第2話 粗雑な手紙

[side: セリス・ホオズキ]


 ――お腹すいた


 いつの間に寝ていたのだろう。まだ眠気が抜けない。無意識にベッドの横にあるサイドテーブルの上にあるベルを鳴らそうとした手が宙を彷徨った。



 ――あぁ、ここはホオズキ邸じゃなかったわね



 懲罰室の中には当然、誰もいない。呼べば近くに人がいたこれまでの生活を当たり前に享受していた私は寂しく感じた。



 壁側にある机にはパンと冷え切ったスープ、紙が3枚、置かれていた。一つの紙には一日3食がスロープを伝って届けられること。食べ終わった皿をスロープに流して返却することが書かれていた。


 他の紙はレナードという騎士の昨日と今日のスケジュール表だった。なぜここにこんなものがあるのかよくわからない。



 食事を取る気力も失せたまま、机に向かう。一人でとる食事は調味料を入れ忘れたように味気がなかった。


 心の中の何か大切なものがなくなって薄ぼんやりとした寂しさが私の心を覆っていった。



 逃げ出せないよう厳重に鉄格子が外と内の両方に嵌められた窓からは夕焼けの光が差し込み、今日という日が終わりを告げている。そのことがより一層、孤独感を加速させた。



 数日が過ぎる頃には、静けさが耳鳴りのように響く。最初は気にならなかった食器の音や自分の足音さえ、今では心の中をかき乱すように感じた。


 自分は冷静な令嬢だと思っていたのにただ臆病なだけだった。ただの臆病者でしかない。その事実に向き合うことがどうしようもなく怖くて気づかないふりをしていた。


 失敗してカイルに拒絶されるのも、批判されるのも怖かった。それが私を縛り、身動きできなくさせていた。


 王太子妃は完璧でないといけない。



 ただこの事を言い訳に自分から行動を起こすことはなかった。行動に起こさなければ失敗はしないものだと思っていたから。


 心の中で本当は分かっていたのだ。何もしなければ何も変わらないし、何も得られないということを。



 王太子妃は人の上に立つものとして行動しないといけないということも。それでも、動き出せない自分を正当化していた。

 冷静だとか、慎重だとか、理性的だとか。そんな言葉で自分を包み込んで、結局ただの「臆病」である事実から目を背けていただけだった。


 そして気づいたときには、手の中にあったはずの一番大切なものが、いつの間にか指の隙間から零れ落ちてしまっていた。


 今さら後悔しても無駄なのに1週間経っても私はまだ、あまりしつこくカイルに話しかける令嬢にカイルを取られないように動かなかったことを後悔している。


 あんなにはっきりと婚約破棄をしてほしいと言われたのにまだカイルを諦められない自分が、辛い苦しいと泣いていた。


 カイルの目に映るのは私ではなく、クレマチス嬢だと分かっているのに。あの優しい笑顔がもう二度と私に向けられることはないと悟っているのに。それでも、心のどこかで彼が振り向いてくれる日を夢見てしまう。


 自分の中に残る未練が苦しい。自分のことを誇り高い令嬢だと思っていたけれど、こんなにも過去にしがみついている姿は、あまりにみっともない。彼に見せたくない一番醜い部分を、今、自分自身が見つめている気がする。


 それでも――諦めることができない。

 こんなにも拒絶されても、心のどこかで彼を待ち続けている自分がいる。

 カイルを想う気持ちは、理性で止められるものではなかった。どうしてこんなにも、彼を好きでいることをやめられないのだろう。


 ――あぁ、醜い自分が嫌いだ




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 





 暗くなって、また明るくなる。今日も新しい1日が始まったことを格子窓からもれる光が教えてくれる。


 毎朝起きると見る殺風景な部屋と冷える秋の朝はいつになっても慣れない。その度に「あぁ、自分は幽閉されたんだったな」ということを思い出し、胸が重く沈む。


 どれだけ気が滅入っていてもお腹は空く。トボトボと重い足取りで、朝食が届けられるスロープ付きの机に向かった。


 今日は硬いパンと冷めたスープの他に破られたのをつなぎ合わせたような粗雑な手紙が届けられていた。


 ―――――――――――――――――――

 ホオズキ・セリス嬢へ

 今日の昼食後に懲罰室に迎えを出す。

        カイル・フォン・エリシア

 ―――――――――――――――――――


 最初は戸惑い、次に胸が高鳴った。


 今さら、何の用があるのか……?


 そう思う一方で、心の奥底でほんの少し嬉しく思っている自分がいることに気づいていた。

 カイルは私の名前が入った書類が本物だという証拠はない、と言っていた。もしかしたら、容疑が晴れたのかもしれない――そんな期待が、胸の中で膨らみ始める。


 パンを一口かじり、冷たいスープを飲み込む。だが、スロープに皿を返却した後、期待を抱く自分を諭す声が頭の中に響く。


「期待しないほうがいい」


 期待するほど、それが裏切られたときの傷は深い。先日、裏切られたばかりじゃないか。

 それでも心のどこかで、少しでも希望を抱いてしまう自分がいることが、もどかしかった。


 ガチャ ガチャ ガチャン


 金属製の扉が開く音が響く。その重々しい音に反射的に振り返る。


 昼食をまだ取っていないのに、もう迎えが来たのか――そんな疑念が頭をよぎる。けれど、すぐに気づいた。私の生活リズムが崩れきっているせいで、先ほど食べたものが実は昼食だったのだと。


「ついて来い。」


 扉を開けた騎士はセリスを見て顔を顰めるとそう短くぶっきらぼうに命じてきた。


 その態度は信じられないほど粗雑だったが、今の私には気にする余裕すらなかった。


 どうしよう。どうしよう。

 まだ起きたばかりで、さっき食べたパンとスープを朝食だとおもっていた私の髪は乱れ、服装も整えていない。こんな姿でカイルに会うなんて――。


 けれど、騎士は私が外に出るのを苛立たしげに待っている。急かす彼に合わせる気はさらさら無い。とにかく今はできるだけ早く身だしなみを整えなければならない。私は急いで鏡の前に立つ。


 その瞬間、目の前に映る自分に息を呑んだ。


 目の下には黒いクマがくっきりと浮かび、髪は乱れ、肌も荒れていた。どこにも美しさのかけらがない。鏡に映っているのは、もはや別人としか思えないほど醜い姿だった。


 ――誰?


 分かっている。分かっているけど、信じたくなかった。


 こんな姿のまま、カイルに会うなんて絶対に嫌だ――心の中でそう叫ぶものの、時間は容赦なく流れていく。


「ついて来い。」


 部屋の外にいる騎士がもう一度、短く命じる。今度のその言葉には苛立ちが過分に含まれていた。だが、私は鏡の前から動けなかった。

 目の前に映る、自分とは思いたく無いほど醜い女。


 こんな姿でカイルに会うなんて――そう考えると足がすくむ。


「……まだ、準備が――」


 か細く声を絞り出した私の言葉を遮るように、騎士が苛立たしげに床を踏み鳴らし近づいてきた。


「準備だと?罪人様は随分と気楽なこったな。こっちは時間がねえんだ!」


 騎士の声は冷たく荒んでいた。次の瞬間、彼は私の腕をつかみ、強引に引っ張った。


「ちょ、ちょっと待ってください!まだ――!」


 抗議の声を上げる間もなく、私はその場から無理やり引きずり出された。


「黙れ!」


 鋭い声が飛び、腕をつかむ力が強まる。抵抗しようとしても、相手の力の前では無意味だった。騎士の手は痛いほどに私の腕を締めつけ、歩調を合わせる余裕すら与えてくれない。


「嫌だ、こんな姿で行きたくない。こんな――」


「黙れと言っただろうが!」


 鋭い怒声とつかまれた腕に感じる痛みに言葉が喉で詰まる。屈辱と焦りで胸が張り裂けそうだった。


 どうして、こんなことに――。


 髪は乱れたまま、服も整えきれない。何より、この疲れ切った顔。

 こんな姿をカイルに見られたくない。彼にとって私はもう婚約者ですらないのに、これ以上惨めな姿を晒したくなかった。


 けれど、そんな私の思いを察する様子は騎士には一切なく、彼は無言で歩みを進める。その力強い引きに振り回されながら、私はただ従うしかなかった。

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