05. サンデー・ハンコック
一面の若草が揺れる丘の上、背丈の低い門扉を押して、ジーンとコディは振り返った。
古い灯台を背に、二人の若者を見送るペネロピが初夏の風に吹かれている。
ジーンは網に入れたボールを肩に担ぎ、小さく手を振った。
「じゃ、行ってくる」
「行ってきます!」
コディも帽子を押さえながら元気よく続く。
「いってらっしゃい、二人とも気をつけて。お母さん、おやつを作っておくからね~」
ペネロピは微笑んだ。
素敵な午前だった。雲一つない青い空、砂糖細工のような可愛らしい色の草原。
坂を下った先に見える白い町並みは日差しを照り返し、石英のように煌めいている。
ジーンとコディは、美しい風景が目につく度、ささやかな話をして歩いた。
半刻もすれば、市街地中央の広場に着く。
広場といってもそう大層なものではなく、舗装されただけの空き地だ。円形に広がり、四方八方に大小の道が伸びている。
中心ではすでに町の子どもたちが集まって、地面に落書きをして遊んでいた。
少年の一人がジーンに気がつき、毬のように駆け寄る。
「あ、ジーン兄ちゃん!」
「おー」
続いて飛びついてくる子どもたちをジーンはしっかりと受け止める。子どもたちは腕にすがりついて、ぶら下がっては歓声を上げた。
「すいません、すぐ済ませるんで」
きょとんとしているコディに会釈をして、ジーンは少年たちと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。袋から使い込まれたボールを取り出す。
「約束なんだけどよ、今日は遊べなくなっちまった。悪いな」
代わりにボールを預けておこう、と手渡すが、子どもたちは次々に落胆した声を出す。
「なんでー?」
「お仕事!」
立ち上がったジーンがどんと軍服の胸を叩く。
子どもたちは互いに顔を見合わせてから言った。
「いつも暇なのに?」
「兄ちゃん本当に働いてたんだ」
「待てや」
ジーンは顔を引き攣らせながら、隣にいる青年が大切な客人で、おもてなしするようマイルズにお願いされているのだと丁寧に説明した。すると、子どもたちはすべて理解したように頷き合うと、間髪入れず新たな提案を出してきた。
「じゃあ帽子のお兄ちゃんも一緒に遊ぼうよ」
「遊ばない!」
ジーンは両手を広げ、大袈裟に拒否のサインを描く。コディは首を傾げた。
「え、遊びましょうよ」
「遊ぶの?」
途端、子どもたちはボールを抱え、嬉しそうに散らばった。
***
正午も近くなった頃のことだった。
ボールは元気な少年たちに渡したまま、ジーンとコディは女の子たちのあやとりに付き合っていた。
突然、何かが割れるような音と、怒号、子どもの泣き声が相次いで響く。出処は、広場から繋がる狭い通りのようだ。
「何だ?」
咄嗟に立ち上がったジーンたちの元に、半泣きの少年たちがやってきた。混乱しているらしい説明は要領を得ないまま、少年たちはぐいぐいとジーンの袖を引く。
訳も分からず連れて行かれた先には、不安げな顔の人だかりがあった。
古株の漁師が赤ら顔で叫ぶ。
「やめろ、ハンコック!」
制止されているのは、みすぼらしい身なりをした中年の男だった。灰色の髪は薄汚れ、着込んだ衣服はぼろぼろだった。
ハンコックと呼ばれた男は片足を引きずって、路上に立ち尽くす少年に近づいていく。
「やめるもんか! 毎日毎日やかましく走り回って、耳障りだった!」
ハンコックの片手には空の酒瓶が握られている。それを乱暴に振り回し、彼は道端に散らばったガラス片と水溜まりを指した。その傍らにはボールが転がっている。
「挙句このガキ、俺の酒を台無しにしやがった! それも、まだ一口しか呑んでない奴を!」
人だかりに押し退けられながらも、ジーンは何とか状況を把握した。
どうやら、少年が蹴ったボールが丁度当たって、路上で酔っていた彼の酒瓶を割ってしまったらしい。
「ご、ごめんなさいっ」
「謝って済むかァ!」
少年は自分の服の裾を掴み、絞り出すように謝る。
しかし、ハンコックは激昂し聞き入れず、少年へ向けて空き瓶を振りかぶった。
一瞬のことで、割って入るは間に合わない。観衆から悲鳴が上がる。
「ひっ……!」
「待ってください!」
空き瓶が、ぴたりと宙で止まる。
いつの間にかハンコックの後ろに回り込んでいたコディが、彼の手首を掴んでいた。
そのまま強く締め上げ、空き瓶を離させようとする。
「邪魔すんじゃねえ!」
「小さな子どもですよ!」
「それがどうした、悪いのはそのガキだろ!」
足を引きずり、なおも暴れるハンコックに、コディも声色を険しくする。
「引けないというなら、僕も少し手荒にします!」
「准将! やめろ!」
ようやく人波を割って現れたジーンが、ぐうっと二人を引き離した。
息を整え、ハンコックを指差す。
「おい、あんた。その子にボールを貸したのはオレだ」
それから、自分の顔を指してはっきりと言った。
「だから、どうしても腹の虫が治まらねえってんなら、オレを殴れ」
「何だと?」
「何を言ってるんですか、ジェイド上等兵!」
動揺するコディと同じく、野次馬もどよめく。
しかしジーンは意にも介さず、もう一度言った。
「殴るならオレだ。気が済むまでオレを殴ったら、ごめんなさいも冷静に聞けるだろ」
呆気に取られていたハンコックは灰色の頭をぐしゃぐしゃと掻いて、それから歯を見せて笑った。
「……ハッ、そうかよ! 買ってやるぜ、遠慮はナシだ」
その瞬間、ハンコックの空いたほうの拳が、ジーンの鳩尾を貫かんばかりに打ち上げた。
「……っ!」
思わず前屈みになるジーンのこめかみに、続けて横のフックが鋭く入る。
「もう一発だ。まだ元気だろ? 若いっていいよなあ」
視界が回る。
ジーンは意識を遠くして地面に座り込んだ。ハンコックは鼻を鳴らして水差しを掴むと、そのまま引っくり返して頭から水をかける。
みるみるうちに白い髪が重たげに透けて貼りつく。
咄嗟に遮ろうとするコディを止め、ジーンは濡れた軍服を掻き分け、懐に手を入れた。
ハンコックは、気取ったこの若者はやはり我慢できなかったのだと思って喜んだ。
「フン、銃でも出すか? いいぜ、その年じゃ戦場に出たこともないだろうな。ハハ、俺は軍曹だったんだぜ! リードしてやる、童貞卒業と行こうじゃないか」
興奮してまくし立てるハンコックだが、ジーンはぎこちない手つきで拳銃を取り出すと────ズボンの裾で水気を拭った。
「うっかり壊すと殺されんだ。新品だからよ」
ジーンは力なく笑う。
すると、ハンコックはすっと笑みを消し、左手の空き瓶でジーンの頭を殴りつけた。
暗緑の破片が散る。俯くジーンの額から、真っ赤な血が滴り始めた。
「……やっぱりお前は『新世代』だ。自分で戦ったこともない、人を殺したこともない、理想ばっかの腑抜けの顔だ」
ハンコックはジーンの胸倉を掴み、思い出した何かに苛まれているかのように喚いた。
「そういう奴らが汚れた俺たちを踏みつけて! 善いこと言って、きらきら輝いて! ムカつくんだよ!」
それから震える手でジーンの右手の上から銃を掴み、自分の胸に押し当てる。
「頭のいかれたアル中なんか撃てばいいだろ! 俺たちは幽霊なんだ、明るい世界じゃ目が眩む! いつかおかしくなって、死に損ないの悪役として、退場するしかないんだよ!」
ハンコックの支離滅裂な言葉に、周囲は意味が分からず眉をひそめてざわつく。
ただ一人、ジーンだけは、掠れた声で返事をした。
「そうか。オレは……」
自分の手を覆うハンコックの手、その上からさらに左手を重ねた。
血で視界も霞んだまま、そっと押し退け、銃口を逸らす。
「それでもオレは、あんたみたいな人も、守れたらいいなって思ってるよ」
ハンコックは呻いた。息を吸えずに喉が鳴る。
「……っ! 今更! 憐れむな……ッ!」
ハンコックがジーンの銃を奪い取る。次の瞬間、ハンコックの身体は大きく地面に打ち付けられた。コディが彼を投げたのだ。
「もう終わりにしましょう。これ以上は、見過ごせません」
若き将校は静かにそう言うと、勇者に手を差し出した。
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