7月13日(土)14日(日) ②
柳岡家の裏にある露光家に到着する。
インターホンを鳴らすと小さな声が聞こえてきた。
「誰ですか?」
子供の声だとわかり、優しい口調で話す。
「近くに引っ越してきたんだけど、親さんとかはいるかな?」
「いない」
「じゃあお菓子だけ渡したいんだけど大丈夫かな?」
「知らない人が来ても開けるなって」
「わかったよ。じゃあお菓子は置いておくから、親さんに近くに引っ越してきた人からだって伝えてくれる?」
「うん」
インターホンの先で頷いたのがわかった。
「お母さん、ペンとかって持ってないよね?」
「えっと、持ってないわね」
妻はカバンをあさりながら答えた。
「じゃあ、後から事情を書いて置きに来ようか」
「そうね」
次の家の表札には『墨田』と書かれていた。
インターホンを鳴らすとピンポーンと玄関まで音が聞こえてきたが、何の応答もない。もう一度押すと、カチッと音がしてつながった。
「なんですか」
気怠げな声が聞こえてきた。
「反対側の家に引っ越してきた者なんですが、挨拶をと思いまして」
「それだけですか」
会話をすぐに終わりたいと言われたようだ。
「あと、お菓子も持ってきたんですけど」
「玄関に置いといてください」
カチッと音がして切られたのがわかった。
妻と一瞬顔を合わせ、紙袋を地面に置いて次の家に向かった。警察官をしていて、いろいろな人と話したり、時には暴力を受けることもあるため、何の苦痛もないが、妻や娘の前でこのような態度を取られると若干気まずい。
最後に右隣の平田家のチャイムを鳴らした。
「はーい」と声と共に玄関が開いた。
赤の派手なポロシャツを着た元気な50代後半のおばさんが出てきた。とても笑顔で若々しい。
「あら、もしかして柳岡さんじゃない?」
「はい……そうですが」
弘志の声は困惑を含み小さくなった。
「ほら、半年くらい前にお世話になったじゃない」
「ああ! もしかしてあの時の。平田
「そうそう。ちょっと待ってね。あなた!」
恵子は後ろを振り向き、大声で夫の
「あなたの知り合い?」
千尋にも聞こえない声で聞いてきた。
「仕事でちょっとね」
ここで話す内容でないと思いにごした。
平田昌二の母が半年前にトラックにひかれた事故があり、その事故の対応をしたのが弘志だった。完全にトラックの運転手に過失があり、かなりの賠償金が発生した。トラック会社は保険に入っていたが、それでもかなりのお金を平田家に支払った。事故直後だったというのに満面の笑みだったので印象に残っている。あまり悪くは言いたくはないが、あの時は気味が悪かった。もしかすると母の死を受け入れられていなかったのかもしれない。
しかし、今の笑みは親しみやすい田舎の祖父母のようだ。状況が違えばこんなに同じ顔でも印象が変わるのだと気づかされた。
「おお、柳岡さんじゃないか。お久しぶりだあ」
「お久しぶりです、昌二さん」
「それで今日はどうしたんだ? もうあのことではないだろ」
ゆっくりとした口調でのんびりと話す。昌二は弘志の服装が私服であることを確認する。
「そうだったわ。わたしったら事情もお聞かないではしゃいで恥ずかしい」
恥ずかしそうにすることなく、口元に手を当てて恵子さんが言う。
「じつは隣の家に引っ越してみまして。その挨拶をと思って」
「たまげた。そんな偶然もあるんだなあ」
50代後半よりも、もっと老人みたいな言葉チョイスをする。
「あと……これどうぞ」
紙袋を手渡す。
「そんなのいいのに。あ、一杯お茶でも飲んでけえ」
「でも……」
弘志は後ろの妻と娘を見た。千尋はもう疲れて、退屈そうに足下を見ていた。
「お父さん、私たちは先に帰ってるから、行ってきて良いわよ」
「奥さんもどうだあ?」
「私は夕飯の準備があるので。また今度お願いします」
妻は昔と変わらず、家族以外とは一定の距離を保とうとする。
千代子と千尋はお辞儀して、家の方に歩いて行った。
「それじゃあ、僕は少しだけ」
「おう。はいりはいり。ケイお茶準備しとくれ」
「はいよ」
田舎のおじいちゃんおばあちゃんの会話のようだ。昌二さんと恵子さんはどちらもまだ60歳にはなっていない。前の事件で弘志は二人の年齢を把握していた。
恵子は家の奥のキッチンに進んでいった。
弘志は昌二についていく。自分たちの新居と構造は似ていた。リビングのテーブルの上には木製の菓子入れが置いてある。
「こっちだあ。どこでもいいから座りい」
弘志は頷いて座った。そのタイミングで恵子がリビングにお盆を持って入ってきた。
「つめたいお茶でよかったかい? コーヒーもあるけど」
「お構いなく」
恵子と昌二は弘志と向かい合うような形で座った。
弘志は話し上手ではないので、何を話せば良いかわからなかった。とりあえずコップに注がれたお茶を飲んだ。お茶を飲みつつ二人の顔色を窺うと、出迎えたときと同じく満面の笑みだった。
「柳岡さんはここら辺の家全部に挨拶行ってるんかい」
昌二が口火を切った。
「一応、ここら辺の5件には挨拶に行きました。露光さんの家には子供しかいなかったので挨拶できませんでしたけど」
「そうかい」
昌二と恵子は一瞬目を合わせた。恵子さんは話を変える。
「墨田さん家も行ったの?」
「はい、行きましたけど……」
弘志はどこまで話して良いか悩んだ。あまり知らない人を悪く言うのには抵抗があった。
恵子は弘志の反応を見て、見透かしたようにハハと声をだして笑った。
「門前払いみたいなことされたでしょう。あそこの家、墨田
「は、はい。大学生で一軒家って珍しいですよね?」
「あの子の親はどこかの社長って言ってたわよ。それに自分でもネットで稼いでるらしいよ。私には難しくてわからないけど」
「投資とかなんとかってやつだあ。まあ儂もわからんのやけどなあ」
二人は声を出して笑う。
「僕も投資とか、ネットのことは全然わかんないですよ」
弘志も二人に会わせるように愛想笑いをする。それにしてもこの二人はずっと笑って楽しそうだなと思った。
「あと佐藤さん家も行ってきたんやろ。あそこの家は仲良し夫婦だし、明るくて話しやすかったやろ」
「そうですね。とても話しやすかったです。奥さんには会えませんでしたけど」
「和田さんのところは面白かったでしょ?」
話がころころと変わっていく。
「は、はあ」
弘志は曖昧な返事をした。その反応を見て、恵子はまた笑った。
「あそこの家も少し変わってるからねえ。でも良い人だってはわかったでしょう?」
「そうですね」
あの完全防御形態を思い出す。とても変わってる人だけど、優しいのだろうなあとは伝わってきた。外でもあの格好なら職質対象だなあ。
あれ……和田さんの奥さんの顔が思い出せない。会ってから1時間も経ってないのに。
弘志は瞳孔を上に移動させ、必死に記憶を辿ろうとするが、まったく思い出せない。佐藤や和田春樹のことは思い出せる。和田美希だけは、服装が変なことと胸が大きいことしか思い出せなかった。
「何かあったかあ?」
「何でも無いです」と首を振って否定する。そこから最近の政治はどうだとかいろいろ話した。終始平田夫妻は笑顔だった。まるで田舎に孫が遊びに来たときのおじいちゃん、おばあちゃんのようだった。
会話が途切れたのを見計らって、弘志は残りのお茶を飲み干した。
「それでは、僕はこの辺で」
「そうかい。また暇があったら遊びにきいや。儂は土日しか家にいいへんけどお」
「今度は奥さんと娘さんも連れておいで」
「はい」
弘志は立ち上がり、二人に見送られながら玄関を出た。
家に帰り、しばらくするとご飯の時間になった。
「露光さん家には手紙を入れてお菓子置いてきといたわ」
「ありがとう」
今日の夕飯のハンバーグを一口サイズに分け、口に入れる。いつもの味で美味しい。
「平田さんが言ってたけど、墨田さんって大学生で一人暮らしなんだって。それと根はいい人らしいよ」
「そうなのね」
千代子はあまり興味がなさそうだったが、平田さんから聞いた他の情報も伝えた。
「パパ、最近はなんか事件とか解決してないの?」
新居に引っ越してから補助なしの箸を使って、一生懸命ご飯を食べてる千尋が聞いてきた。千尋は弘志の仕事に興味を持っている。弘志も父が警察官だったため、警察官に興味を持つようになったので、千尋の気持ちがよくわかる。
「最近は……」
考えてみたが、最近は酔っ払いの喧嘩の仲裁のような通報しか入っていない。大きな事件は起きていない。
「あ、一昨日はいじめをしている中学生を倒して、いじめられてる人を守ったんだよ」
発言してすぐに失敗したと感じた。
千代子の箸が止まり、うつむいた。弘志から目は見えないが、目から光が失われたような暗い目をしてるとわかった。
弘志は新居への引っ越しでテンションが上がっていたから、挨拶回りが終わりホッとしていたから、周りの人が全員いい人そうで安心していたからだ、などと言い訳を並べたが、口から出た言葉は消せないと気づき思考を入れ替える。話を変えなければと考えたが、言葉が出てこない。
「そうなの? どうやって倒したの?」
千尋の明るい声が重い空気になった食卓に響く。
弘志の瞳はあちこち移動して、何か話題はないかとせわしなく思考を巡らせていた。
「大丈夫よ、あなた」
千代子は慌てた弘志を見て、平気だと笑顔で伝えた。だが、千尋の前で『あなた』と呼んでる時点で平静を保ってないことを弘志はわかった。
「千尋食べ終わったなら、お風呂に入ってきな」
「えー、でも」
「今度続きは教えてあげるから」
「はーい」
千尋は食器を台所に運び、お風呂場に向かった。
「ごめんな、千代子」
「大丈夫って言ってるでしょ」
いつもより冷たい声だった。それから無言になった。
千代子がいつも周りと一枚以上の壁を作って接するのには理由がある。弘志もこの理由を知ったのは結婚する少し前だ。
警察官が結婚する時には三親等までの住所や経歴、勤務先などの情報を自己申告して貰い、それをデータベースと照合する。身内に反社会的勢力や危険な宗教団体の一員が居る場合や、過去に重大な犯罪を起こしてる場合などでは結婚できない可能性も出てくる。理由は様々だが、業務に支障をきたすリスクがあるというのが一番の原因だ。
その調査で千代子には姉がいたことがわかった。今まで千代子と話していて姉の話が出ることはなかったし、遭ったこともなかった。千代子の自己申告でも姉のことは話していなかった。データベースには千代子の姉の
もちろん結婚するのに障害にはならなかった。弘志が黙っていたら、弘志が千代子の姉のことを知ったことも千代子には伝わらず、幸せな結婚生活を手に入れられることが確定していた。だが、弘志は千代子が黙っていた事を知ってしまったということを隠すのは良くないと考え、千代子に話した。
そこで千代子から何があったのか詳しく聞いた。
千代子が小学6年生の時、姉の佳代子は中学2年生だった。佳代子には
千代子は家で宿題を終え、暇を持て余していた。はやく姉が帰ってこないかなあと思った。
姉は最近ずっと6時頃に帰ってくる。今日もまだ家には帰ってきていない。きっと菫ちゃんの家で遊んでいるのだろうと思い、迎えに行こうと外に出た。
母には「まっすぐ菫ちゃんの家に行って、すぐ帰って来るのよ」と言われた。
少しずつ日の入りが早くなってきたが、まだ太陽は沈んでいない。
何度か姉と遊びに行った菫の家への道を進んでいった。15分ほどで到着した。
チャイムを鳴らすと菫の母が出てきた。
「お姉ちゃん、居ますか?」
「あら、千代子ちゃん。久しぶり。佳代子ちゃんは来てないよ。というか最近は佳代子ちゃん見てないねえ」
「え、そうですか。それじゃあ」
「また遊びに来るように佳代子ちゃんに伝えてね」
「はーい」
自分の予想が外れて驚いたが、外で遊んでるのかもしれないと思った。中学生からはカラオケとかで遊ぶと姉が話していたのを聞いたことがあるので、きっとそれだと思った。
歩いてカラオケ店に行くには距離があるので、諦めて家に帰った。家には姉の自転車が置いてあった。それなら公園に居るのかと思い、歩いて5分の公園に走った。
公園には滑り台、ブランコ、鉄棒などの普通の遊具が並んでいる。その中で一つだけ大きく特殊なものがある。それは4,5メートルの高さがあるロープジャングルジムだ。この公園ではこの遊具が最も人気で多くの子供が登って楽しむ。
公園に着いたときには太陽が沈み始め、夕暮時になっていた。
公園は階段を降りた少し低い位置に設置されている。そのため道路からは公園全体を一望できた。
千代子も階段の前につき、公園を上から覗いた。時間も遅かったからか一つのグループだけが公園にはいた。女の子5人のグループで砂場に円状で集まっていた。その真ん中に探していた姉の姿を発見した。
大声を出して呼ぼうとしたが、何だか様子が変だと感じて口を閉じた。よく見ると姉を囲んでる女子たちは姉を蹴ったり、押して転ばせたりしていた。話は聞こえないが、姉がいじめられていることがわかった。すぐに助けに行こうと思ったが、女子たちの中に見知った顔があり、止まった。
何が起きてるかを理解するのを脳が拒否したように体は一時停止した。
階段に踏み出した右足だけが一段低くなり、体は後方に残ったまま固まった。まるで後ろから何かに捕まれているような形で。
その間に姉を含めた女子たちはロープジャングルジムに移動していく。姉は一番上のポールのところまで登った。そして他の女子は手拍子して何か言っていた。姉は反対側を見ていて、表情は見えなかったが、体が震えていた気がした。
見知った顔の菫が千代子のところまで登り、耳元で何か言った。その直後、姉はポールを蹴るようにして飛んだ。空中で回転して頭から落ちていく。スローモーションで流れていく。
これからどうなるかを想像して目をつむった。いや、勝手に目が閉じた。
目を開けたときには姉は頭から血を流していた。他の女子たちは階段を上り、私の横を通り抜けていった。その時に菫と目が合った。菫の目は深海魚のようにギョッと大きく見開いたが、止まることなく走り去っていった。
それからのことはよく覚えていない。
姉が救急車で運ばれたと思ったら、葬式をやっていた。
家から姉は消えて、家族が両親と私の3人になっていた。両親がどれだけ悲しんでいたかも覚えていない。
姉がどうしてこうなったかは教えて貰ってない。もしかしたら聞いたかもしれないが、覚えてはいない。
姉は親友に裏切られ、いじめられ自殺した。それだけが千代子の頭に事実として残ってるだけ。
この話を千代子から結婚前に聞いた。千代子は悲しそうであり、悲しくなさそうな微妙な顔をしていたのを覚えている。だから他の人と関わらないようにしているという話は聞いていないが、人に裏切られるのが怖くて、関わらないようにしてるのではないかと弘志は思っている。
それ以来、姉の話は聞いていないし、『いじめ』や『裏切り』などの話題も出さないように努めてきた。
千尋が髪を濡らしたままリビングに入ってきて、静かな部屋に音が戻った。
「あがったの」
「じゃあ次は私が入ってくるわね」
「うん」
弘志の心の中にはやってしまったという後悔だけが残った。
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