ひとりぼっち

みてぃあ

ふたりぼっちの僕と私

「もういいかいー」

「…………」

「もういいかいー」

「…………」

期待していた声はどこからも聞こえない。それでも淡い期待を抱いて振り返った。

––––––公園には誰もいなかった。だから僕は期待するのをやめた。



「中学校はどう?楽しい?今日も頑張ってね!行ってらっしゃい。」

 お母さんに明るく見送られて登校した。友達に会える喜びを忘れないようにして、教室に入った。

––––––机には白い菊の花が生けられた花瓶が置いてあった。そして大量の落書きと傷のあとがあった。だから僕は喜ぶのをやめた。



 飼育係になった僕は、放課後に教室の後ろで飼っている金魚の世話をしていた。僕には友達がいなかったので、金魚は唯一の安らぎだった。今日も授業が終わり、教室のみんなが部活に行ったのを見てから水槽に近づく。

––––––水槽の水は無くなっていた。そこには、泳ぐ場所を失って横になった金魚の姿があった。悲しみとはこんなにも辛いのだと、この時初めて知った。だから僕は悲しむのをやめた。



 階段の踊り場で、僕と同じような境遇の人が3人の男に掴みかかられていた。本能的に止めなければならないと思った。どうなるかなんて考える暇もなかった。僕は3人の前に立ちはだかって掴みかかられていた彼の分まで怒った。僕みたいな人が僕の代わりに殴られることが許せなかった。

––––––身を挺して守った彼は翌日、3人の男と一緒になって僕を踊り場で押し倒した。そして彼が受けるはずだった痛みを、全て僕が肩代わりした。だから僕は怒るのをやめた。


 いろいろな辛いことがあった。中学校に入学してから3ヶ月、この時間は僕が感情を放棄するのにはあまりに長かった。心の中では日々感情が廃棄場のように捨てられていくのを感じる。そうやって心の廃棄場の存在を感じることさえ、もう無くなっていくような気がしている。




 中学校に入学してから4ヶ月が経った。もうとっくに全てを諦めて学校生活を過ごしていた僕は、この地獄にそれでも意味を見出そうとしていた。それはとあるクラスメイトの存在だった。彼女は、こんなにも惨めな僕が教室に入ってきた時、「おはよう」と言ってくれた。休み時間に一人で机で俯いていると、後ろの席にいる彼女は話しかけてくれた。放課後は、新しく飼っている金魚の世話を一緒にしてくれた。帰る時には、「またね」と言ってくれた。僕はそんな彼女に今までにない、知らない感情を覚えた。今まで捨ててきたどの感情とも違うもの。それは今の僕にとっての「特別」だった。


 僕は彼女の名前を知らなかった。先生は苗字で呼ぶし、彼女の友達はあだ名で呼んでいるし、僕に名前を聞く勇気がなかったからだ。それでも、少しでも彼女と話がしたい、名前も知らない彼女のことをもっと知りたい––––––そんな気持ちを心の中で募らせていた。たとえ彼女が僕の持っている感情と同じものを持っていなかったとしても、彼女さえいれば僕がこの世界に存在する理由になりえた。生きててもいいんだと肯定してくれる存在がいるだけで、自分を肯定してあげられる気がした。


 その1ヶ月後、彼女は休日に出かけようと言った。それも僕とふたりで出かけたいらしい。僕はその彼女の言葉に「期待」をした。

 待ち合わせ時間よりだいぶ早くに駅に着いた。集合場所の改札前に行くと、白いワンピース姿ではにかんで笑う彼女がそこに立っていた。「影」おくりができそうなほどに透き通っていて、「影」を寄せ付けないほどに眩しい彼女の姿に、僕はあの感情をまた想起する。

 そのお出かけはありふれたものだった。ふたりでランチを食べて、ショッピングモールでお揃いのアクセサリーを買って、喫茶店で他愛もない話をした。でも、そのありふれた時間が僕にとってはあまりにも特別で、この瞬間だけは日々の地獄を忘れることができた。

 

 喫茶店でしばらく話をして夜ごはんを食べた後、僕たちは電車で何駅か離れた殺風景な田舎町にきた。駅からしばらく歩くと、沈みかけている太陽の場所まで届きそうな、長い土手が見えてきた。下には大きな川が流れていて、秋虫が鳴いている音が聞こえる。僕たちは土手に座ってまた話をした。それは喫茶店の時のような他愛もない会話ではなかった。太陽が完全に沈み、星が輝く空の下。


––––––彼女は僕に試験を課した。


「こんな綺麗な星空の下で、君とふたりきりってすごく特別な感じ。君は今、どんなことを考えてるのかな。私はね、すごく大事なことを考えてる。君が私と同じことを考えてたらいいなって、そう思ってるよ。ちょっと変なこと言うね。星が綺麗ですね......なんちゃって。」

 この言葉の意味、それを考えるだけの問題だった。この先の物語を作るだけの簡単な試験。これは彼女が僕に課した、少し早い期末試験。でも、この時の僕にはまだその答えを用意するだけの自信と、勇気が足りなかった。その答えを、僕の言うべき言葉を知っているはずだったのに、彼女の期待に応えてあげられなかった。

––––––この日の夜は、ふたりぼっちの僕たちへの、最後の結末を描かせた。


 次の日、教室のドアを開けるとそこはいつもとは何かが異様に違った。そうだ、いつもなら天真爛漫な笑顔で話しかけてくれる彼女がいないんだ。僕は妙な胸騒ぎを覚えながら、自分の机に向かった。やっぱり何か違和感がある。何かがいつもと違う。そう思いながら椅子に座った時、違和感の正体に気づいた。いつも置いてあるはずの花瓶がない。僕の人生を地獄たらしめるあの花がない。少し内心でほっとした。やっと地獄から抜け出せるかもしれない。やっと彼らも飽きてくれたのだろうかと、その時は久しぶりに安心という感情を覚えた。僕はそれでもなぜか違和感を完全に払拭できなかった。何かが違う。いつもと違う。その正体不明の違和感をもって後ろを振り返った瞬間、その違和感は確信に変わり、そして絶望に変わった。


––––––彼女の机の上には、白い菊の花が生けられた花瓶が置いてあった。


 人を好きになることは、唯一誰にでも許される権利だと思っていた。こんな僕でも、この感情だけは捨てなくていいんだって、気づこうとしていた。なのに、なんで……どうしてこうなってしまうのか。僕と関わると人が不幸になる。僕がいると世界は悪い部分だけを映し出す。それは「影」となって僕の心の中に侵入していく。僕が存在していいのだと、そう肯定してくれる人はもう存在しない。僕が自分自身を肯定することは、他者からの肯定を咀嚼することだったのに。もう、自分なんて肯定してやるもんか。そう誓って、この日「私」は全てを失った。


 3ヶ月が経った。夏休み以降、彼女は学校に来なくなった。それと同時に、影はより大きさを増して僕の心を侵食していく。最近、教室に彼女の影を見る。世界の悪が形作った彼女の「それ」は、私の心を緩やかに蝕み続けている。時々、その影は私に問いかけるが、その問いかけは錘となって感情を潰し、炎となって心を燃やす。

 全ては「僕」のせいだったのだと、私は気づいた。いや、私を蝕み続ける影に気付かされた。そして影は、私の足を再びあの場所へと向かわせる。そこは、私の終着点になるのだと、そう教えてくれた。


 電車を何駅か乗り継いで、田舎町に来た。今日は大雨が降っている。傘もささずにしばらく歩くと長く続く土手と、その下を流れる川が見えてきた。雨の影響で、川は前よりも流れが強く、一度入ったら2度と戻っては来れないほどの濁流となっている。そして空には、あの日と同じ満天の星空が広がっている。星が、綺麗だ。


君は私に喜びを与えた。

君は私に慈しみを思い出させた。

君は私に感謝を教えた。

君は私に好きをくれた。


でも、一つだけ君が教えてくれなかったものがある。

その感情は、知りたくなかったもの、でも今向き合わなければいけないもの。君が最期に教えてくれたもの。私は君にまだ何も返せていなかった。それなのに、君は先に手の届かないところまで行ってしまった。また、一人になっただけ。今日は大粒の冷たい雨が降っている。最期に、私は彼女に向かって静かに呟いた。


「君と出会わなければ、ふたりぼっちになんてならなかったのにね」


そして僕は濁流の上、満天の星空に飛んだ。







影は僕に、彼女の「名前」の書かれた手紙を渡した。


この⼿紙をあなたが読んでいるころ、私はもしかしたらもうこの世にはいないかもしれない。でも、私は最後まで幸せでした。あなたとの時間が私を支えてくれて、あなたの存在が私の心を温めてくれました。だから、もしもあの日のことを想うのなら、それはどうかやめてください。私は、心からあなたを愛していました。それが私のすべてです。私がいなくなった後も、あなたが前を向けるように祈っています。そして、最後に言わせてください–––––– あなたに出会えて、本当に良かった。ありがとう。

さようなら。


 世界の悪は、僕を蝕み続ける影は、もう必要ないらしい。この手紙は、影が僕にくれたこの場所へのきっぷだ。電車をいくつか乗り継げば、また彼女に会えるだろう。そこで私は、ずっとずっと幸せに生きることができる。そう、願ってやまない。この世界は、もっと明るく、色づいていくのだろう。彼女の想いが私の中で色彩となり、世界を新しく塗り替える。


そんな意味のない幻影だけが鮮明に見える。


––––––ひとりぼっちだった「私」は、「僕」とふたりぼっちになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひとりぼっち みてぃあ @meteor_stellar

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ