第6話 終わらない夜

[side: カイル殿下の筆頭護衛騎士のグレオ・エヴァンス]


「セリスを……懲罰室に戻しておけ、……処分は後ほど出す」




 殿下の口から捻り出すように言葉が漏れた。



 その言葉はまずい––––不味すぎる。



 殿下がセリス嬢をどう思っているか、昔から知っている私は、殿下が今、何よりも時間を必要としていること、そしてセリス嬢にも落ち着いてほしいという気持ちがあるのを理解している。だが、こう言ってしまうと、セリス嬢が心を閉ざしてしまうのではないかと心配だ。


 セリス嬢の姿は、今までにないほど黒く、重苦しいものだった。しかし、無視すれば、余計に事態が悪化してしまう。放っておけない。今、今日セリス嬢に伝えるつもりだったことを言うべきだ。


 分かってはいても今の殿下は一人称が私から俺に変わっているほどに取り乱している。今、殿下にセリス嬢に説明をしてもらうのは不可能だろう。


 殿下の命を聞いた騎士がセリス嬢を連れていく。彼らに任せておけない。私は殿下の筆頭護衛騎士としては問題だが彼らと共にいくことにした。


 やっぱりついて行って正解だった。


 セリス嬢は返り血で濡れて大変なことになっている。それなのに彼らはハンカチを渡すこともなく、そのまま直接、懲罰室の方へ行こうとした。



「ホオズキ嬢、まずは湯浴みをして服を着替えましょう」



 ホオズキ嬢に声をかけるも無表情で反応が返ってこない。それでもメイドに湯浴みをさせるように頼んだ。


 懲罰室についた時私はいても立ってもいられず、思わず口にした。



「殿下はセリス嬢のことを何よりも大切に思われています。そのことだけはどうか、どうか信じてあげてください。」



 セリス嬢が本格的に命が狙われるようになり始める前の仲が良かったあの時のように殿下とセリス嬢は心から笑い合って欲しい。


 そのためにも殿下が気が回らない部分は自分がサポートしようと決意した。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 




[side: セリス・ホオズキ]


「殿下はセリス嬢のことを何よりも大切に思われています。そのことだけはどうか、どうか信じてあげてください。」


 懲罰室の前でグレオ卿は祈るようにそう言った。ガシャン という音がすると共に外の世界と私が切り離された。そのせいか、今までの緊張が一気に解けてその場に崩れ落ちた。


 私は––––私は人を殺してしまった。あの時、どうしてあんなにも冷静でいられたのか、今でも信じられない。目の前で人の命が失われる瞬間を、どうしてあんなにも自然に受け入れてしまったのか。


 今もまだ、帰るまでに湯浴みをして血は流れて見えなくなったけれどあの騎士を斬った瞬間の感触が、今も手に残っている。返り血の暖かさ、肌を流れる冷たい感触が、今も消えない。


胃の中にあるものが逆流して止まることもなく口から溢れ出した。



 自分は冷静じゃなかった。どうして、どうして殺してしまったんだろうか。殺してしまわなければ––––いや、無理か。「セリス、やめろ」と責めるように私を見て強く掴まれた腕が赤く痛んだ。



 殿下はクレマチス嬢を傷つけられそうで私に怒鳴った。なのに冤罪が晴れたから呼ばれていたなんていうことはないだろう。


「ふふっ」



 今にもなって騎士を斬らなければ、冤罪が晴れていたんじゃないかと期待するなんて自分の能天気さには呆れるほかない。



「セリスを……懲罰室に戻しておけ、……処分は後ほど出す」と殿下は怒りを恨みを無理矢理、押し殺しているように声が掠れていた。なのにどこに希望が持てるというのだろう?




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 



 いつも通り、スロープから夕飯が届けられた。ただいつもと違ってパンとスープ以外に牛のコンフィ牛を低温でじっくり焼いた料理が一緒に届いた。


 昼にあんなことをしでかしたのにメインが届くようになった意味が分からなかった。コンフィは切れ目が綺麗に赤く仕上がっている。思わず騎士を斬った右手を見た。



 刃が肉を裂く瞬間の感覚が、今も指先にこびりついているような気がして、吐き気が込み上げる。返り血が肌を流れたまるで温かい油のように不快で、牛の血の匂いが鼻につき、胃がひどく揺れた。




 目の前にある赤く焼き上げられた肉は、まるで生々しい血を思い起こさせる。セリスは目をそらしたくても、責められているかのように感じられてそれができない。肉を切り裂いた時の音や、刃が騎士に触れた瞬間の感覚、そしてその後に襲った暖かい血の感触が、食事を前にした今も頭の中で再生される。牛の血の匂いが、あの騎士の血の匂いと重なり合って鼻を突く。


 胸が締め付けられるような重苦しさに包まれ、手が震えてきた。どれだけ無理に気を逸らそうとしても、その感覚から逃げることができない。


 あの時の血の温かさが、今でも肌に残っているような気がして、セリスは無意識に手を洗うように擦り合わせた。返り血が流れた時の感触が、今でも指先に焼き付いていて、何度手を擦り合わしても服で拭っても消えない。あの感覚が、どこまでも追いかけてきて、胸が詰まるようだった。


 コンフィの香りも、かすかに血の匂いが混ざっているような気がして、セリスは食べることができなかった。今は、食事を摂る気力もない。目の前の食事が、まるで自分があの瞬間に切り裂いた命の象徴のように感じてしまい、ベッドの中に入って布団をきつく体に巻きつけた。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 




 辺りには音もなく、ただ冷たい静寂が支配している。目の前にぼんやりとした影が現れた。影の輪郭は不気味に揺らめき、体の所々が腐り、ドロドロと崩れ落ちていく。その崩れた肉片や液体が地面にシミを作りながら広がっていく様子は、目を背けたくなるほどに生々しい。


 その影は、ぼそりと低い声で「生きたい」、「死にたくない」と、苦しげに譫言のように繰り返していた。その声には命の執着と絶望が混ざり合っていて、聞いているだけで胸を締め付けられるような痛みを感じた。


 そして、突然その影が私に目を向けた。目は深い憎悪と怒りに燃え、まるで全てを呑み込むかのような勢いでこちらを睨みつけている。その視線が突き刺さると同時に、体が金縛りにあったかのように硬直し、動けなくなった。恐怖で声を上げようとしても喉が塞がり、かすかな嗚咽が漏れるだけだ。


 影は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その度に腐敗した体から崩れ落ちるものが、嫌な音を立てて地面に落ちる。それなのに、影そのものは決して止まらない。逃げたいのに体が言うことを聞かない。


 影がすぐ目の前に来た時、口が裂けるように開き、不快な音とともに言葉を発した。


「ヨ゛・ グ・ モ゛––––ゴロシタナ」


 その言葉は耳ではなく、直接頭の中に響いてくるようだった。その瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、心臓が止まりそうなほどの恐怖が押し寄せてきた。影の気配が濃厚に周りを包み込み、息が詰まる。世界がどんどん狭くなっていくようで、私の意識は暗闇に飲まれていく……。

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