7月18日(木) 当直

 午前中のパトロールを終え、交番で昼食をとっていた。


 今日も外は猛暑で、交番内はエアコンが効いている。正面の机には毎度おなじみの書類タワーが建設されている。


 今日の斉藤は机の上の書類をファイルにしまい、カバンにしまっている。

 弘志はお弁当のご飯を口に入れかみ続ける。口の中の米がなくなっても口を動かし続ける。しばらく口の運動をして、再び白米を口の中に入れる。これを10分近く続けていた。


「鼓芽さん。柳岡先輩どうしたんですか?」


 弘志の前にいる斉藤は隣の席の鼓芽に小声で話しかける。かなり近い距離なので弘志にも聞こえていたが、右耳から入って左耳から抜けてる状態で、目線は空中を彷徨っている。


「うん? 奥さんと何かあったんだろ」


 今日もコンビニのおにぎりを食べてる鼓芽が斉藤を見ることなく答える。


「そのなにかって何ですか? 鼓芽さんは知ってるんですか?」


「なんで。お前が気になるんだよ」


「え、なんでって言われますと……」


 斉藤は右手を顎に当て、視線を上に向け考え込むようにする。本当に自分の思考の理由が分からないようだ。


 鼓芽は呆れを含んだ溜め息をつく。


「なんですか! 私のことバカにしてませんか」


「してねえよ。それより早く食べねえと昼休み終わるぞ」


「言われなくても分かってます」


 斉藤は自作の弁当をカバンから出して、食べ始めた。


 弘志は前の机で言い合う二人に意識を向けることなく、千代子のことを考えていた。先週の日曜日にいじめの話題を出してから、まだ関係を戻せていない。千代子も怒ってるわけではない。むしろ怒ってくれていれば、自分が悪かったことを認めて謝罪すれば仲直りできる。


 今回の件は、異常なほど『いじめ』『裏切り』を憎んでいる千代子の事情を知っている弘志が『いじめ』の話題を出し、裏切ったような形になったのが問題だった。周りから見たらでと思うかもしれないが、それほどまでに千代子は『いじめ』『裏切り』に対する憎悪が凄まじい。


 今の千代子は家族以外の人に接するときと同じく弘志とも一枚の壁を設けて接している感じだ。大学時代の連絡を取り始めたときのことを思いだす。


 弘志は千代子にふられて、情けとして連絡先を交換して貰った。その後、なんとか遊ぶ約束までこぎつけた。


 初めてのデートのようなものは周りから見たらとてもうまくいってるようだった。千代子は授業での班活動の時のように気さくに話しかけてくれるし、ずっと微笑んでいる。楽しそうなデートだ。しかし、弘志はその笑みが心からのものではないと分かっていた。


 千代子は自身をプレイヤーに見立てて、相手を不快にさせないように気をつけてプレーしている感じだった。だから自分の事を好きな男子でも、授業で偶然班が同じになった人相手でも態度を変える必要はない。


 弘志にとっては好きな人の笑顔が近くで見られ、同じ時間を共有できて嬉しい気持ちはあったが、満足はできないデートで終わった。好きな相手を楽しませられなかったのだから当然だ。


 今の千代子とあの時の千代子の姿が重なる。


 でも全く同じというわけではない。今の千代子は自分と元の状態に戻ろうとしてくれている。昨日も夕食の時積極的に話しかけてくれた。


 きっと千代子も僕と同じ気持ちなんだろうけど、心の奥に眠っている姉の記憶がチラチラと顕われてしまうのだろう。結局は弘志自身の軽はずみな発言が原因なのだから、自分がなんとかしなくてはと思っている。


 前回の当直から千代子との関係修復のことばかり考えてるため、弘志は仕事に身が入っていない。大きな事件が起きていないため支障はきたしてはいないが、このままでは良くないのは明らか。


 昼食を食べ終え、カバンから資料を出し、書類整理を始める準備をする。


「先輩。暇な日ってあったりします?」


 弁当を袋にしまい終えた斉藤は弘志の方を向いて話し始める。


 まだ1時になっていないので一応休憩時間とされている。交番勤務の警察官は本部から事件の連絡が入ると、仮眠中でも休憩中でも出動しなければならないため、休憩時間などは設定されてはいるものの完全な休憩時間ではない。治安が悪いところだと毎回仮眠をとることができないらしい。


「え?」


 妻とどう仲直りするか考えていた弘志はすっとんきょうな声で応じた。斉藤は鼓芽のことを先輩と呼ばないため、先輩と呼ばれるのは弘志だけである。そのため体が勝手に反応した。


 目の焦点を斉藤にあわせると、斉藤は机に両手をつき身を乗り出すような体勢だった。


「えっと、何の話だったけ?」


「先輩の暇な日を教えて欲しいです」


「なんで?」


 弘志の頭はまったく働いていなかった。


「えっと、なんでというわけではないんですが、新居に行ってみたいと思いまして」


「ああ」


 まったく理解してないような相づちをうつ。


 鼓芽は溜め息をつきながら、困惑している弘志に話す。


「新居祝いだよ、弘志。前に言ってたヤツ」


「ああ。それね」


 やっと斉藤が何を言いたかったか理解できた。それってサプライズじゃなかったっけ?


 弘志の思考が千代子から交番に戻ってきた。


「なんで言うんですか、鼓芽さん。というか前っていうことはすでに言ってたんですか! せっかく今まで隠してきたのに」


「別にいいだろ」


 鼓芽はゴミの入ったコンビニ袋を絞めながら、興味なさそうに言う。


 弘志はホッとした。鼓芽に新居祝いのことを聞いていたため、顔に出る自分では驚いたリアクションをとれないと思っていたから。


「えっと、明日とかなら大丈夫だけど。それか明後日の土曜日もたぶん大丈夫。妻も居るけど」


「じゃあ明後日行っても大丈夫ですか?」


「いいよ。鼓芽も来るんだよね?」


「まあ、暇だしな」


「それじゃあ、お昼過ぎにうかがいますね、先輩」


「うん」


 その後は一度千代子のことを考えるのを止めて、真面目に仕事に取り組んだ。


 当直を終え、金曜日の昼前に家に帰った。家には誰も居ない。千尋は幼稚園で、千代子は中学校に働きに行っている。


 仮眠を取り、終わっていない荷ほどきを少しやり、4時頃に幼稚園に千尋の迎えに行った。当直の日以外の幼稚園の迎えは弘志の担当になっていた。


 幼稚園は新居からは歩いて15分くらいのところにあるため、迎えは歩いて行っている。


 暑い中、千尋と住宅街を横断するように家に向かう。


 弘志たちの家がある区画が見えた。露光家が目に留まった。


 挨拶回りの日に、玄関に引っ越してきた旨を書いた手紙と和菓子が入った紙袋を置いた。次の日の夜中に「お返しです。こちらこそよろしくお願いします」という内容が書かれた手紙と蕎麦が入った袋が玄関にかけられていた。


 千代子との会話のネタになりありがたいと感じた。妻との会話で、露光さん家の両親は仕事などで忙しくて、夜中か早朝にしか空いてる時間がないのだろうと結論に至った。


 ふとインターホンから聞こえたか細い子供の声を思い出した。妻との会話では気にしていなかったが、いつも子供一人でお留守番をしてるのだろうかという疑問が浮かんだ。声の感じからすると千尋と同じくらいの年代だと思う。年齢的にはお留守番をさせることが可能かもしれないが、千尋にはまだ一人で留守番をさせたことがない。これは弘志が警察で物騒なことに日頃から触れていて、警戒心が強いことも影響している。


 人の家に意見するのは烏滸がましいと思いつつも、家に居るときは気にとめておこうと弘志は思った。


 そんなことを考えながら露光家の隣を通り過ぎようとした。そのとき千尋に腕をつかまれた。


「パパ、お人形さんみたいな子いる!」


 千尋は露光家の玄関の方を指していた。さっきまでつまらなそうに歩いていたのに、突然元気になった。


 玄関からは千尋くらいの身長の女の子がちょうど出てきたところだった。弘志は二度見した。その少女の服装は真っ黒の膝上までのドレスに膝まである長い黒い靴下。手には真っ黒の肩あたりまである長い手袋。頭はショートカットで黒いカチューシャをつけている。世間ではゴスロリ衣装と呼ばれるもの。


 千尋が言ったとおり、着せ替え人形みたいな格好をしていた。


 弘志は驚いた。服装は可愛いものが好きな小さな女の子なら着ていてもおかしくなかった。だが、インターホンで聞いた気弱そうなイメージとはまったく合っていなかった。


「パパ!」


 視線を隣に移すと、千尋はまだ腕を引っ張っていた。


「ああ、どうしたの?」


「あの子と話してきてもいい?」


 千尋は今にでも走り出していきそうだった。


「うん、いいよ」


 スタートと言われた千尋は一直線に少女の元に走って行った。その後を弘志も追った。


「こんにちは! 私はちひろっていうの。あなたの名前は?」


「おはようでありんす。妾はりさでありんす」


 理沙は堂々と声を張った。


 弘志は理沙の声を聞いて、インターホンに出た子とは違うのだと分かった。他に姉妹がいる可能性を考えられなかったとは、やっぱり妻とのことで思考が鈍ってるなあと感じた。


「僕たちはそこの家に引っ越してきたんだ。パパ、ママから聞いてる? それとも姉妹から聞いてる?」


「……妹のりんから聞いてるでありんす。それで妾になにか用でありんすか?」


 少しの沈黙を経て、再び堂々と声を張る。


 それにしてもすごい話し方だな。これがコスプレというやつなのだろうか。


 弘志はアニメなどを全く知らないため、コスプレと仮装の違いなど知らない。警察官としてはハロウィンの仮装は迷惑ごとでしかないと思っている。


「パパ、りさちゃんと遊んでも良い?」


「うーん……りさちゃんはどうかな?」


「良いでありんすよ。少しくらいなら子供の面倒を見てあげるであり、」


「じゃあ、来て」


 理沙が言い終わる前に、千尋は理沙の手を引っ張って家の方に向かった。


「千尋。待って!」


 千尋が止まった。


「りさちゃん。家はそのままで大丈夫なの? 親御さんは家にいるかな?」


「そうでありんすね。両親はいないでありんすから、妾の家で遊んだ方が良いであり、」


「じゃあ、行こう」


 また言い切る前に千尋が手を引っ張る。


「千尋、暗くなる前には帰って来るんだよ。あと迷惑かけないでね」


「はーい」


 待ってなどと叫ぶ理沙を強引に千尋は引っ張って露光家に入っていった。


 太陽は沈みかけてるので、一時間以内には帰って来るだろうと思い、弘志は帰った。ほとんど隣に位置してることと、理沙がしっかりしてそうだったので心配は無かった。理沙に迷惑がかかることは心配した。


 家に帰り、千代子が帰ってくる前にお風呂を洗い、夜ご飯を作った。


 6時頃千尋が帰ってき、7時過ぎに千代子が帰ってきて、全員が食卓についた。


「千尋、どうだった?」


「どこか行ってきたの?」


「うん。りさちゃん家でりさちゃんと遊んだの」


 千尋は帰ってきてからずっと笑顔だ。顔を見るだけでとても楽しかったというのが伝わってくる。


 千代子は弘志の方を見て聞いた。目が合ってるのに、合っていない。瞳に自分が映ってるのに、映っていない。違う次元に妻が居るようだ。


 まだ元通りになれてないのが分かる。


「そうなのね。りさちゃんって?」


「露光さん家の娘さん。前にインターホンに出た子じゃなくて違う子だったよ。姉妹なんだろうね」


「わたし、お風呂入ってくるの」


 千尋はご飯をすぐに食べ、食器を運んで、お風呂に向かった。


「あんなに楽しそうだったから、もっと何があったか話すと思ったんだけどね」


「そうよねえ、何かあったのかしら?」


「まあ、大丈夫でしょ。それでりさちゃんって子がね……」


 そのあと理沙の服装などについて話した。


 千尋がお風呂から上がってきたタイミングで食事を終え、千代子がお風呂に向かった。弘志は食器洗いをした。台所の流しにはスプーンとフォークが入っていた。


 千尋は箸の練習をしてないことをバレないために食事をすぐに済ませたのだなと、弘志は内心で可愛いなと笑った。台所からリビングを覗くが、千尋はいない。もう自分の部屋に戻っている。

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