【約13万字完結】壊れた世界で踊りましょう ~引っ越しから人生が狂いだす~

ゼータ

7月12日(金) 当直

 弘志ひろしはバインダーバックから書類ファイルを取り出した。ファイルはもう入らないと主張してるように口が開いている。朝から大量の書類を見ると気が滅入りそうになる。


 正面の入り口と左右の窓から大量の光が入ってくるため、電気をつけなくても明るい。壁に掛かっているチラシは光を反射している。チラシの間には子供が書いたような絵も貼ってある。その中には『安全第一』、『おうだんほどう手を上げて』、『知らない人にはついていかない』などの文字がクレオンで描かれていた。


「それじゃあ、後はよろしくねえ」


 受付を挟んだ出入り口の方から武田が、弘志たちを見ながらのんびりとした声をかけた。


「へーい」


「お疲れ様でした。任せてください!」


 鼓芽こめは適当に返事をし、斉藤は立ち上がり、武田の方向を向き頭を下げながら挨拶をする。


「武田さん、お疲れ様です」


 弘志は鼓芽ほど適当でもなく、斉藤ほど真面目でもなく、軽く会釈し言葉を返す。


「はいよ」


 武田は外を見ながら答える。体型は普通だが、腰が少し曲がり、頭は白色が目立つ。そして軽く右手を上げながら、正面の入り口から出ていく。茶色のチェック柄の半袖のポロシャツに黒のジャージのようなズボンで休日に散歩を楽しむおじさんのようだ。しかし、それが間違っているとポロシャツの皺が示している。皺のついた服で歩く後ろ姿からは、昨日からの疲れを表していた。


 弘志はその姿を見て、自分も歳を取った、変化したなあと思った。


 弘志は大学を卒業して、警察学校に入って、それから今までずっとこの交番で働いている。武田さんはそれ以前からここで働いているため、もう10年以上も一緒にいる。最初の3年間は武田さんと同じ班で行動していたため、たくさんのことを教えてもらった。最近は今のように挨拶を交わすだけのことが多い。


 あの頃の武田さんには白髪がなかった。そのため年が経ったのだと感じた。


「鼓芽さん、朝からだらしないですよ!」


 武田の姿が見えなくなると、斉藤知香ちかは隣の席の鼓芽輝樹てるきに詰め寄る。斉藤は今年の4月から警察官になった新人だ。髪は肩より上で切りそろえられていて、目はキリッとしている。そこらの男よりも迫力がある。


 警察官の新規採用の女性の割合は年々上昇していて、最近では約10パーセントを占める。まだ割合としては多くないが、20年前と比べると、全体を占める女性警察官の割合は2倍以上になっている。


「まあまあ、いいじゃねえか。それよりも斉藤は朝から元気だなあ」


 鼓芽輝樹はまったく動じることなく、はいはい、といった感じで適当に受け流す。青いワイシャツの一番上のボタンを開け、襟をパタパタと揺すり風を送り込んでいる。頭のてっぺんの髪がピョンと跳ね、寝癖もついている。鼓芽は弘志と同期でずっとペアで働いている。普段からやる気がなさそうにしてるが、もめ事や事件が起きたときには仕事を果たす。だからといって住民のお金で働いている警察官がこのような態度をとって良いのかは疑問である。


「また、そう言って。ねえ。柳岡やなぎおか先輩も言ってやってください!」


 斉藤に話を振られた弘志は溜め息を吐く。今日も二人とも漫才をやっているなあと内心思っていた。真面目な斉藤と適当な鼓芽は毎日のように言い合っている。いや、鼓芽が言い返さないから斉藤だけが文句を言っている。そして斉藤も鼓芽が抵抗してこないから、弘志に助けを求めてくる。いつもの流れだ。


「それよりも、さっさと準備を終わらせてパトロールに行こうか」


 弘志は手を叩き、話を変える。ついさっき武田さんの班から仕事を引き継いだ。今の時間は10時で、明日の朝の10時までは弘志たち3人で担当の地区のパトロールや事件などを解決しなければならない。もちろん難解な事件が起きたりした場合は本部の刑事たちが動き出す。交番勤務の警察官は殺人事件などは扱わない。喧嘩の仲裁、落とし物、見回りなどが主な仕事だ。


「まあ、そうですね。鼓芽さんに関わってる時間がもったいないですもん。今日は私と柳岡先輩でいきましょうね」


「それは無理だ。俺がパトロールにはいくからなあ」


 だらだらしている鼓芽がここぞとばかりに顔を上げて答える。


「それじゃあ、二人で行ってきても良いよ。僕は交番で待ってるから」


「何でですか。私は鼓芽さんとは嫌ですよ」


 再び斉藤は鼓芽を睨み付ける。鼓芽は目を合わせることなく靴紐を結び直し、パトロールに行く準備を整える。


「へーい。俺はどっちでも、とりあえずパトロール側で」


「僕はどっちでも良いから」


 その後、斉藤の一方的な攻撃が始まったが、結局鼓芽と弘志がパトロール担当に決まった。


「それじゃあ、いってくるね」


 弘志は手に鍵を持ち立ち上がった。


「いってらっしゃい」


 斉藤は不機嫌な声で見送り、鼓芽の方はまったく見ようともしない。いつものことなので弘志も気にしない。


 弘志が正面の入り口から出ていくと、鼓芽はのっそりと立ち上がり、手に持った帽子をもてあそびながら交番から出てパトカーの助手席に座る。


 外にでると日差しがさらに強く感じ、肌の水分が一瞬で蒸発したような気分になる。交番の中は武田さんたちがエアコンをつけていたため涼しかった。交番の中を振り返ると斉藤がカバンから資料を出して、机に向かって仕事を始めていた。まったく外の様子を確認することなく、集中してる様子で、とても真面目だと思わせる光景だ。一方で鼓芽はドアを開けたまま、「あちい」と叫んでいる。


 交番の中と外では温度だけではなく、世界ごと異なるのではと思った。


 弘志は運転席に座り、エンジンを入れる。間髪入れずに鼓芽はクーラーの温度を最低温度、出力を最大にして自分に風が当たるように左の2つのレジスターを自分に向ける。少しして、「ハァー」と親父のような大きな溜め息を漏らす。


 弘志も右2つのレジスターを自分の方へと向ける。車に設置してある温度計は32度を指してた。冷たい風が顔に当たり生き返る。鼓芽があんな溜め息をつくのも頷けるほど気持ちいい。乾いた砂漠で見つけたオアシスとはこういうものなのかもしれない。


「それじゃあ、いきますか。テル」


 弘志は鼓芽輝樹のことを『テル』と呼ぶ。警察学校からの仲なので、お互い仕事以外のプライベートのことも知っている。いや、鼓芽は自分のことをあまり話さない性格なので、鼓芽が弘志のことを一方的に知っているだけかもしれない。弘志にとっては悩みを妻に次いで相談できる友人である。


「そのあだ名で呼ぶなっていってるだろ」


「今は二人なんだから問題ないだろ」


「へい、ヘい」


 鼓芽はあだ名で呼ばれるのを嫌っている。正確な理由は不明だが、自分たちに新人ができた頃から呼ぶなと言うようになった。特に今年からは同じ班に新人の斉藤がいるから、何度も呼ぶなと釘を刺された。


 弘志はシートベルトを締めて、椅子を少し下げる。昨日は武田さんが乗ったのか、椅子が少し前の方に移動していた。弘志は175センチでそこまで大きいわけではないが、武田は160センチで男にしては小柄だ。隣の鼓芽はすでに椅子をめいいっぱい下げて、足を伸ばしてくつろいでいた。


 ルームミラーを調整し、シフトレバーを『D』に入れ、左足でサイドブレーキを解除して、車を出す。


 平日の昼前の時間のため道は空いている。弘志たちの区画というか、この周りの地区で治安が悪い場所はほとんど無いため、満遍なくパトカーを走らせる。


 弘志たちは福島県のある交番に勤めている。東京や大阪などの都会と比べると治安がよく、和やかな時間が流れている。治安が悪い地区では、危険な場所などを重点的にパトロールしたりするそうだ。


「テル。もう少しくらい斉藤に構ってやってもいいんじゃない?」


「なんでだよ。それは俺らの仕事に入ってないだろ」


 鼓芽はぶっきらぼうに言った。一応窓から外を見ているが、窓の部分に肘をつけて頬杖をついている。内部を撮影しているカメラもあるが、一度も鼓芽の態度を叱るような連絡は本部から来ていない。本部がカメラの映像を確認していないだけなのか、鼓芽が書類などの提出物をきちんとやってるから目をつむってもらってるのかは分からない。もしかしたら、鼓芽には個人的に連絡が来てるのかもしれない。まあ、それで鼓芽が態度を改めるとも思わない。


「でも僕らが新人のとき、武田さんによくして貰っただろう。それを少し返した方が良いと思わない? それに女性だし」


「女性とかは関係ないだろ。それにあいつは辞めたりしないだろう」


 辞める辞めないの話をしたわけではないが、長年一緒に居ることで鼓芽は弘志が言いたいことを理解して答えた。女だから辞めないで欲しいというわけではなく、男だとしても止めて欲しくない。まだ半年しか一緒に働いてないが、交番勤務は班での行動が主なものであるため、仲間意識が高いと思う。あくまで個人的な意見だ。


「それはわからないだろう。人はすぐに変わるものなんだから」


「そうか?」


「そうだよ。斉藤も入ってきた時と比べて、かなり変わっただろう」


「……そうだな」


 鼓芽は弘志に半開きの目を向けた。弘志は異変がないか外を見ていて、気づかない。


 会話が途切れる。10年以上も一緒のため、この無言の空間もまったく苦ではない。もともと鼓芽は話すのも面倒くさいと感じる男だからという理由もある。


 警察官の離職率は、他の仕事の離職率の半分くらいでとても低い。これは警察学校で辞める人が含まれていないためだ。それでも辞める人はもちろんいる。


 警察学校に入校した2割近くの人は退職してしまう。警察学校には厳しい規律や自由の少ない生活などがある。例えば、顔の目の前で怒鳴られたり、理不尽なことで怒られ反省文を書かされ、連帯責任で怒られる。


 交番勤務は基本的に3班でローテーションを回す。出勤形態は、当直、非番、公休を回していく。当直は当日の朝から翌日の朝までの一日勤務で、非番は当直明けのことで午後は休み、公休はただの休日だ。そのため休日の曜日は固定ではない。当直の日は24時間起きてるのではなく、班のメンバーと交代交代で4時間ほどの仮眠をとるが、事件が発生したりすれば出動しなければいけない。休めないことも度々ある。


 業務によって別々の行動を取ることはあるが、基本的に班のメンバーとは共に行動する。そのため弘志は第二の家族のような関係だと思っている。武田さんとは最初の数年しか一緒の班ではなかったけど、それでももう一人のお父さんと思えるくらいには仲良くなった。鼓芽とはもう兄弟みたいなもんだ。斉藤との仲もかなりよくなったと思う。そのため辞めて欲しくない。


 赤信号で止まる。対向車には止まってる車はいない。左右の道からも車は出てこない。


 周囲を確認しても歩いている人すら居ない。平和なのは良いことだが、これなら交番で書類整理をしていたい。


「そういえば、弘志。明日引越すんだっけか?」


「テルは忘れてると思ったよ」


「ああ、普通だったら忘れてただろうよ。でもあいつが新居祝いどうしますかってしつこく聞いてくるからよ」


「それって、僕に言って良かったの?」


 鼓芽は少し上の方に視線を向けて、何か考えてるようにして答えた。


「まあ、いいだろ。サプライズっていってた気がするけど」


「おい、それだと僕が知らないふりしないとだろ。僕、演技とかうまくないんだから、知ってるだろう」


 目線を信号から鼓芽に移す。


「まあな」


 鼓芽は窓の外から視線を切り、運転席の弘志の方向を向き、目が合う。悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべている。


 正面から見ると顔のパーツが整っていて爽やかだ。今は帽子で寝癖も隠れている。第一ボタンが外れてるのも、剃り残しのひげもなぜだかお洒落に見える。だが、子供らしい表情が爽やかイケメンを残念イケメンに格下げしている。


 この変わらない子供らしい表情を見ると、警察学校の頃を思い出す。


 鼓芽とは警察学校の寮の部屋が隣同士だった。鼓芽は角部屋だった。自分を含めほとんどの入校生はやる気に満ちていた。どんなに厳しくても警察官になってやるという気持ちがなければ、警察学校の生活には耐えられない。


 警察学校の朝は点呼から始まる。その後に清掃、朝食、授業という流れになっている。


 授業初日の朝の点呼で「柳岡弘志」と呼ばれ、「はい」と大きな声で答える。「声が小さい!」と言われ、「はい」とさらに大きな声で答える。2,3回それを繰り返し、自分の点呼が終わり背筋に入っていた硬いものは抜けて、背筋が曲がる。「背筋を伸ばさんか!」と怒鳴られ、再び背骨が硬くなる。気を抜いて良い時間はないと思い知った。


 教官は「鼓芽輝綺!」と呼んだ。しかし何の返答もなかった。緊張で声が出ないのかと思った。「鼓芽輝綺! 返事をしろ!」「……」返事がない。弘志は隣にいるはずの鼓芽輝綺という人を心配に思った。警察官になりたいくらいなのだから、困った人を心配せずにはいられなかった。隣を見た。誰も居なかった。そこには人一人が立つスペースがぽつんと空いていた。


 「柳岡弘志。前を向け!」また怒鳴られた。無意識に体は教官方を向いた。「柳岡弘志。隣の部屋のお前が鼓芽を連れてこい! 連帯責任だ!」理不尽だと思ったが、これが警察学校だと分かっていた。それに教官よりも鼓芽輝綺という名前の男への苛立ちの方が大きかった。その後、初めて会った鼓芽とかいう男と二人でみっちり怒られた。このときの鼓芽も頭に寝癖をつけていた。3時間以上の説教が終わり、部屋に戻るときに鼓芽から「ごめん」とまったく反省のこもっていない言葉だけの謝罪を受けた。こいつとは今後、関わりたくないと思ったが、隣の部屋という理由でそれは現実不可能な願いとなった。これが鼓芽との出会いだった。


 このときに見せた笑みと今見せてるものは同じだった。


 弘志の顔は鼓芽が変わらないことを喜んでいるような、残念に思っているような半笑いの表情になった。


「信号変わったぞ」


「ああ」


 交番に戻るために再びアクセルを踏んだ。鼓芽は無表情に戻り、窓の外を見ていた。


 弘志も安全運転をしながら周りを確認した。


 12時に交番に到着した。


 パトカーから降りると、2時間前よりもさらに外は暑くなっていた。


 鼓芽は日差しから逃げるように交番に入っていった。今までのんびりして蓄えていた力を解放したようだ。


 弘志もエンジンを止め、鍵を閉め、鍵が閉まってるかドアをがちゃがちゃして、交番に入った。車の中ほどではないが、交番の中は冷えていた。鼓芽は机に突っ伏していた。すべて体力を使い果たしたようだ。


「おかえりなさい、柳岡先輩」


 斉藤が机から顔を上げて元気に挨拶した。斉藤の机に目を向けると、大量の資料が積み重ねられていた。朝からサボらずに書類と向き合っていたことが一発で分かる。


「ただいま」


「あと、鼓芽さんも」


「たでーま」


 鼓芽は顔を上げることなく、机に向かって挨拶を返した。


「それじゃあ、昼食にしようか」


「はい」「へーい」


 弘志はロッカーに入っている仕事用ではない、バッグから弁当を取り出す。鼓芽はコンビニの袋を机に載せる。斉藤はピンクのお弁当袋を出す。


「今日は、弁当なのか」


「まあね」


 鼻の先がピクピクした。おおっぴらに自慢したいわけではないが、妻につくってもらった弁当を自慢したくて声が弾んだ。前回の勤務日は妻が体調を崩していたため、鼓芽と同じくコンビニ弁当だった。


 鼓芽は袋からおにぎりを出して食べていた。最初から興味がなかったと言われてるようで、少し恥ずかしくなり、弁当に視線を移す。すぐに弁当の蓋を開けて、ごまがふってある白米を口に運んだ。余計なことを口走らないようにするため。


「先輩、今日は私も弁当なんですよ! 朝早く起きて作ってきたんです」


 斉藤は弘志の隣の空いている席に移動しながら話し始める。


 交番の中は、小学校などで班を作ったときのように4つの机がくっついている。


 斉藤の席は書類が散らかっていて、弁当を食べられない状態だ。もちろん書類を片付ければ良いだけだ。


 口の中の米を咀嚼しながら、斉藤の弁当を拝見する。卵焼きにミートボール、プチトマト、ふりかけがかかった白米、昨日の残り物らしききんぴらごぼう。The弁当といった感じだ。


 自分の愛妻弁当も似たようなものだ。唯一の違いは愛情が含まれてるくらいだろう。


 また鼻がピクピクなる。弘志は人差し指で鼻の頂点をこする。いつも通りの表情に戻ってから声を出す。


「明日の朝まで仕事なのに大変じゃないか?」


「大丈夫ですよ。私の取り柄は元気なところですから!」


 親指と人差し指で丸の形をつくり、朝と変わらず元気よく話す。目の前の斉藤の机に広がる大量の書類と斉藤の態度が合っていないなと感じた。


 入ってきたばかりの時は真面目が取り柄といっていた。そもそも自分のことを話したりしなかった。仕事に関係ないようなことは話す必要がないといった感じだった。


 さっきの鼓芽との会話を思い出した。やっぱり斉藤は変わったと思った。


 今年の4月に警察官になった斉藤はこの交番が初勤務場所になった。そして、班は弘志と鼓芽との3人。初めは、なりたかった警察官になれた事への興奮と仕事をうまくやっていけるかの不安が心を満たしていた。もともと真面目で男にも怯えない性格だったので、緊張しながらも仕事を熱心にこなした。真面目すぎることで失敗したこともあったが、柳岡先輩がサポートしてくれたおかげで、仕事にも慣れることができた。稀に鼓芽さんも尻拭いをしてくれた。本当に稀に。そのため先輩たちのことは尊敬している。


 最近は出勤することが楽しくなってきた。人々の役に立て、優しい先輩たちと共に働けるから。


「先輩、私がつくった卵焼き食べますか?」


「う? 大丈夫だよ。僕の弁当にも入ってるから」


 弘志は目線を自分の卵焼きに向けて優しく訴えた。


 斉藤のあがっていた肩が下がった。周りの元気な空気も落ちこんだ気がする。


 弘志は戸惑った。何かいけないことをしてしまったのかと考えたが、理由が分からない。とりあえず、あげると言われたのを断ったのが良くなかったと思い、声を発する。


「やっぱり、もらおうかな。今日はお腹すいてるから」


「そうですか! それじゃあ、どうぞ」


 斉藤の様子は戻った。犬がしっぽを左右に振ってる姿を想像させるような笑顔だった。


 弘志は一安心し、息を吐いた。


 斉藤は箸で卵焼きをしっかりとつまみ、上空を一度さまよわせてから弘志の弁当の蓋に載せた。斉藤の表情には一瞬困惑が見えた。


 卵焼きを移動させるために、そこまで持ち上げる必要はなくないかと思ったが、どこに載せればいいのか迷ったのかと理解した。


 蓋に置かれた卵焼きを箸で掴み口に運んだ。妻が作る卵焼きはしょっぱめであるのに対して甘めの卵焼きだった。


「どうですか?」


「おいしいよ。初めて作ったとは思えないよ」


「そうですか! 良かったです」


 作ったものを褒めて貰いたかったのだと弘志は気づいた。


 その後にミートボールももらった。こんなに貰って良いのかと不安に思いながらも昼食を食べ進めた。


 斉藤は「なんなんだろう?」と小さく呟いていたが、弘志には何のことを言っているのか分からなかった。深刻な感じではなく、自分の行動を不思議に思っているような感じだったので特に気にすることも無かった。


 昼食後は2時間ほど各自で種類整理を行った。時々、交番を訪れる人の対応をしながら。鼓芽は一度も対応していなかった。ほとんどは斉藤が対応していた。


 3時過ぎになり、再び鼓芽とパトロールに出た。斉藤は行きたそうにしていたが、鼓芽と二人なら残りますと言い、居残りとなった。居残りの斉藤は交番の前で小学生の下校を見届けたり、交番に訪れた人の対応にあたる。


 朝と同じように道路を進む。昼前よりは車が通っているが、まだ帰宅ラッシュの時間も遠いので道はスカスカである。


「弘志の新居でも見にいこうぜ」


 突然鼓芽が声を上げる。今思いついたかのように目線を上に向けていた。


 今日はやけに話してくると感じた。


「うーん……それは……」


 弘志はハンドルを握りながら考え込むような間を開けた。新居方面も巡回する予定なので、新居を見るために少し進む道を変更することは可能だが、仕事中に私事をするのはいかがなものかと思った。それに自分自身は何度か新居を見ているし、明日から住むのだから見に行く必要も無い。


 鼓芽を一瞬見てみると、窓の外を見ていた。本当にただの思いつきだったようなので、これで話を終わりだと思った。


「別にそれくらい良いだろ」


 弘志の方を見ることなく話を続けた。どうやら話は終わりではなかったらしい。


「まあ、いいか」


 特に理由は無いが、断る理由もないので了承した。もしかしたら友達が引っ越す事への興味があるのかもしれない。ほとんどのことを面倒くさいと思っている鼓芽が。


 それから、また無言になった。


 パトカーは中学校の前あたりまで来た。


「ここが僕たちの新居になるんだよ」


 ハンドルから片手を離して指をさした。指の先には、中学校の前の住宅街の紺色の屋根の一軒家があった。一般的な2階建ての家。家の前には車2台分のスペースがさみしげにある。まだ誰も住んでいないことを主張しているようだ。


「そうか。ここらへん見たことあるなあ」


 鼓芽はそれだけ言った。鼓芽の顔は窓の方を見ていて、見えないが無表情だろう。本当に見に来たかったのか疑いたくなるような反応だったが、鼓芽らしいと思った。


「まあ、ここら辺も管轄エリアだから何度かパトロールで通ってるからね」


 新居を通り過ぎ、大通りに戻るために住宅街の中の道を3回左折しようとした。その途中で、3人の中学生に囲まれ、うずくまっている中学生を見つけた。すぐに車を止めた。


「テル。いじめられてる中学生がいる」


「しょうがないな」


 鼓芽はドアに置いていた重そうな肘をどけ、外に出た。すぐに戻ってくると言いたいのかドアは開けっぱなしだ。車の中に熱風が入り込む。弘志の心にも不愉快な何かが入り込む。


「おい、ガキども。何してるんだ」


「やばい。警察だ逃げろ!」


 周りを囲んでいた中学生3人はこちらを見て、住宅街の奥に逃げていった。いじめられていた男の子も鼓芽がたどり着く前に一礼して早足で離れていった。


 中学生の顔を確認できた。警戒対象として自動的にインプットされた。


「はあ。つかれた」


 鼓芽は溜め息をついた。日陰を作るように手を頭あたりに掲げながら、戻ってきた。


「もうちょっと、あの男の子を助けても良いだろう。せめて話を聞くくらい」


 少しだけ声に熱がこもった。これは暑さによるものではない。自分の中で生み出された熱だ。


「別にいいだろ」


 話は終わりだという風に、再び頬杖をついて窓の外を見る。窓にうっすら映った顔には申し訳なさを含んでいる気がした。その顔を見て弘志も申し訳ない気持ちになる。


 いつもとは違った無言の空間が生み出された。少しだけ息苦しい空間。


 車内に侵入した嫌な熱い空気はエアコンの冷風で浄化されていったが、弘志の中には明日からここに住む事への不安が形成され、消えることはなかった。


 その後は交番に戻り、書類整理を行った。



ーーーあとがき(読まなくても大丈夫)ーーー

題名にも書いてあるとおり約13万字で完結します。すでに書き終わってますが、少し書き直しながら投稿していきます。(2000字ずつ出すと言うよりは、まとまりが良い部分で区切っていこうかなあと考えてます。どっちのほうが良いんでしょうか?)

遅くとも12月中には完結します。


感想とかもらえるととても喜びます!!!

これからよろしくお願いします。

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【約13万字完結】壊れた世界で踊りましょう ~引っ越しから人生が狂いだす~ ゼータ @zetaranobe

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