03. モーガン・マイルズ
チャールズの伝言を受け、ジーンは執務室に向かっていた。
支部の中でも特に静かな、古めかしくも上品な雰囲気の廊下を進む。
目当ての扉はとりわけ大きく、装飾の蛇が威圧的に来客を見下ろす。
ジーンは煙草を咥え直すと、わざとらしく樫の扉をノックする。
「入れ」
「うす」
短い許可に形ばかりの応答をして、ジーンは臆する様子もなく押して入った。
入った正面には、年季の入った机に着いて書類に向かう女がいた。赤い髪を後ろに流し、零れたひと房だけが万年筆の動きに合わせて揺れている。
左手は金色だった。鎧のような
しかし、美女が指輪を嵌めるのと同じように、非対称のシルエットはそれ故に完成されていた。四十路も過ぎたはずの肉体は未だ魅力的で衰えを見せずにいる。
彼女こそが、大戦の英雄と名高いマイルズ大佐だった。
マイルズはずかずか歩み寄るジーンに一瞥もくれず、ペン先を動かして窘める。
「ジーン。何度も言うが、私の部屋で煙草を吸うな。むせるんだよ」
咳払いと共にそう言われ、ジーンは舌打ちをして靴裏で火口を潰した。
「昔は自分も葉巻バカスカ吸ってたくせにィ。年食って健康志向ですかァ?」
ジーンはそう言いつつ、年齢を感じさせないマイルズの整った顔を覗き込む。
その瞬間、歴戦の右手が筆を置き、不用意に近づいたジーンの頭を掴んで締め上げた。
「すいませんした」
必死に机を叩いて限界と反省を伝え、頭蓋骨が割られる前にどうにか許してもらう。
そこでようやく、マイルズの視線がジーンに向いた。真っ赤な紅を差した唇が開く。
「自分が呼び出された理由は知っているな」
「はじめてのお使いらしいっすね」
未だ痛む額を押さえ、ジーンは素直に答えた。マイルズが頷く。
「そうだ。お前のようなカスに任せるのは非常に癪で、耐えがたく、腹が立つことこの上ないが、急な話で手が空いているやつがほかにいなかった」
「光栄であります」
ジーンの仰々しい敬礼にマイルズは構うことなく、彼へ数枚の名簿書類を差し出した。
「お前には、本島から来た将校の接待をしてもらう」
「査察の案内か何かっすか」
「だったらお前には死んでもやらせない。彼はただの休暇、観光客だ。名目上の話だが」
ジーンは書類を受け取り、本島特有の機械打ちの文章に目を通す。
「アヴァロン准将? 聞いたことないな」
「かなり若いからな。私も知らなかった。調べたが、四年前に貴族待遇で少佐に任官されている。そこから順調に昇進して准将だ。噂では政府高官の親類らしい」
「ほえ~、そりゃ接待も必要か。じゃあ任務ってのはボンボンのお守りかよ」
「いや、命令はまだ終わっていない」
マイルズは両の肘を突き、何か思案するように手に顎を乗せていた。
「ここ最近、政府が何かを企んでいる気配がある。私としては彼を手放しにうろつかせたくない」
ジーンが思うに、マイルズはビクター島の女王だった。
彼女はこの島を古い箱庭のように愛している。奇妙な客人が宝物を荒らすことを怖れているのだ。
「つまり接待ってのは偽装で、怪しいから監視しろってことか」
「そうだ。本当にお前は頭だけはよく回るな」
「どうも」
経緯を理解したジーンは、書類を返しながら尋ねた。
「うまくやったら何かご褒美とかないんすか?」
「酒でも欲しいのか」
「海に出せ」
「またそれか」
マイルズは溜息を吐いて荒く髪を掻き上げた。
ジーンとマイルズは十五年近くの付き合いだ。彼の性格も、軍に入った目的もよく知っている。故に、ジーンが未だに父親捜しを諦めていないこともマイルズは察していた。
「いい加減にしろ、お前の父親は死んだんだ。余計なことを考えている内はお前を外には出せない」
ジーンは息を詰めた。それでも身を乗り出して食らいつく。
「でも、死体は見つかってない。死んだって言うのはあんただけだ。島のみんなも、親父はきっとどこかで生きてるって言ってる!」
正直なところ、ジーンにとって周囲の言葉はそれほど重要ではなかった。
しかし、母のペネロピは周囲の慰めを信じ、ずっと夫の帰りを待っている。
その背中を見続けたジーンにとっては、母の祈りが報われないなどということが許せなかった。
父の戦友だったマイルズはジーンの主張にきつく切り返す。
「じゃあ十年も帰ってこないのはどうしてだ。やつは妻子を放っておく男じゃない」
「それは、記憶喪失とか、帰るお金がないとか……」
マイルズの声色が一際固くなる。
「楽観的思考だな」
「大佐が冷たすぎるんだよ、あんたの部下だぞ!」
「……」
食い下がるジーンにマイルズは自分の眉間を摘まみ、とうとう白旗を上げた。
「はあ……仕方ないな。分かった。何事もなく終えたら、次の海上任務に連れていく」
「やったぜ!」
「ワガママ坊主の手も借りたいくらい忙しいんだ。ただでさえ今は海賊船の接近報告が上がっているというのに……」
その瞬間、マイルズの言葉を遮るように電話が鳴った。
喜び踊るジーンを手振りで制止し、背もたれに身体を預けて受話器を取る。
「マイルズだ。……分かった。もう通していい」
どうやら客人が着いたらしい。マイルズは立ち上がり、軽くジーンの襟を引っ張った。
「ジーン、襟を正せ。くれぐれも非礼のないようにな」
軍の外套を翻し、扉の方へ向かうマイルズを、そそくさとジーンも追う。
「失礼します!」
少し高い声が響く。
そうして開け放たれた扉の先には、凛々しい顔立ちの青年が立っていた。
明るい色の髪と目が、白い軍服に映えている。
ジーンは眉を上げた。客人が思っていたよりも幼かったからだ。経歴から同年代か少し上くらいだと思っていたが、目の前の将校は十六か七にしか見えない。
ジーンの驚きをよそに、彼は青白の帽子を胸元に抱え、はにかみ混じりに名乗った。
「コディ・アヴァロンです。准将の位を拝命しています」
「ようこそ、准将。私はモーガン・マイルズ。大佐です」
彼を奥に招き入れながら、マイルズは丁寧に、ゆっくりと挨拶した。
自分よりも遥かに背の高い相手に、コディは緊張しつつも、穏やかに手を差し出す。
「お噂はかねがね。休暇中の身ではありますが、大戦の英雄にぜひ挨拶をと思いまして。お忙しいところを申し訳ありません、大佐」
「いいえ、期待の『新世代』にお会いできて光栄ですよ」
マイルズの返事はまるで本当に心の底からそう思っているかのようだ。つい最近まで彼の名前も知らなかったことなど、相手には決して分かりはしないだろう。
それから彼女はジーンのほうを指し、よそよそしく紹介する。
「こちらはユージーン・ジェイド上等兵。この島の育ちで、住民にも顔が利く。何かあれば彼に用命を」
「……っす」
ジーンは居心地悪そうに顎を引く。恐る恐るコディの顔を窺うと、彼は丸い目で見上げて、両手でジーンの手を取り力強く上下に振った。
「そうなんですね、よろしくお願いします!」
人懐こい、屈託のない笑顔に気圧される。ジーンはマイルズの袖を引くと、コディに聞かれないような小声で問い詰めた。
「話が違うぞババア。こんなきらきらしたのが来るとは聞いてない」
マイルズは顔も見ずにジーンの爪先を踏んだ。
「黙れカス。お前の性根に比べたら大概の人間は金剛石だ」
今から任務が嫌になってきた。ジーンは彼女の踵を蹴り返した。
ジーンの抗議も意に介さず、マイルズは自分のプランを進めていく。
「時に准将。ここは良くも悪くも田舎でしてね。観光の間、この上等兵を傍につけて口利きさせたほうが互いに失礼もないと思うのですが、いかがでしょう」
しかし、穏やかそうな彼も、流石に唯々諾々という訳にはいかないらしい。
「ええと、でも、そこまでは……」
しかし、マイルズも初めに断られるのは織り込み済みだ。言葉を重ねて交渉する。
「どうか遠慮せずに。……その、お恥ずかしい話ですが、現在、島内に海賊が違法に上陸している恐れがあるのですよ。万が一のことを考えると、島に詳しい人間が必要かと」
大声では言えないらしい事情を伝えられ、コディは少し考え込む。しかし、すぐに納得したようで柔らかく頷いた。
「なるほど……気が利かず、すみません。それではお言葉に甘えることにします」
これでジーンの仕事の下地ができた。あとは彼に不審な様子がないか見張るだけだ。
マイルズは優しく目を伏せ、謝意を述べる。
「助かります。ところで、もう宿はお決まりですか? よろしければこちらで手配しますが」
宿まで押さえられれば監視はかなり楽になる。彼がすでに宿を決めていても、自然に聞き出すことができるだろう。
「いえ、大丈夫です! 評判のよい宿を知人の伝手で取っていただきまして」
「それは興味深い。後学のためにも、宿の名前を伺っても?」
マイルズの質問に、ジーンも注意深く耳を澄ます。仕事とはいえ、真夜中まで張りついていたくはない。どうにか宿に先回りして工作しなければならない。
コディは胸元からメモを取り出すと、楽しげに答える。
「ええと……そうだ、『カモメ亭』です! 灯台の下にあって、眺めがよいとか」
「ん?」
マイルズが目を細めた。ジーンも顔を上げる。コディはきょとんとして二人を見た。
「……それ、オレんちじゃねえか?」
かくして、賽は投げられた。
任務終了まで、あと五日。
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