第4話 殺害されたる父親

 父親が殺害されているのが見つかったのは、兄貴が就職活動のために帰省してから、2日後のことだった。

「そうせ、数日しかいないさ」

 と、康人にそう言っていた兄だったが、昼間はほとんど表にいて、夜も遅く帰ってきて、ほとんど家族の誰にも顔を合わせなかった。

 そんな時、遅く帰ってきた兄が、父の死体を発見したのだ。

 そもそも、父親は、最近では、

「父親の権威」

 などというものはほとんどなく、完全に、

「わがままだった」

 といってもいい。

 下手をすれば、

「被害妄想気味だ」

 といってもよかっただろう。

 母親とテレビのニュースを見ている時、父親が仕事から帰ってきた。

 リストラには遭ったが、半年後くらいに、何とか就職が決まり、

「運よく」

 といってもいいのか、正社員で働けるようになっていた。

 しかし、給料は以前に比べて、半分ちょっとであったが、それも致し方のないことで、「他の会社で普通に勤めている人たちも給料を、2,3割カットされ、ボーナスも支給がない」

 という状態だったのだ。

 だから、父親は、リストラをされての再就職だということで、これでも、まだありがたいことなのかも知れない。

 そのせいで、家では完全に、

「威厳」

 などというものはなくなっていた。

 しかし、そもそも、

「威厳」

 というものだけが、父親の生きがいのようなものだっただけに、家族と顔を合わせられないと思いながらも、そのストレスは相当なものだったのだろう。

 そこで、ちょっとしたことで怒り出すことも多かったのである。

 そんな時、ちょうど、ニュースで、ある事件のことを話していた。

「父親が、子供を虐待している家庭で、それに耐えられず、子供が父親を殺傷した」

 という事件であった。

 それを聞いた母親と康人は、

「ひどいことをするわね」

 と言い合っていた。

 父親は。

「殺した息子」

 のことを、

「ひどいことをする」

 といっていたと思っていた。

 父親も帰ってきてから、そのニュースを最初から見ていて、事情は分かっているはずだったので、

「さすがに、おやじも、この父親の肩を持ったりはしないだろう」

 と思っていたので、平気で話をしていた。

 そんな時、ニュースで明らかになる父親の虐待の数々を聞いていて、康人は、

「堪忍袋の緒が切れた」

 というべきか、

「この父親、血も涙もないやつだ。殺されても当然だな」

 と口走ってしまったのだ。

 ひょっとすると、父親が聴いているのを分かっていて。わざと無意識に口走ったのかも知れない。本人も一瞬分からなかったくらいだ。

 だが、あとから思えば、

「わざとだったんだろうな」

 と思ったのだから、それだけ父親に対して言いたいことが、山ほどあったということであろう。

 しかし、それを聞いた父親は逆上した。

「人が死んでるんだぞ。殺されて当然とはどういうことだ」

 と大声を挙げた。

 しかし、康人はそれを聞いて、まったくびっくりはしなかった。

「ほう、意外だな」

 と一瞬だけ思った。

 それは、

「権威がなくなったくせに。よくそんなことが言えるんだ」

 と思ったからで、怒りの感情が湧き上がることは分かっていた。

 分かっていていったといってもいい。

 それなのに、

「あのおやじの声にしては、小さいな」

 ということで、まったく威圧を感じることもないし、当然、威厳も何もない。

 それこそ、

「ただ、負け犬の遠吠え」

 にしか聞こえないというものだ。

 何に負けたのかというのは、

「絶対に本人には分かるはずはないだろうな」

 ということで、

「どうせ、おやじは、目の前に鏡があっても見ようとしないんだろうな」

 ということであった。

 そう、負けたのは自分にであって、そのことは百も承知のはずで、

「結局、それを認められないだけなんだ」

 ということであり、

「おやじの威厳など、地に落ちたというものだ」

 と感じたのだ。

「時代が変わった」

 ということであるが、

 分かっていても、それを受け入れることができるかどうか。

 受け入れることができるのであれば、新しい時代を生きていけるのであろうが、今のまま受け入れられないのであれば、

「もうこのままなんだろうな」

 と思い、康人は、

「このままに違いない」

 と思っていたが、まさか、こんに早く結論が出るとは思えなかった。

 康人は、

「父親が死んでも悲しくはないだろう」

 と思っていた。

 確かにその通りで、ただ、

「あれだけ虚勢を張っていた人間が、こうも簡単にくたばるなんて」

 と感じた。

 これは、兄貴も同じだったのかも知れない。

 ただ、兄の場合は、少し気持ちが違っているかも知れない。

 なぜなら、

「父の死体の第一発見者というのが、兄だった」

 ということからである。

 康人は、

「父親が死んだ」

 と聞いてから、遺体を対面した。

 しかし、兄は、自分が発見するまで、兄が死んでいるということを知っているのは、兄だけではないだろうか。

 父もひょっとすると、今も、

「自分が死んだ」

 ということを分かっておわず、どこかでさまよっているのかも知れない。

 そんなことを考えていると、葬儀と並行して、警察で事件を、

「殺人事件」

 ということで捜査をしていた。

 もちろん、家族が事情聴取されたことも当たり前だったのだ。

 まず最初の発見者は、兄だったのだが、まさか、兄も父の遺体が転がっているなどと思っていなかったことで、一瞬、どうしていいのか分からなくなったという。

 とりあえず、母親に連絡を取ると、母親も一瞬声が出ない様子だったが、何とか声を振り絞って、

「警察に連絡しなさい」

 ということで、しばらくして、到着した警察の後で、帰ってきたのであった。

 康人は、友達の家に遊びに行っていて、ちょうど帰ってきたところで、母が家の中に入ろうとしているのが見えたのだ。

 たぶん、母親も兄も、自分たちのことで精いっぱいで、康人の存在を忘れていたのかも知れない。

 もっとも、こういう、

「予期せぬできごとに遭遇したのだから、家族とはいえ、他の人のことが頭から少しの間消えていたとしても、しょうがないかも知れない」

 しかし、それも、少しひどいということではないだろうか。

 兄貴は、びくびくする性格で、気が弱いというのは分かり切っていて、しかも、

「死体の第一発見者」

 ということになれば、警察を呼んでから何かできるわけもなく、しかも、警察の捜査中、何もできないことは必至であろう。

 母親も、

「とにかく急いで帰ってやらないと」

 という思いがあったことだろう。

 息子一人にして、警察を待たせるというのは、さすがに気になるからだ。

 母親も次第に落ち着きを取り戻すと、今度は完全に冷静になって考えられるようになり、今度は、

「まさか、犯人がまだ家の中に潜んでいるかも知れない」 

 と思うと、

「急いで帰ってやらないと」

 と感じたのであった。

 正直、

「空き巣か何かにやられた」

 と思っていた。

 もし、父親を最初から殺そうと思うのであれば、家で殺すなど、すぐに見つかるようなところではしないだろう。

「家族に見つかるかも知れない」

 と思うに違いない。

 それを思うと、

「行きずり」

 と思う方が一番なのではないか?

「空き巣が忍び込んできたところを、帰宅してきた父親と鉢合わせして、もみ合っているところを誤って殺害してしまった」

 というのが、いいところであろう。

「あの母だったら、それくらいのことを考えるだろう」

 と、康人は考えたのだ。

「最近、空き巣が増えている」

 ということは聴いていた。

 これは、数年前からの、

「バブルの崩壊」

 というものが影響していて、

「その日の暮らしもままならない」

 という人が行っているとも言われている。

 中には、

「とりあえず、衣食住には困らない」

 ということで、

「後先考えずに」

 という人が多いという。

 まるで、昭和初期の、

「世界恐慌のようではないか?」

 と、中学生の康人は考える。

 あの当時は、

「田舎の農村部では、娘を売らないと、生計が立てられない」

 というほどの貧しさだったという。

 実際に、

「仲介業者の張り紙が、街のあちこちに貼られていた」

 という話も聞いたことがある。

 そこまでひどい状態であったというのは、同じ、

「経済の崩壊」

 ということでは変わりないだろう。

 さすがに今の時代に、

「人身売買などできるわけはない」

 ということであるが、

「だったら、空き巣くらいいいじゃないか」

 ということになるのだろう。

 家があっても、ギリギリで暮らしている人はたくさんいるのだ。それを思えば、

「空き巣というのは、罪は軽いかも知れないが、卑劣であることに変わりはない」

 といえるであろう。

 だから、警察も、

「防犯」

 ということを呼び掛けていた。

 しかし、これは、全国に広がったわけではなく、一部の地方にだけ、空き巣というものが広がっていた。

「犯罪を煽ることになる」

 ということで、警察も政府も、他の地域で、

「空き巣が流行っているところがある」

 などといってしまうと、他の地域でも空き巣が流行るようになり、警察では手に負えなくなってしまうということになるだろう。

 それを考えると、

「煽らないように、局地的な話」

 ということで片付けるようにしようと思うのであった。

 それを考える警察や政府であったが、今回の捜査に来た刑事たちも、

「空き巣の仕業か?」

 ということを考えていた。

 今のところ、

「空き巣の被害は大きいが、殺人まではそんなになかった」

 といえるだろう。

「まったくなかった」

 とは言えないが、目立つことはなかった。

 それは、警察の隠蔽があったのか、それとも、犯人が、他にも別の動機があったことで、「そのついでに、強盗を」

 と考えたのかも知れない。

 それを思えば、

「警察は、この状態をいつまで放っておくのか?」

 ということを、最近では、マスゴミに感づかれているところもあったりする。

 それを思えば、

「そろそろ警察としても隠し切れない」

 ということで、

「検挙のスピードを上げる」

 ということが至上命令となっていた。

 そうしないと、

「世間は黙っていない」

 ということになる。

 そして、警察の権威は失墜し。

「無政府状態になってしまうかも知れない」

 ということになる。

「警察というのは、権威があっての警察であり、ここは、今までの、家庭における、父親の威厳というものとは、一線を画したものだ」

 といってもいいだろう。

 それだけ警察には本当の権力があり、家庭の中での、父親による、

「虚空の権威」

 とはまったく違うものである。

「警察の権威は、国家権力をバックに敷いている」

 ということであった。

 やってきた刑事は、

「下瀬刑事と、八木刑事」

 であった。

(死体損壊と、犯罪の損壊事件参照)

 先輩の八木刑事が、若手の下瀬刑事を教育しながら、二人のコンビは、実際に、捜査において、多くの手柄を立てているのであった。

 今回の事件でも、二人のコンビが出てきたことで、他の警官、さらには、鑑識の間でも、その士気が高まるということであった。

 二人は、この事件に関して、最初は誰もが考えるように、

「空き巣による犯行」

 ということを考えたが、死体の第一発見者である息子の話を聞いていると、

「それは間違いではないか?」

 と思えるようになっていた。

 なぜなら、

「玄関のカギはかかっていた」

 ということで、さらに、空き巣に遭っている様子も見受けられなかったからだ。

 もし、ふいに犯行が見つかって、慌てて殺害してしまったのであれば、犯人は、ナイフで刺し殺しているのだから、少なくとも返り血は浴びているはずである。

 本来なら、

「証拠隠滅を図りたい」

 と思うのだろうが、それよりも、まずは、

「できるだけ早く、見つからないように、この場から離れる」

 ということを優先したいだろう。

 指紋に関しては、手袋をしているので、他についている心配はない。だとすると、、他に証拠隠滅を図るということで思いつくことはないだろう。

 人間の心理として、やはり、その場から、

「一刻も早く立ち去りたい」

 と思うのは必至である。

 荒らされていないところを見ると、空き巣による犯行であれば、

「犯行前に見つかった」

 ということか?

 だとすれば、二人の間に何らかの会話があったとみてもいいだろう。

 そう考えると、いきなり刺し殺すというのは、何かおかしな気がする。確かに、

「顔を見られて、衝動的に殺した」

 ということであれば、分からなくもない。

 ただ、そうなろと、相手が空き巣であれば、まわりに知らせたいということもあって、きっと、大声で叫んだに違いない。

 刑事は、第一発見者の長男に、

「お父さんの声は大きいですか?」

 という質問をしたのは、それでまわりの家から誰も出てこなかったのか?

 ということが気になったからだった。

 実際に、誰も出てきているわけではなく、長男が発見するまで、マンションは、普段の静寂の中にあったといってもいい、

 しかも、争った跡も、そんなに見受けられない。少なくとも、見ず知らずの相手が家に侵入してきたとすれば、この状況は不自然だということになるのだろう。

 それを考えると、下瀬刑事は、

「何かがおかしい」

 と感じたのだ。

「やはりここは、争った跡がない」

 ということから、

「犯人は顔見知りの犯行ではないか?」

 と感じるのは、普通なのだろうと思うのであった。

「それよりも何よりも、返り血を浴びたかも知れないと思う相手だったので、窓も閉まっていたということから、出ていったとすれば、玄関しかないわけで、そうなると、そこに血痕がまったく落ちていないというのはおかしなことだ」

 と思えたからだった。

 これは、八木刑事にも感じたことで、この時点で、二人とも、

「空き巣による犯行」

 という可能性は低いのではないか?

 と思えたのであった。

「第一発見者を疑え」

 というのは、

「捜査の鉄則だ」

 というのを、探偵小説で読んだことがあったし、テレビドラマでもよくあることであった。

 特に、当時の刑事ドラマというと、

「ヒューマンタッチの話というのが多く、その分、家族による犯行」

 というものも多かった。

 そこで、

「お涙頂戴」

 のような話だったり、一人の刑事の人情的な話が多いので、どうしても、

「家族による犯罪が多くなってくる」

 ということであろう。

 それが、昭和という時代であり、それ以前には、

「スポーツ根性もの」

 というドラマが流行ったりした。

 だから、家族の犯罪というのを、それほど疑わなかったし、逆にいえば、

「威厳」

 というものも、裏を返せば、

「犯罪動機に十分になりえる」

 ということである。

 それを考えると、

「犯罪というものは、当時の方が、複雑だった」

 といえるのではないだろうか?

 人間の心理を描く方が多く、平成から令和の刑事ものに比べれば、

「組織に対しての、反発であったり」

 という捜査に対しての心理的な動きとは、発想が違うといってもいいだろう。

 そんな時代において、歴史というものが、

「さかのぼっている」

 といってもいいのだろうか?

「歴史は繰り返す」

 ということで、ひょっとすると、過去の時代のさらに昔に、似たような発想が隠されているのではないだろうか?

 八木刑事は、そんなことを考えるようになっていた。

 下瀬刑事も、似たような発想を持っているのか、

「僕は、昔の探偵小説の時代の本を読むのが好きなんですよ」

 といっていた。

 というのも、

「昭和初期から、戦後すぐくらいまでの、いわゆる探偵小説と呼ばれるものは、本格派と呼ばれるものとしての、トリックや謎解きを、探偵が鮮やかに行うというものであったり、逆に、陰湿な犯罪であったり、猟奇的なもの、そして、耽美主義的な犯罪などを、変格派と呼んで、それらを探偵小説と称していた」

 というのであった。

 猟奇殺人などと、トリックを組み合わせる探偵小説も多く、ゴシック小説の側面を持ったものも結構あり、それが、平成の犯罪に起こった、

「バラバラ死体」

 などという事件に結びついている。

 といっても、そこにトリックが絡むものではなく、ただ、人間の精神の歪みが作り出した、当時の、

「変格派」

 と呼ばれる探偵小説だったりするのであった。

 特に、昔の小説は、

「SM」

 などの変質者としての猟奇殺人を演出したりしていて、今の時代では、

「性的な変質が、犯罪に絡むだけということで、それが、トリックに結びつくことはない」

 というのも、そういう猟奇犯罪を犯す人に、頭のいい人はおらず、カモフラージュというよりも、猟奇殺人を見せつけて、自分が頭がいいと思わせたいという、完全にズレた頭を持った人間による犯罪が多いのだった。

 とはいっても、

「犯罪を簡単にドラマに置き換えて捜査するというようなことはしない。とは追っても、推理はある程度自由である」

 逆に、

「ドラマの内容を推理に使ってしまうことは、卑怯だ」

 というのは、

「ドラマを制作する人に対しての尊敬の念を抱いている人にとって、失礼ではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 刑事課にやってきて、

「なるべく警察の捜査と違いがないようにドラマを作りたい」

 ということで、警察に敬意を表している人もいるくらいである。

 その敬意が、尊敬の念となってドラマを作ることになると、

「今まで、警察というと、あまりいいイメージがなかった」

 という時代が確かにあった。

 それを少しでも、よくしようと考えるのは、もっと先の時代になってからのことであった。

 というのは、平成になって少ししてから、警察は、マスコットであったり、警察博物館などができたりして、

「市民に寄り添う警察」

 という印象を深めている。

 警察の印象が悪いのは、昭和の刑事ドラマなどでよくみられる、

「取り調べの場面」

 などがひどいものではなかったか、

 あの当時は、

「あれが当たり前だ」

 ということで、

「警察に逮捕されると、自白させられるまで、拷問まではいかないが、それに近いことをされる」

 という状況は、ドラマを見ていると分かるというものだった。

 よく言われるのが、

「かつ丼」

 を取り調べ中に食べたり、

「タバコを吸って、その息を吹きかけたり、さらには、ライトを顔の前に当てて、自白を強要したり」

 などが多いというものだ。

 もっとも、昭和の警察の取り調べの場面は、

「やくざ

 や、

「チンピラ」

 などが相手ということで、相手も、警察に対して、本当に極道という対応をするので、

「どっちもどっち」

 ということであろう。

 だが、ドラマとしては、

「犯人を捕まえないと、一般の善良な市民が、ひどい目に遭うので、拷問してでも、白状させて、一般市民を安心させる」

 ということが主題だったのだ。

 だから、

「犯罪を許してはいけない」

 ということが、テーマになっていて、よく見ると、

「犯罪に加担している連中には、ろくな連中がいない」

 ということの表れだという状態を描いているのであった。

 それを思えば、

「警察の捜査というのは、一般市民を救うためということで、少々のことは許される」

 ということを、ヒューマンドラマとして描くことで、

「警察の捜査の正当性」

 というものを証明しようというのが、そのドラマ制作として見えているので、どうしても、平成、令和時代の人にとって、

「昭和の刑事ドラマは、どうにも胡散臭い」

 と感じさせるのだろう。


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