7月13日(土)14日(日) ①

 10時頃次の班へ引き継ぎ作業を終え、家に帰った。今回は事件が発生したり、通報がなかったため比較的大変ではなかったが、当直は体に堪える。


「ただいま」


「おかえり、パパ」


 ドタドタと玄関まで走ってきて娘の千尋ちひろが抱きついてきた。仕事の疲れが癒やされる。これがあるから当直終わりのしんどい体を家まで運ぶことが出来る。


「おかえりなさい、お父さん」


 妻の千代子はリビングから出てきて、穏やかな声で出迎えた。


 リビングに顔を出し、千代子の父と母に挨拶をする。階段を上り、二階のリビングに移動する。千代子も後ろをついてくる。千尋は祖父とやりかけのトランプをするために一階に残った。


「あなた、引っ越しはどうする?」


 千尋がいないところでは、未だに弘志のことを『あなた』と妻は呼ぶ。


 ネクタイを外しながら話す。今の弘志は半袖のワイシャツに黒のスラックス。夏場のサラリーマンのような格好だ。


「初めの挨拶だけして、それからは寝ても良いかな?」


「いいわよ。今日も疲れたでしょ」


「まあ、忙しくはなかったけど疲れたね。もう歳かもしれないよ」


 冗談を言うように笑いながら言った。実際二十代の頃と比べると体への疲労が大きくなっている。


 千代子も微笑みながら冗談を返す。


「ふふ、それじゃあ私もおばさんになったってことかしら?」


「そ、そんなことないよ。君はずっと会ったときのままだよ」


 冗談だと分かりつつも、あわてて否定した。実際、妻は会ったときと比べても変わらず美人のままだ。もしかしたら恋は盲目だからかもしれない。


 妻とは大学で出会った。弘志は小学生から警察官になりたかったが、二番目に体育の先生になりたかった。深い理由はないが、中学校の時の先生が格好良くて憧れたのと、体を動かすのが好きだったからだ。高校を卒業してすぐに警察学校に入るかも悩んだが、とりあえずは大学を卒業していた方が良いと親に勧められ、大学に進学した。警察学校で法律などの必要なことは学べるため、教員免許が取れる大学に入学した。


 妻は同じ大学の社会学科だった。その大学は教育の分野に力を入れていて、ほとんどの人が教員志望だった。妻も社会の先生になろうとしていて、実際今は中学校の教師になっている。


 学部は異なったが、1年生の一般科目の授業で同じクラスになり、一目惚れした。弘志にとって初めての恋であり、初めての恋愛だった。人生で一度も告白されたことがなく、人を好きになったこともなかった。


 日本人形のような真っ黒の髪を胸あたりまで垂らし、肌は白く、顔は気弱そうで庇護欲をかき立てさせるような小動物のような可愛さだった。特に目元が不安げに垂れているところが可愛かった。千代子の周りには誰も居なく、いつも一人で授業を受けていた。だからといって「隣に座っても良い?」と軽い感じで話しかけることはできなかった。それからは見かけるたびに、自然と千代子を目で追った。


 千代子は授業で周りと話してみてと言われれば、普通に周りの人と打ち解けていたため、コミュニケーションが苦手というわけでないと分かった。一度さりげない感じで隣に座ろうとしたが、見えない壁が存在するかのようで近づけなかった。別に睨まれたり、嫌な顔をされたわけではない。むしろ笑顔だったと思う。でもなぜか近づきがたかった。


 1年生が終わる1月になった。2,3月は春休みで、2年生からは学科ごとの授業がほとんどとなり、他の学科で連絡先も交換していない千代子とは会えなくなる。警察志望で正義感がある弘志には他の学科の講義室に行ったりするストーカー行為のようなものを取るという選択肢は一切頭の中になかった。それ故に焦り、いつも通り一人で講義室の席に座っている一度も話したことのない千代子に突然告白した。他の生徒も見ていたが、このときの弘志には千代子しか見えてなかった。自分が何を言ってるかもよく分かっていなかった。ただ今を逃せば話せないという気持ちがあっただけ。


 目の前の千代子の顔だけが頭の中を支配していた。千代子の顔は呆気にとられ、目が点になっていた。こんな顔は今まで見たことがなく、可愛いと思った。今考えれば何を考えてるんだって話だが。


 もちろん断られた。弘志は今も昔もかっこ良くはない。ブスでもない。顔は特に特徴も無く、髪型は中学生からずっとスポーツ刈りで、体格はそこそこ筋肉がついている。これで話したこともない女性と付き合うのは初めから無理な話だった。


 諦めて講義室から出て行こうとしたときに、連絡先だけならと言われ、連絡先を交換した。頑張ったで賞、温情だとわかっていたが、そこから積極的に話しかけた。それから一年弱経った、2年生の冬頃に付き合うことができた。


「ふふ、ありがとう。それじゃあこれからどうする?」


 じゃれ合いはここまでといった様子で、千代子は話を変える。


「とりあえずシャワーだけ浴びて、引っ越し業者を待とうかな」


「了解。じゃあ服、準備しとくから、入ってきて良いわよ」


「ありがとう」


 着替えの準備を任せてお風呂へ入った。


 シャワーで体を流すと、昨日のパトロールでの不安になった気持ちも流れていった。家に帰ってきて娘と妻に出迎えられ、癒やされた時点でほとんどなくなっていた。それにこれから新居に引っ越すことを考えると楽しみでしょうがなかったのも理由の一つだろう。


 お風呂から出ると着替えが置いてあり、それに着替え、リビングに向かう。キッチンでは妻が目玉焼きを焼いていた。


 椅子に座って千尋と祖父のトランプ対決を見ていると、ベーコンと目玉焼きがのった食パンとミルクが出てきた。当直から帰ったら、ほとんどすぐに寝るのでカフェインを含むコーヒーではなく牛乳が出てくる。


 冷たいミルクが心を温める。とても愛されてると感じる。


 これからは千代子の母と父とは別々になるが、こんな幸せな生活が続くと考えると心が満たされる。お腹も満たされた。


 朝食を終え、しばらくすると玄関のチャイムがなった。妻がインターホンに出る。


「引っ越しの業者の方が来たわ」


 妻に視線を送り、自分が出るよと伝え、立ち上がった。


 玄関を開けると肌が焼けた笑顔の男が元気に話し始めた。


「どうも、おはようございます。引っ越しのヘイカモンの後藤と言います。今日はよろしくお願いします」


「おはようございます。こちらこそお願いします」


 いくつか質問されたことを答えていく。


「……あとは、任せてください」


「よろしくお願いします」


 後藤は帽子を被り、他の業者の人に指示を出しにトラックの方へ向かっていった。


 後藤さんから聞いたことを妻にも伝え、寝室に移動して仮眠を取ることにした。


 引っ越し作業の音で眠るのに時間がかかると思ったが、すぐに意識を失った。




 肩を優しく叩かれて目が覚めた。目を開けると妻の顔が真っ先に入ってきた。


「あなた。そろそろ終わるって連絡がきたわよ」


「うん、わかったよ」


 目をこすりながら起き上がる。カーテンを開けてみるが、まだ明るい。本当にもう終わりそうなのか不思議に思う。


「今、何時?」


「5時よ」


 5時間近く寝ていたらしい。もう一度外を見てみると、確かに太陽がかなり傾き始めていた。


 普段は2時間ほどしか寝ない。そうしないと夜眠れなくなり、生活リズムが崩れるから。一人暮らしなら別に良いのだが、できる限り家族に時間を合わせるように心がけている。


 まるで遠足前の子供が夜眠れなくて、朝方に寝て寝坊するみたいで恥ずかしい。


「早くパジャマから着替えて行きましょう」


「うん」


 ベッドから立ち上がる。たくさん寝たことと、新居への希望で体は軽い。すぐに着替えて、車の助手席に乗り込む。運転席には妻が乗っている。最近ではよく見る自動ブレーキ搭載の白色の普通の軽自動車だ。


 新居へ向かう。千尋は祖父たちと留守番だ。新居までは車で20分程度なので、引っ越し業者が帰った後に千尋を向かいに来ることになっている。


 今までのように妻の実家で暮らすことに不満はなかったが、自分の一軒家を持つというのは男の夢だと思う。それに来年から千尋は小学生になるので良い機会だった。


 昨日も通った道を進んでいく。


「こんなに慌てるなら、もう少し早く起こしてくれても良かったのに」


 正面を見ながら話しかける。


「疲れてそうだったから。それに明日は荷ほどきと挨拶回りもあって休めるかわからないから、休めるうちに休んで貰おうと思ったのよ」


「いつもありがとう」


 世間話をするような普通の口調で言った。


 ついでというわけではないが日頃の感謝を伝えたくなった。


「こちらこそ」


 何が? と聞かれることなく、妻はそれだけ言った。この短い言葉だけで何を言いたいのか理解し合っている。


 それから世間話をしながら新居へと向かった。


 家の前の道路には大きなトラックが止まっていた。千代子は家の前の空いているスペースに車を止めた。


 車から降りて、昨日は何も無かった空間に自分たちの車があるのを見ると、ここが本当に自分たちの新しい城なのだと実感できた。


 感慨に耽っていると妻に肩を小突かれて、玄関に向かった。


 後藤さんと少し話し、料金を払った。撤収していく引っ越し業者の皆さんに挨拶をした。


「これからはここが私たちの家なのね」


 引っ越しのトラックが見えなくなり、妻は家の方向に体を反転させた。


「そうだね」


 弘志も千代子と同じく家を眺めた。家は内見した時とも昨日とも同じ家のはずなのに、違うように見える。昨日まではお店に置いてある商品だったが、今は購入して自分のものになったという感じだろうか。


 しばらく無言で家を眺めて、千尋を向かいに行った。千代子の両親に挨拶して、新居に戻る。


「お母さんは、夕食の準備をするから、お父さんと千尋は布団とか出しといて」


「はーい」


 千尋は元気に返事をして階段の方へ走り出す。さっきまで家の中を走り回っていたのに、まだ元気だ。


「食器出すのとか手伝わなくても大丈夫かい?」


「今日使うものは自分で運んできたから大丈夫よ」


「了解」


 千尋の後を追って、2階の寝室に向かった。寝室のドアを開けても千尋はいなかった。


「あ、そうだった」


 ひとりごとをつぶやいた。


 引っ越しに合わせて、千尋は一人部屋になるのだった。千尋の部屋に行くと、新品のシングルベッドの上でジャンプしていた。


「千尋。ベッドの上で跳ねないの。早速、枕と掛け布団だけ出しちゃおうか」


「うん」


 布団を出しながら話しかける。


「千尋は今日から一人だけど大丈夫?」


「うん。私も来年から小学生だから、大丈夫なの」


 笑顔で答える。千尋は怖がりだから心配だが、親として信じてみようと思った。それに無理そうなら寝室に逃げてくるから大丈夫だろうという安心材料もあった。


 寝室にはセミダブルのベッドとシングルベッドが並んでいる。昨日まではこのベッドを3人で使っていた。千尋の部屋のベッドと同じくシーツを敷き、掛け布団と枕をセットする。


 一階のリビングに戻ると妻が料理を始めていた。見慣れないキッチンで料理してるため、とても違和感がある。


「パパ、ご飯までトランプしよう」


「いいよ」


 千尋の中ではトランプブームが到来している。幼稚園で流行っているらしい。そのため、朝から祖父と対決し、今は父と対決しようとしている。


 その後は特に何も無く新居へ引っ越した記念日は終了した。記念日と言うことで3人で寝た。あくまで記念日だから。





 次の日の14日は8時頃に起きて、朝ご飯を食べて、荷ほどきを始めた。明日は当直の日で、千代子も仕事なので、できる限り今日中に終わらせたい。


 14時頃まで作業をして、ある程度の荷ほどきが終わった。


「そろそろ、挨拶回り行く?」


 荷ほどきの手を止めて、千代子は弘志に提案する。


「そうだね。遅い時間に行くのも失礼になるかもしれないしね」


 最近では引っ越しても近所の人に挨拶しないのが一般的になりつつあるが、千代子の実家の周りの近所とはかなり親交があった。だからというわけではないが、一応新居の近所にも挨拶しに行こうと妻との会話で決まっていた。


 千尋も連れて3人で外に出た。


 弘志たちが住む住宅街は3✖2の6軒の家がワンセットのようになっており、そのブロックが3✖4の計12ブロックが長方形の形で形成されている。つまり約70軒ほど家が建っている。ブロックごとの間は道路で車が通れるようになっている。


 弘志たちは、同じブロックの5軒に挨拶に行くことにした。弘志たちの家の向かいは道路を挟んで果樹園になっていて、住宅街の端っこに位置している。少し離れたところには中学校もある。


 まずは玄関を出て左隣の家の方に向かった。表札には『佐藤』と書かれている。


 チャイムを押すと、インターホンから「どちら様ですか?」と無愛想な男の声が聞こえてきた。「隣に引っ越してきた者です」と返すと、「はい、今でます」と声音を変えて返ってきた。訪問販売だとか宗教勧誘などと思われていてたのかもしれない。


「どうも、こんにちは」


 ドアが開いたタイミングで挨拶をする。その後に続いて妻と娘も頭を下げた。


「こんにちは、佐藤です」


 頭に手をやってペコペコと頭を下げる。男は半袖半ズボンの黒のジャージ姿。身長は弘志と同じくらいで、体格は鍛えている弘志と比べると細いが、そこそこ鍛えてるようだった。顔にはひげがうっすらと残っており、頬は赤くなっていて、口からはお酒の独特の匂いがした。昼間からビールを飲み、休日を謳歌してる最中だとわかった。


「妻はちょっと今は出られないみたいだから、今度挨拶行くって言ってましたんで」


「すみません、急に押しかけてしまって。これよければ奥さんとどうぞ」


 多分メイクなどの問題だろう。夫婦の時間を邪魔してしまい、少しだけ悪いことをしてしまったと思った。千代子の愛想笑いにも申し訳ないという感情が出ていた。


 手に持っていた紙袋の一つを渡す。


「ああ、どうも。これからよろしくお願いします」


「こちらこそお願いします」


 もう一度頭を下げて、一軒目の挨拶を終えた。


 そのまま反時計回りで進み、玄関を出て左後ろに位置する和田家に訪問する。


 インターホンに出ることなく、玄関の扉が開いた。


「何かありました?」


 慌てたように顔を出し下の方を見ながら話した。明らかに自分たちではない誰かが来たような反応だった。


「えっと、そこに引っ越してきた者なんですが」


「あ、すみません」


 男は弘志とやっと目が合った。20代後半か30代くらいの男は色白で細く、眼鏡をかけていた。ここまでなら趣味が読書でIT関連の仕事をしてますといった感じの男なのだが、男は家の中でマスクをし、この暑い中長袖長ズボンにネックウォーマーだった。マスクから見える頬はやつれているのかとてもへこんでいる。もしかしたら風邪を引いていて、とても寒いのかもしれないと考えたが、声は元気だ。さらに手には鑑識がつけているような白い手袋がはめられている。


 異常な服装と初めの慌てようから、なにかあるのかと警察官モードになる。


「何かありましたか? それとも誰かと待ち合わせでも?」


 手袋など見ることなく、さりげなく聞いた。


「い、いや、何もありません。僕たち夫婦、とても潔癖症なので……」


 男は白い手袋がついている手を前に出して、自分の服装の理由を説明する。言葉の最後は小さくなって聞き取れない。どれだけ肌をさらしたくないのかというほど袖を伸ばそうとしている。


「それと待ち合わせはないです。むしろお客さんが来ることが珍しすぎてテンパってしまって。在宅勤務なので最近直接人と会う機会が無くて……」


 男はさっきから視線をあちこちにやりながら話す。


 弘志はこの人がただの人見知りなのだろうと思い、警戒を解いた。まだ挨拶ができていなかったと、挨拶を始める。


「そうですか。僕たちはそこの家に引っ越してきた柳岡弘志です。こっちが妻と娘です。よろしくお願いします」


「こ、こちらこそお願いします。和田春樹はるきです。僕たちも3ヶ月前くらいに引っ越してきたばかりです。あと、妻は和田美希みきで……」


 早口で聞いてもないことまで話し出し、途中で止まった。春樹の肩に白い布で覆われた手がのった。


 その女性は春樹と同じような服装で顔の上半分しか見えなかった。とても落ち着きがあった。特徴は胸が大きいことくらいだった。


「あなた。それくらいでいいでしょ。美希です。これからよろしくお願いします」


 美希と視線があったが、彼女の焦点は合っているのか微妙だった。彼女の瞳はどこまでも暗く、見つめていると闇の中に吸い込まれるのではと錯覚し、自分の心までも闇に浸食されると感じた途端に、無意識のうちに視線を外していた。まるで見なかったことにするように。


「お願いします。それじゃあ僕たちはこれで」


 和菓子の入った紙袋を渡して、玄関を閉めた。


「潔癖症の人ってあそこまで完全装備なんだね。警察官で潔癖症の人とかいないから驚いちゃったよ」


「あれは、かなり重症の潔癖症の人じゃないかしら。私の友達にも潔癖症の人居るけどあそこまでじゃないわよ」


「潔癖症って何?」


「潔癖症はね……」


 次の家までの短い距離を話しながら進んだ。



ーーーあとがき(読まなくても大丈夫)ーーー

13日と14日で分けて投稿しようと思ったんですが、それだと12日に引き続き何もないような平凡な話が2話連続になりそうなので14日の途中で分けました。

次の話は14日後半です。

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