第8話 夢の中の赦し
[side: セリス・ホオズキ]
今日は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。しかし、目が覚めるとすぐに胸の奥に冷たいものが広がる。
――人を殺した私に、気持ちよく眠る資格なんてあるのだろうか?
そう思った瞬間、よく寝てしまった自分がとても醜く、穢わらしい存在のように感じて、呼吸が苦しくなる。
自分が今後どうすればいいのか分からない。そもそも殿下の護衛騎士を殺した私に今後があるのかさえ分からない。
そんな考えがぐるぐると頭を巡る中、渇きを覚えた私は、水を取ろうと手を伸ばした。
――その時だった。
左手に違和感を感じた。それは柔らかい温もりで、しかし、この場にあるはずのない感覚だった。
眠気は吹き飛び、私は思わず体を強ばらせる。全身の血液が逆流したような冷たい悪寒が体を走った。
―――ここは私以外いないはず
数十秒くらい左手を見れずに固まっていた。実際は数秒だったかもしれない。少しして落ち着いてくると確認しないことで何に掴まれているのか分からない恐怖が何かが手を掴んでいる恐怖を上回った。
誰もいないはずの部屋で手を掴まれているより、何が手を掴んでいるのか分らない方が怖い。
おそるおそる、左手を掴んでいる存在を確認した。
床に座り、ベッドに手を掴んだ状態倒れかかって寝ている殿下の姿があった。
「???」
見間違えかもしれない。今度はしっかりと観察するように見た。手を掴んでいる男はベッドの縁に手をかけたまま、体を支えられずに崩れ落ちるように眠っている。王族が持つ黄金の髪は乱れていた。その寝顔は静かで、いつも見ていた凛々しい表情とはまるで違っていた。また、その造形は目の下に大きなクマができていることを除けば、カイル殿下で間違いなかった。
「どうして……」
セリスは声を押し殺しながら、絞り出すように言葉が漏れた。その問いは彼に向けたものだったのか、自分自身へのものだったのか、答えは曖昧だ。
処罰を言い渡しに来たのだろうか?
――そんなこと、部下に任せればいいだろう。
痩せ細った醜い私を嘲笑いに来たのだろうか?
――もしそうなら、どうして私のそばで眠っている?
まさか、私を見舞いに来たなんていうつもりだろうか?その可能性を考えた瞬間、忘れようと心の奥底にしまった恋心が悲鳴を上げるように痛んだ。なんで、なんで今更――。
怒りが込み上げてきた。こんな見舞いに来るような姿を見せるぐらいなら、初めから――。
右手に掴んでいた水の入った銀のコップを衝動的に振り下ろしていた。コップは殿下の右側をかすめて床に落ち、甲高い音を立てて転がる。水が四散し、部屋の静寂を乱しすと共に自身の心も大きく乱れた。
「どうして、どうしてなんですか?」
思わず漏れた小さな声は怒りよりも悲しみに満ち満ちていた。甲高い金属音が鳴ったにも関わらず、殿下はまだ寝ている。
「座学が嫌いなのに、王妃教育を頑張ったんです。カイルが王国創世記が好きだと聞いて、理解しようと無理して読んだんです!私は……」
今までの溜め込まれた想いがダムが決壊したときのように涙と共に溢れ出した。淑女として物静かにしていたけれど、本当は体を動かすのが好きだった。殿下との婚約を心から望んでいなかったら森で
雪崩を起こす言葉はだんだんと何を言っているのか自分でも分からなくなってきた。
「こんなに……こんなに愛していたのに、どうして……!」
声が震え、言葉が途切れ途切れになる。涙で視界が滲み、殿下の顔さえ見えない。今まで、誰にも弱さを見せないように耐えてきた。その分をすべて吐き出すかのように、涙が止まらない。
「セリス……本当に、ごめん。俺が、全部……」
近くで聞こえるカイルの声が震えていた。言葉は紡がれるたびに、胸を切り裂くような痛みを含んでいるようだった。
だが、その声を耳にすると、どうしようもない悲しみと怒りが胸の奥で渦巻いていたはずなのに、不思議とそれも薄れていくような気がした。疲労と涙で意識が霞む中、カイルの声だけが微かに届き続ける。
「ごめんな……、すまない……」
優しく、どこか切ないその声が、何度も何度も繰り返される。
涙を流し尽くした後の身体は驚くほど重く、まるで力を奪われたかのようだった。最近、まともに食事を取れていなかったせいか、今まで泣き続けていたことで体力を使い果たしてしまったのだろう。
カイルがそっとベッドに私の体を横たわらせたような気がした。その時、離された左手から柔らかい温もりが離れ、外気に触れつめたく冷やされた。その冷たさがカイルと離れ離れになってしまうような幻想を抱かせた。だが、体は休息を求めていて手を取ることさえできず、静かに目を閉じた。彼の声が、遠くから聞こえるように感じられた。
優しく、ふんわりと左手を握られる。
「絶対に幸せにするから……。」
その言葉と左手に戻ったあたたかい温もりに導かれるように、私はふわりと意識の底へと沈んでいった。痛みも悲しみも感じない、深い眠りの中へ――。
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