第3話 萎れる花
[side: セリス・ホオズキ]
着いた。着いてしまった。カイルが待っている部屋の扉に。扉を前にした瞬間、胸の奥から嫌悪と恐怖が渦巻くように湧き上がる。
嫌だ。入りたくない。
どれだけ惨めな思いをさせれば気が済むの――?
逃げたい。後ろを振り返り、その場から駆け出したい衝動に駆られる。けれど、ここまで来る間、何度も試みた逃走はその度に騎士によって封じられていた。後ろには退く事を許さぬとばかりに巨漢の騎士が控えている。
力強く肩を掴まれ、押さえつけられたときの痛みと苦しさ。まだ痛む腕と肩の痛みが私の足を根のようにその場に縛り付ける。抵抗する気力も、もはや残っていなかった。
「中へ入れ。」
無機質な騎士の声が響く。力強い手に背中を押され、私はよろめきながらも仕方なく扉をくぐった。
視線は床に落ちたまま。カイルにこの顔を見られるわけにはいかない。乱れた髪、疲れ切った顔、惨めさを隠しきれない自分。
――こんな姿、見せたくないのに。
「おい、ホオズキ嬢はどこだ?」
部屋の奥から、カイルの低く冷たい声が聞こえる。その声が突き刺さり、思わず身震いした。
「彼女がホオズキ・セリス嬢です。」
騎士が冷淡にそう告げ、私の顔を上げさせる。瞬間、背筋が凍る。
自分の存在がカイルに指し示され、顔を見られたこと、それが何よりも恐ろしく、恥ずかしかった。
カイルが私を見て言葉を発する――その瞬間が訪れるまで、息すらできなかった。
見ないで――見ないで――
心の中で何度も叫びながら、私は騎士に顔を上げさせられたまま動けずにいた。
すると、カイルの隣から人の癇に障るような、嘲る声が届いた。
「これがホオズキ嬢ですか〜?カイルに招待されたのに、顔も整えずに来るなんて無礼ですよ。」
クレマチス嬢だった。その声音は、あまりに挑発的で、意地悪げだった。
「元婚約者として恥ずかしくないんですか?」
「それともこんな姿でも堂々と来れるんですね。私だったら絶対、耐えられません」
一言一言が、心に爪を立てるように刺さってくる。
――もう黙っていて、お願い。
そう願うのに、クレマチス嬢の口は止まらない。その声が、私の心の奥で耐え続けていた何かを、次第に押し崩していく。
怒りが込み上げてきた。何も知らないくせに、勝手なことばかり言うクレマチス嬢に、耐えきれなくなった。
「いい加減にしてください!」
思わず大きい声が出た。その瞬間、驚いた騎士の手が緩み解放された。
それと同時に自分の中で抑え込んでいた感情が爆発するのを感じた。その感情に任せ、私は彼女に詰め寄る。
「私がどれだけ努力してきたかも知らないくせに――!」
クレマチス嬢に向かって残り一歩踏み出し、言葉を投げつける。
彼女が驚いたように目を見開くのが見えたが、すぐに人を馬鹿にしたような挑発的な笑みを向けてきた。
次の瞬間、振り上げられた私の手首を強く掴む力が襲う。
「セリス、やめろ。」
カイルだった。その顔は険しく、私を制止する冷たい視線が、今までにないほど心を切り裂いた。
――カイルが、私のためじゃなく、クレマチス嬢のために動いた。
その事実が胸を抉る。
――あぁ、もう、本当に終わりなんだ。
怒りは消え失せ、冷たい虚無感が胸を支配していく。
彼をどれだけ想っても、どれだけ努力しても、彼には何も届かない。
私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
「……
掴まれた手をゆっくりと振りほどき、目を伏せた。
あの大好きだったいつも優しく微笑んでくれたあのカイル。私を気にかけ、手を差し伸べてくれた彼。そんな彼と同じ顔をした殿下をこれ以上見たくない。私の中の残りわずかなものまで壊れてしまいそうだったから。
――もう、いい。こんなにも想い続けたのに、無駄だった。全部――そう全部、無駄だった。
殿下に背を向けてゆっくりと部屋の外へと向かう。殿下が何かを言っているけれど、もう殿下の声は私の心に届かない。あの態度の悪い騎士が私が部屋を出るのを防ぐように前に出ると小さく呟いた。
「殿下がお前なんかを―――」
その言葉が私の心を強く刺激した。
気づいた時には私は剣を奪い、斬り殺していた。
――部屋全体が凍りついたような、張り詰めた沈黙が広がる。
足元に倒れた騎士の鮮血がじわりと高級な国名と同じ名前をつけられたレムリアの花柄の絨毯を染め、その匂いが私の鼻先をかすめた。手の中には、まだ暖かみを帯びた剣が握られている。
――やってしまった。
冷静になれない頭の片隅で、私はぼんやりと思った。初めて人を殺してしまった。それでも、不思議と後悔は湧いてこなかった。あの騎士の態度は、私を見下し、痛めつけ、侮辱し続けた。
そして、最期の言葉。それを言わせては私のすべてが壊れる。そんな予感がした。それを思えば、この結末は当然の報いだとさえ感じている自分がいた。
ただ、浴びた返り血が生ぬるくヌメヌメしてて気持ち悪かった。
「……セリス。」
殿下――カイルの低く絞り出すような掠れた声が耳に届く。
「セリス……」
彼の言葉に込められた感情は、怒りなのか、驚きなのか、それとも失望なのか――そのどれもが混ざり合い、判別できない。ただ、その声の重みが私の背中にのしかかる。
私はゆっくりと振り返った。カイルが立っている。彼の視線は倒れた騎士の遺体と、私の手に握られた剣に注がれていた。隣にいたクレマチス嬢は、驚愕に顔を青白くさせて後ずさった。
「殿下。」
自分でも驚くほど冷えた声が口から出た。その声には、かつての愛や期待の欠片もなかった。残っているのは虚無だけ。
「これで少しは分かっていただけたでしょうか。」
私が彼をどれだけ追い詰められていたのか、どれだけ貴方を愛していたのか――。
剣を握る手の感触がどんどん薄れ、力を失っていくのが分かる。カランカラン、と音を立てて剣が床に落ちた。その音が、部屋の中に響き渡る。
「どうぞ、殿下のお好きに処罰してください。私には、もう失うものなどありません。」
自嘲するように笑みを浮かべた。ここ数年で初めての笑みかもしれない。自由とは、自分の命すらどうなっても構わないと思う境地だ。それが訪れた時、人はようやく恐れから解放される。
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。恐れも、悲しみも、怒りもすべて飲み込んで、ただその場に立ち尽くす。
――カイル、貴方がどう思うかなんて、もう私には関係ない。
静寂の中で、私の言葉が空間に漂い、消えていった。
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