているとか思ったのかもしれないだろう?」
「まあそうかもしれないけど、武田さん以外にも不気味に感じた人がいてなあ。それが問題になって、本部が佐藤さんのことを監視ってほどではないが、注意を払ってるんだってよ。でも保険金で大量にお金を手に入れたのに、仕事も辞めることなく、真面目に通勤してるし、それに他の変化もないらしい」
「そうなんだ」
「でも一応警戒した方が良いんじゃないかと思ってな。本当は1ヶ月前くらいから知ってたんだけど、お前が妻となんかあったせいで言えなかったんだけよ」
鼓芽は運転してる弘志の肩を軽く叩いた。
「ありがとう、テル」
「別にいいって」
鼓芽はまた頬杖をつき窓の外を見始めた。弘志の視線から逃れたいようだった。
パトロールを終え、昼食の時間になった。
交番に戻ってきた二人の元に斉藤は席を立ち上がり近づいた。
「弘志先輩、おかえりなさい! あと鼓芽さんも」
妻との関係は元に戻ったが、次は斉藤の様子が変わった。たぶん新居祝いを渡しに来たときからだと思う。まず、弘志の呼び方が「柳岡先輩」から「弘志先輩」に変わった。これは妻との呼び方を分けるためだと思う。
そして距離感が近くなった気がする。今までは、パトロールから帰ってきても、書類整理に集中していたのに、今では交番に車を止めた段階で席から立ち上がっている。
鼓芽に何で斉藤が変わったか聞いたが、特に変わってないと言われた。弘志の目には変わってるように映っていたが、他の人には変わっていないのかなどと呟いたら、鼓芽は溜め息をついていた。何か呆れられているようで少しウザかった。
昼食の時も毎回隣の空いてる席に座ってくる。そして、いつも弁当のおかずを分けてくれる。なぜか最近もおかずを空中で彷徨わせてから弁当の蓋に載っけてくる。一番初めの時は置き場所を悩んでいたのだと想像できたが、今はなんでそんなことをするのか分からない。
「ついに2日後旅行ですね」
斉藤は弁当を食べている弘志の顔を見ながら、明るい声で言う。
2週間前に本部から連絡が来た。
警察官にも社員旅行のようなものがある。警察官の全員が一度に旅行に行けるはずもなく、居残り組が生まれる。弘志たちの班は居残り組ではない予定だったが、その居残り組の調整が不十分だったのか、急に居残り組の方に割り当てられた。その代わりに2日間の休日が渡された。
そして斉藤の提案で班のメンバーで旅行に行こうという話になった。急な決定だったが、妻からの承諾も得て行くことになった。鼓芽は渋々だったが、予定がないのだから行こうと誘ったら了承してくれた。
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