02. ユージーン・ジェイド

 朝のかもめが鳴いている。


 穏やかな日差しが古く分厚いガラスを通って、窓辺をゆらゆらと泳ぐ。

 その真横から張り出すバルコニーでは白髪の青年が安煙草を咥えて遠くの海を眺めていた。

 彼の薄い青緑の瞳は、陽光を受け、水面よりも輝かしくきらめいている。


 この灯台下の宿屋からは、大船小舟が汽笛や掛け声と共に町の港に帰ってくるのがよく見える。庭の長椅子から編み物片手に白波を見つめる、母の栗色の髪も。


 父が帰らず、もう十年になる。毎朝、今度こそ、あの中に母の待ち人がいることを願いながら、青年は黙って一服するのだった。


「ジーン、早く降りてらっしゃい。スープが冷めるわ」


 息子の起床に気がついて、彼の母、ペネロピが柔らかく声をかけた。ジーンは灰を落としながら眉を下げる。


「今朝は客もいないだろ。あとでいい」

「煙でおなかは膨れませんよ。ちゃんと食べてから、家を出て頂戴」


 ペネロピは長年、一人で子どもを育てながら宿を切り盛りしてきた気丈な人物だ。穏やかな物腰でありながら、有無を言わせない圧のある言葉は、ジーンにそれ以上の反論を許さない。

 彼はそそくさと火を潰し消し、自室を飛び出るのだった。


 朝食は卵とチーズのホットサンドに、自家製のサラダ、それからニンジンのスープだった。宿の客からも評判のよい母の手料理である。ジーンは軍の制服に袖を通しながら、片手で器用にサラダをサンドに挟み、大きく頬張った。


 スープを飲み干しつつ新聞に目を通す。もうすぐ戦勝十五周年の式典がセリファス本島にある国軍本部で行われるらしい。

 本島から遠く離れたビクター島の、一介の上等兵に過ぎないジーンにはあまり関係のない話だ。


 朝食を済ませ、表に出る。車庫から赤い自転車を引っ張り出すと、まだ外にいるペネロピに声をかけた。


「じゃあ、いってくる」

「ええ。気をつけて」


 庭を出れば、すぐに坂道だ。自転車にまたがり、町に向かって気楽に下っていく。潮風が額を撫でた。


 複数の島々から構成される海洋国家セリファス、その北西部に位置するビクター島は、観光と海運業で栄える小型の都市だ。


 目立った天然資源こそないものの、長らく財政は安定しており、日々の天気と同じくらい住民たちも温厚で明るい。

 大戦時の重要な拠点だったことから今でも国軍の支部があり、ほかの島に比べて治安にも優れている。


 蔦の絡んだ石灰塗りの町並みを、自転車の赤色が風のように過ぎていく。道端に置かれた揺り椅子で、老女が猫を乗せて本を読んでいる。


「おはよう、ジーン。今日も男前だね!」

「婆さんも若返ってらあな!」


 耳の遠い老女の声はひどく大きく、雀が逃げ出すほどだった。ジーンは負けじと声を張り上げ、右手を振る。

 その二軒隣では髭面の男が窓を開けて白湯を飲んでいる。


「ジーン! 今度の週末に、つたを刈るのを手伝ってくれないかい?」

「蔦のシロップと交換で!」


 後ろに首を伸ばして答えると、庭で花壇の水やりをする妻がにこにこと頷いた。彼女の作るシロップは、町の子どもたちの大好物だ。


 教科書を抱えて教会に向かう子どもたちが、ジーンの自転車を追いかけて走る。


「ジーン兄ちゃん! 次はいつ遊んでくれる?」

「んじゃ明日な! 広場で集合!」


 町の人々は口々にジーンに語りかけ、彼は一つ一つに応えて通り過ぎる。

 そうして市街地を抜けると、いよいよ港が見えてくる。灰色の波止場を、魚鱗と、鮮やかな塗装の船舶が飾る。


 ジーンの目的地は、その先に堂々と構える国軍の支部だ。

 空に鳶が飛んでいる。船の汽笛が出港を告げた。


***


 煙草を片手にインスタントコーヒーを淹れ、ジーンは窓際の自分の席に着く。

 一口飲んで顔をしかめ、カップをコースターに置いた矢先、上から何かが降ってきた。重たげな震動の所為で黒い飛沫が飛び散る。


 ジーンの目の前に置かれたのは、山ほどの機械が詰まった箱だった。


「ジェイド上等兵、今日は通信機を直しておいてくれ」


 後ろに立っていたのはジーンの隊長だった。

 ジーンが何か答える前に、隊室の扉が勢いよく開き、廊下から別の隊員たちが顔を出す。


「報告書の清書も頼むぜ」

「あと掃除」


 壊れた通信機の詰まった箱に、書類とバケツとモップの柄が並ぶ。ジーンは煙草を圧し折って、我慢ならずに言い返した。


「自分でやれよ! オレの仕事じゃない」


 彼らの目は子どもの癇癪でも見るようだった。

 隊長はジーンの額を軽く指で弾いて、鼻先すれすれに顔を近づける。


「お前は暇だろ。俺たちはこれから海に出るんだよ。帰ってくるまでの五日で済ませとけ」


 その言葉で、ジーンはまた自分が海上任務から外されたことを知った。


「またかよ!」

「連れていけないのはマイルズ大佐の命令だ。俺たちがいじめてる訳じゃない」


 いつものことだ。初めての航海で上官の不興を買って以来、ジーンは一度も艦に乗せてもらえていない。平和なビクター島では、代わりに与えられる仕事も下働き程度のもので、挽回の機会もなかった。


「お前、これでも大佐に相当甘やかされてるんだから自覚を持てよ。普通ならクビだからな」

「あ、今日は煙草消しとけ! 客が来るらしいから」


 同僚がジーンの指から煙草を抜き取った。乱暴な手つきの所為で、熱い灰がジーンの手の甲に落ちる。


「あちっ! クソ野郎!」


 ジーンが灰を払って思わず悪態を吐くと、同僚たちは呆れたように頭に手をやった。


「はあ、怠け者で礼儀もなってねえ、こんな不良軍人に育っちまって。親父さんが帰ってきたら泣くな」

「お前の親父さんは真面目で立派な人だったのになあ。顔は似てても中身は全然ちげえや」

「親父と比べんな!」


 おいおいとわざとらしく泣き真似をする隊長たちにジーンは肩を怒らせる。顔も碌に覚えていない父親のことを、こうして他人から聞かされるのは妙に嫌な気分だった。


 ジーンをからかい、気が済んだ同僚たちは自分の荷物を掴んで部屋を出ていった。


「とにかく、大佐にチクられたくなかったらきっちり働けよ!」


 その背を睨みながらジーンは新しい煙草に火を点ける。それから、不満を紛らわせるようにモップを掴んだ。


 数刻後。ジーンは工具片手に通信機と格闘していた。ようやく半分ほどを使い物になるようにしたところだ。


 そこに壮年の男が呑気にやってきた。事務担当の職員、チャールズだ。雑用の関係で話すことが多く、支部内では珍しくジーンと親しい人物である。


「おーっす、今日も雑用係か」

「見ての通りだよ!」


 買ったばかりだった煙草をとうとう一箱分空けて、ジーンは最後の一本を咥えた。

 チャールズは直った通信機を手に取ると感心したように喉を鳴らした。


「お前は器用で賢いからみんな頼りたいんだろ。一応『新世代』だし」

「欺瞞だ……」


 ジーンはそう小さく呟いた。

 セリファスの人間は、この十五年の間に成人した世代を『新世代』と呼んでいる。


 大戦後、復興の波に乗り、名を上げる若者が表裏の世界を問わず各地に現れた。華々しい活躍を見せる彼らを、大人たちは畏怖と期待を込めてそう呼ぶのだ。


 今年で二十二になるジーンも理論上はその括りに入るが、実態としては、読み書き計算が得意で頑丈な道具くらいの扱いだ。


「ああ、もう! なんで四年目にもなってこんな仕事しかないんだよ! ずっと上等兵のままだし! オレは早く外に出たいの!」

「そうやってうるさくして大佐をうんざりさせるからだろ」

「あのババア! さっさと肩凝りで隠居しろ!」


 憎き上官の冷たい視線を思い出し、ジーンはネジを握りしめて唸る。チャールズはジーンの肩に寄りかかると、自分の顎を撫でながら彼を宥めた。


「まあまあ、少しは大人しく飲み込んで! 要領よく行こうぜ。お袋さんのために、外で親父さんを探したいんだろ? お前ならきっと見つけられる。だが、まずは忍耐だ」


 チャールズの助言にジーンは口を尖らせた。


「だけど、いつまでもこんなことしてたって……」


 そう言って、ジーンは机にうつ伏せた。そんな背中に、チャールズは拳をぶつける。


「そこで朗報だ。暇そうなお前に大佐がお使いを頼みたいそうだ。うまくやりゃあ、多少は状況もよくなるさ」

「えっ」


 表情明るく顔を上げるジーンに、チャールズは器用なウインクをして見せた。


「詳しいことは自分で聞け。我らが女王様は執務室で待ちくたびれてるはずだぜ」

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