第5話 図書館の異常事態
♭♭ ――《side:過去回想》――
……ひどく耳鳴りがする。
それは、カルムにとって思い出したくもない記憶だ。
「はぁっ……、はぁっ……!」
薄暗いダンジョンの中で荒い息だけをひたすらに零す。
カルム・リーヴルは冒険者ギルドへの登録を済ませたばかりの新米冒険者だ。秘宝に憧れて、冒険に憧れて、未知に憧れて。ダンジョンに危険が溢れていることは知っていたが、そんなものは度胸で跳ね
その〝悪夢〟に出遭うまでは。
「逃げて……逃げて、カルムっっ!!」
カルムの耳に届くのは悲痛な願い。
絞り出すような声音で叫んでいるのは、カルムにとって唯一無二のチームメイトだ。いつか、冒険者になったら一緒にチームを組んで、たくさんのダンジョンを攻略するんだと誓い合った幼馴染みの少女。
そんな彼女が――今まさに、邪悪な黒い影に呑み込まれようとしていた。
「フィー……ユ……?」
掠れた声だけが
冒険者になったばかりのカルムは、まだ何も知らなかった。この〝影〟が〈
影に触れた冒険者は問答無用で連れていかれ、二度と戻ってこないということも。
「……あは」
影に呑み込まれたフィーユが無理やり笑う。
「大丈夫だよ、カルム。わたしは〝カルム隊〟の前衛だから……こんなところでやられたりしないから!」
ほら、と言いながら、お気に入りのコートの胸元を指すフィーユ。そこには数日前に作ったばかりの
「だから安心して、カルム」
しかしカルムは気付いていた。
いつも通りに明るく振る舞っているフィーユだが……それは、カルムに対する精一杯の気遣いだ。楽観的なわけでもなければ、何か秘策があるわけでもない。
その証拠に、カルムを見つめるフィーユの瞳は――とっくに赤く
「っ……フィーユ!」
「ごめんね。……ばいばい、カルム」
別れの挨拶は、一瞬。
カルムが再び立ち上がったその時には、黒い影はフィーユをどこかへ連れ去っていた。
……それからだ。
カルム・リーヴルが、ダンジョンから距離を取ったのは。
#3
◆〈祓魔の大図書館・裏〉――攻略開始◆
「……なんだ、ここは?」
深夜、ミリュー王立図書館二階。
眉を
まずは、状況を整理しておこう――今日も今日とて馴染みの司書・スクレの計らいで図書館の時間外利用を許されたカルムは、図太く翌朝まで居座るつもりで『槍使いノエルの武勇録』シリーズを読み続けていた。
そんなカルムが寝落ちしたのは、日付が変わってしばし経った頃だ。
睡眠よりも読書を重視するカルムにとって、寝落ちというのは珍しいことでもない。火の不始末には気を付けなければならないが、それ以外の点では寝落ちこそが至高だ、とすら考えている。何せ起きた瞬間に読書を再開できるのだから。
……だが。
(読んでいた本がなくなっている……というより、ここは本当にあの図書館か?)
明らかに様子がおかしい。様子というか、雰囲気が。
「ふむ……」
眼鏡のレンズ越しに辺りを見渡してみる――建物の構造としては、やはり見慣れた図書館だ。規則正しく書架が並んでいて、広い閲覧スペースがあって、外の光を効率的に取り込める大きな窓があって、さらには一階へ続く階段がある。
ただ、それが分かるというのが既におかしい。
時刻は深夜。太陽の光は当然届かず、館内の明かりは机の上に置かれた小さなランプだけ。手元の本を読むのには充分だが、辺り一帯を照らせるほどの光量はない。
「……光っている、のか」
静かに目を
それこそが異質な雰囲気の正体だろう――どこから、というわけでもなく、この空間全体が青白い光を放っている。美しさと柔らかさが同居する不思議な光彩。
「この光は、一体どこまで続いているんだ……?」
目下の疑問を口にして、カルムはそっと手を伸ばすことにした。カルムが好んで座るのは窓際の席であり、つまりは手の届く範囲に窓がある。
内鍵を回して、窓を――
「む。……開かない」
――窓は、ぴくりとも動かなかった。
約199万冊の蔵書を誇る大図書館に窓が一つしかない、ということはないし、一階に降りれば立派な扉もある。だがこの段階で、カルムには不思議な確信があった。
……きっと、扉も窓も全て開かない。
……何故なら、ここは。
「ダンジョン、なのか……それも、極めて特別な」
すとん、と腹に落ちるような感覚があった。
思い出すのはつい先ほど、夢の中で見た過去の記憶だ。大切な幼馴染みを奪った特級ダンジョン〈遍在する悪夢〉。まさか、あの夢を見ることが何らかのトリガーになっていたのだろうか?
あるいは全く無関係に、カルムには知る由もない理由で、この場所へ誘い込まれてしまったのだろうか?
が、何はともあれ。
(マズいことになった……ここがダンジョンならば、つまりは魔物の巣窟だ)
静かに椅子を引き、その場で立ち上がりながら身構える。
……いや、まあ。
身構えるとは言っても、他の冒険者が見たらきっと大笑いするだろう――何故ならカルムは【知識】系統以外の全技能で適性0、武器や魔法の基礎となる体術すら欠片も使えない。どう控えめに見ても下手な踊りかジェスチャーの類である。
「…………」
カルムが悪口を気にしないのは性格のせいもあるが、別に間違っていないからだ。ひょろがりな身体に筋肉なんてものは付いていない。本だって、長い間持ち上げていたら腕がぷるぷると震えてくる。
(最底辺の魔物が相手でもズタズタにやられかねないが……)
かちゃり、と眼鏡を押し上げながら絶望的な所感を抱くカルム。
ただ、それから息を潜めること一分、二分……やがて五分が経過しても、カルムの警戒に反して魔物は姿を現さなかった。忍び足で移動してみても、一階へ降りてみても結果は変わらない。ただただ
――これが一流の冒険者なら。
それこそ秘宝の入手でミリュー王都を沸かせていたアン隊の四名なら、各々の技能を存分に活用して探索を進めていたことだろう。仮に魔物が潜んでいても、見事なコンビネーションで撃退してしまうに違いない。
が、その点。
(……やれやれ、仕方ない)
カルムはと言えば――書架に近付き、暇潰しの本を
何しろ全く状況が分からず、外にも出られず、かといって目は覚めてしまったのだから本を読む以外にやることなどあるはずもない。『槍使いノエルの武勇録』の続きか、それがないなら別の本でもいい。攻略や探索など発想の中にすらなかった。
「ふむ……」
ミリュー王立図書館の書架は綺麗に整理されている。
まず、最も大きな括りが言語依存。多くはミリューの公用語であり、その中でジャンルごとに分類される。カルムが最も頻繁に利用するのは〝物語〟のコーナーだ。先頭の棚に新入荷の本がずらりと並び、その後は作者順に整列されている。
慣れた順路で書架の合間を縫って。
目当ての棚に辿り着いた――その時だった。
「……これ、は……」
驚愕を孕んだ声が零れる。
そこには、明確な異変があった。具体的には、本が光っていた。ただでさえ空間全体が青白い光を放っているのだが、その中でも一際鮮やかな光源。特殊燃料で灯るランプよりなお明るく、一冊の本だけが煌々と輝いている。
タイトルは『マルシュの遺構探索記』。
現実と違って創作の中ではダンジョン内に罠やギミックが登場することも決して珍しくないのだが、この作品は特に〝罠〟をテーマに据えた物語だ。主人公マルシュが罠だらけの遺構に迷い込み、知恵と工夫と力技を駆使して苦難を乗り越える。
だが、それが何だと?
「…………」
分からない。分からない、が――無視するには、好奇心が邪魔すぎた。
静かに呼吸を整えて、覚悟を決めて。
光り輝く本に右手を伸ばした瞬間、カルムの身体がパッとどこかに転移して……
「――――、な」
刹那、頭上から巨大な刃が降ってきた。
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次話は【12/6(金)20時】更新予定です!
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