彼の詩集は出版されるたびに、瞬く間にベストセラーになった。

彼の詩をもとに曲が作られ、それは演奏会や芝居の中で流され、有名歌手によって歌われた。


彼を慕う者は増えつづけ、貴人からのパーティーに誘われることも珍しくはなかった。


そんな中、彼は会場で、ひとりの令嬢に出会った。


彼女は、さる資産家の娘で、彼の詩に惚れ込んで密かに彼を追っていたのだ。


彼は、彼女の美しさと詩への造詣ぞうけいの深さにすっかり心を奪われて、ふたりが親密になるのに、そう時間はかからなかった。



「お父様に、会ってくださるのね?」


「もちろんだよ」



公園のの下で、ふたりはいつものように詩を読み合っていたのだが、彼の突然の告白に彼女は目を輝かせた。



「お父様は、貴方の事を褒めてらしたわよ」


「これから、会いに行こう。君の父上は、僕達の事を祝福してくれる」



「……どうしたの?」



彼は、急に押し黙り、少しよろけて樹のみきに片手を付いた。


「大丈夫!?」


心配して駆け寄る彼女をよそに、彼はそのまま空を仰ぎ見て独り言を呟いた。



「もう、たくさんだ……」



「本当に大丈夫?顔色が悪いわよ」


「何でもないよ、心配させてすまない」



彼は姿勢を立て直すと、ゆっくりと息をした。


そして、おもむろに胸ポケットからペンを取り出し、手に持っていた、ふたりが敬愛する詩人が編纂した、古典詩集のページをめくりはじめた。


「くそっ!」


彼女の前では決して見せない、言葉 づかいと荒々しい態度で毒づきながら、彼は詩集の余白や何も書かれていないページを探しては、文字を書き込む。


彼は、樹のみきにページを開いた詩集を押し付けて、一心不乱に書き殴った。


すぐそばで見守る彼女の表情が、戸惑いから恐怖に変わっても、彼がペンを止めることはなかった。



彼が、落ち着きを取り戻して顔を上げた時、彼女の姿は消えていた。


すべてを理解した彼は、指輪と一人で住むには広すぎる屋敷を売り払い、喧騒や噂話から離れるため、郊外にある家を買い、移り住んだ。





新しい部屋、新しい家具、何もかも新調した環境の中で、彼はようやくひといきつく事ができた。


彼は、すべてを手放したつもりだった。捨てられなかった、一冊の詩集を除いて。


ページをめくると見える、塗りつぶすように書き殴られた禍々まがまがしい文字。


しかし、その内容は、神々しいほどに美しい。



あらがえなかった……」



彼は、机に伏せて、詩集に顔を付けたまま、すすり泣いた。

それでも、涙で文字がにじむ事を気にする自分がいる。



「……詩の女神ミューズよ」



彼は、涙声で懇願するように祈る。



「…私から、離れてくれ」





…なぜ?




それは、初めて聞く“詩”以外の声だった。しかし、彼はもう、何にも驚くことはなかった。


「もう、私をまどわせるな。お前のためにどれほど苦しんだか」




…どうして?




その声は、彼が幼い頃から聞いていた詩のつぶやきそのままで、それでいて、からかうような、あやすような、くすぐるような響きで、謎めいた余韻を頭の中に残すのだった。



「私はお前のために、家族や友人とも疎遠になった。お前のせいで人生が、思い出が、すべて詩に塗りつぶされてしまった。そして、そのせいで…私は、愛する人を失った!」



…あなたが選んだことよ。



「何だと!?」



…私はあなたに、詩をあげたの。




詩の女神ミューズは、はっきりと言った。



…あなたが、詩人として詩の女神わたしの加護を受けるのに相応ふさわしいことは、あなたが生まれる前から知っていたわ。


…私は、あなたに詩を与え、あなたが詩を完成させて、世に送り出すのよ。


「勝手なまねをするな!私はそんなこと頼んでいない!」


彼は立ち上がり、部屋を見上げて、声のする方に向かって叫んだ。


「なぜ?わざわざ大事な時に、詩を与えたんだ!?なぜ?大切な人と過ごす時間と詩を選ばせたんだ!?どちらかを選べば、選ばなかった方は永遠に失われる…」



…詩の泉が枯れることはないわ、何度でも存分にお書きなさい。



「ふざけるな!私の人生を返せ!」



…なら、なぜ詩を選んだの?



彼は、ぐっと言葉を飲み込んだ。



…私が与えた詩を、あなたは選んだ。それだけのことよ。



彼は黙ったまま机の詩集に目をやると、開いたページの涙でにじんだ文字が見えた。



「…確かに、詩は美しい」




…もっと書きなさい、詩人よ。



「でも、私は…自分の詩が書きたい」



…詩は、愛なのよ。私にとって、あなたは詩そのものなの。




…あなたは詩人であり、詩そのもの。



…忘れないで……




詩の女神ミューズの声は、消えた。







この国には、詩の女神ミューズに魅入られた男がもう一人いる。



この男は、先ほどの彼と違って、詩が世に認められることはなかった。

男は、たくさん詩を書いて、コンクールに応募したり、本を作って自費で出版したが、彼の作品が世間の人々の目に触れ、評価されることは、ついぞなかったのである。



時は流れ、男の髪に白髪が交じるようになっても、男は詩を書くのをやめなかった。



男は今、町外れにある小さな家に、ひとりで暮らしている。


男は、人生のすべてを詩を書くことについやし、そのために財産を失い、家族もいなかった。


しかし、男には、唯一無二の友があった。



それは、今や誰ひとり知らぬ者のいない、国一番の詩人であり、国の宝、詩の女神の贈り物、と称される、先ほどの“彼”だった。



「遅れてすまない」








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る