第2話 父親の威厳
戦後から、バブル経済くらいまでは、まだまだ、大日本帝国時代を引きずっていた時代であった。
特に、家長制度というのは、確かに、戦後から、バブル経済くらいまではあったかも知れない。
経済がどん底だった時代は、家族を中心に、生き残っていくというのは、
「生き残りのためには、仕方のないことでもあった」
といえるだろう。
それこそ、
「家族が揃って食事をするのは当たり前」
という時代。
それができた時代だったのだ。
戦後の混乱から、所得倍増、さらには、オリンピックなどのための、交通機関や、道路などのインフラの整備。
それによって、失業問題は解消したといってもいいだろう。
ただ、その反動もあったのも事実で、社会問題も発生し、結局、
「好景気は、長くは続かないが、全体的には、好景気水準で推移していた」
といってもいいだろう。
そんな時代は、それほど残業というものもなく、定時に終わって、父親は帰宅してくるというところが多かった。
もちろん、会社や業種によっても違うだろうが、経済成長から、給料もどんどん増えていき、ある意味、
「希望の持てる時代だった」
といってもいいだろう。
「三種の神器」
などという家電も、その頃には、
「生活必需品」
ということになり、
「テレビなどは、一家に一台」
という時代が迫ってきていたのだ。
だから、
「家族でテレビを囲んでの団欒」
ということで、
夜の7時から、9時くらいまでを、ゴールデンタイムと呼ばれ、視聴率の高い時代であった。
ただ、家庭によっては、
「食事中は、テレビを見ない」
という取り決めをしているところが多かったという。
その理由はハッキリとは分からないが、
「父親の威厳」
ということで、
「テレビを見ると、食事がおろそかになり、父親が何かを言っても上の空になることを恐れた」
ということなのかも知れない。
だから、食事が終わり、そこからテレビの時間になるのだろう。
とにかく、父親の威厳ということから、
「テレビのチャンネル権は、もちろん父親」
ということになり、そうなると、当時のゴールデンタイムというと、まずは、
「野球中継」
ということになるであろう。
当時は、
「嫌らしいくらいにマスゴミに贔屓される」
という球団があり、まるで、
「そこ以外の球団は、誰もほとんど、存在くらいしか知らない」
といわれるほどで、特に当時は、
「野球ファンというと、サラリーマンくらいで、子供は、贔屓される球団くらいしか知らない」
という状況だった。
今であれば、
「地元密着型の球団」
というのが多いので、女性ファンも増えてきたのだ。
しかし、それでも、テレビ中継は、
「昔からの人気球団しか放送しない」
要するに、
「視聴率が確実に取れる」
ということで、放送していたのだろう。
いくら、地元球団人気が出てきたからといって、すべての人が、
「ゴールデンタイムに野球を見る」
ということはないようだ。
しかも、問題となってきたのは、
「スポンサーとの関係」
であった。
放送時間を、
「7時から9時まで」
ということにしておいても、9時までに確実に終わるわけではない。
そうなると、野球ファンは、放送の延長を望み、元々の9時から放送されるはずの、ドラマを見たいと思っている主婦層などからすれば、困ることになる。
ドラマも、視聴率が取れるから放送しているのであり、しかし、実際には、強いのは、
「お金を出している」
ということで、
「視聴者よりも、スポンサーの方」
なのである。
中を取って、
「最大延長を9時半まで」
ということにしていたが、それも、ある程度限界があるようだった。
そこで出てきたのが、
「ケーブルテレビなどの、有料放送」
であった、
これは、チャンネルごとに、ジャンルがあり、
「スポーツ専用チャンネル」
であったり、
「ドラマ専用チャンネル」
ということで、月額数百円という形で契約することで、
「見たい番組を見れる」
ということだったのだ。
その頃は、バブル経済から、10年ほどが経った頃で、社会もかなり変わってきていたのだ。
民放のような無料チャンネルは、スポンサーにすがるしかないので、
「視聴者のための番組」
というものを簡単に作ることができないということで、
「番組編成を大幅に変更を余儀なくされた」
ということであった。
だから、
「ゴールデンタイムとして放送していた、野球中継」
そして、
「野球シーズンがオフの間に放送していた時代劇などは、テレビ番組の編成から、徐々に姿を消していった」
ということであった。
特に、野球などは、スポーツチャンネルが複数出てきて、
「ひいきチームすべてのチャンネルができたことで、視聴者が、チャンネルを選びやすくなった」
というのも、
「地元球団の試合開始前から、試合終了以降のインタビューやイベントまでを放送する」
ということになるのだから、ファンとすれば、
「月額、数百円で見れるのだから、何も、民法を見る必要などない」
ということになった。
だから、今の民放は、ほとんどの時間が、情報番組か、バラエティであり、しかも、その情報番組でさえも、
「芸人ばかりが出ている」
ということになるのであった。
バブルが崩壊した時、問題になったのが、一番大きかったのは、会社で、
「事業を拡大すればするほど、儲かった」
ということであった、
だから、サラリーマンは、馬車馬のように働いた。
「24時間戦えますか?」
という宣伝文句の中で、
「企業戦士」
などという言葉が流行り、スタミナドリンクもたくさん種類が発売され、どんどん売れたものだった。
その頃になると、残業が当たり前のようになり、
「お父さんが帰ってくるまで、食事をしない」
などという風習は、
「まるで過去の遺物」
とでも言われるようになったといってもいいだろう。
ただ、
「仕事をすればするほど、お金になった」
というのも事実で、
「残業手当は、ちゃんと出た」
という時代で、
「本当はそれが当たり前」
ということであるが、その後の、
「失われた30年」
では、残業しても、ほとんど手当は出ないという時代になった。
それこそ、
「残業しないとこなせない」
というレッテルを貼られるからである。
バブルが弾けると、それまでの社会が一変した。
何といっても、
「銀行は潰れない」
という神話があったにも関わらず、バブル崩壊によって最初に破綻したのが銀行だった。
当たり前のことであり、何しろ、バブル期は、
「拡大すればするほど儲かる」
といわれていたのだから、
「利子で利益を出している銀行」
というのは、利益を余計に出すために、余計に融資する。
という、
「過剰融資」
というものを行っていた。
バブルが崩壊し、経済の歯車がかみ合わなくなると、
「貸した金が返ってこない」
つまり、
「貸与分が焦げ付いてしまう」
ということで、銀行が破綻するのも当たり前だ。
そうなると、自転車操業をしている企業は、すべてお金が回らなくなり、連鎖倒産が多くなり、仕入も、販売もできず、経済は大混乱である。
零細企業は一気に潰れていき、そのためにどうすればいいかということで、それまでの社会とはまったく一変してしまうということになるのであった。
まず何といっても、
「利益を出せないとなると、損益を減らすしかない」
ということで、
「経費節減」
という問題が大きくなる。
一番の経費節減というと、
「人件費」
ということになる。
そうなると、その時代から言われるようになってきた、
「リストラ」
という言葉である。
これは、
「会社の立て直し」
ということであり、
「クビということではない」
のだが、どうしても、リストラというと、
「クビ」
という問題が大きくなった。
そのために、
「早期退職者募集」
などということで、
「退職金や、失業保険に対して少し優遇する」
ということで、会社は人員カットに走ったりした。
だから、
「なかなか家族には言えずに、毎日家から、会社に行くふりをして、毎日どこかの公園で時間を潰している」
というそんな光景が多くみられるようになったのだ。
それまでの時代からすれば、考えられない社会であった。
こうなると、
「家庭において、父親の威厳どころではない」
そのうちに、会社をクビになったことがバレて、今度は、職がない状態になると、会社も首を斬りすぎて、仕事が回らない状態になると、今度は世の中が、
「派遣社員」
などのような、
「非正規雇用」
という対策を取るようになってきた。
そうなると、主婦も、パートなどで働きにいかないと、
「生活が、やっていけない」
ということになるのであった。
それが、バブル崩壊後の社会というものであった。
つまり、
「今までは専業主婦だった奥さんが家にいない」
さらに、
「生活費が父親の稼ぎだけだったものが、母親にも頼ることになる」
ということで、まずは、
「家族団欒」
というものがなくなり、
「家計を支えていたのが父親だけだったということで、権威を保てていたのに、母親まで働かなければいけなくなると、家庭のことを、夫婦分担ということになるが、今まで、家事などしたことがなくて、ただ威張り散らしているだけの父親だったので、家事などできないということが分かってくると、今度は、父親の威厳もくそもなくなってきたことに気づかず、それでも、家で偉そうにしている父親は、家族から見放されることとなり、家族の離散ということになる」
ということである。
どうしても、
「過去の栄光」
というものに、しがみついているということになると、男はもろいもので、それこそ、
「融通が利かない」
ということが露呈されるだろう。
封建制度もそうであったが、
「絶対的な身分制度に守られて、威張り散らしていた人は、時代の変化に、まず間違いなくついていけないものである」
だから、会社においても、バブル崩壊前であれば、
「年功序列」
ということで、年齢が高いと、それだけ、出世していて上司であるということになるのだが、バブルが弾けると同時に、
「年功序列」
というものも、
「終身雇用」
というものもなくなってきた。
つまり、
「今までの常識が通用しなくなった」
ということである。
「銀行は絶対に潰れない」
という伝説が崩壊してしまった時点で、
「今までの常識は通じない」
ということが分かりそうなもので、本当は分かっているのかも知れないが、
「認めたくない」
ということになるのであろう。
それが、
「昭和時代の、おやじ」
といわれる人たちであろう。
マンガなどでおなじみの、
「カミナリおやじ」
などというキャラクターである。
「盆栽弄りが趣味で、頭が剥げていて、いつも和服を着ている、背の小さなおじさん」
というキャラクターで、
「いつも、盆栽いじりをしているところに、隣の空き地で、野球をして遊んでいる子供が、ホームランを打ったことで、カミナリおやじの家のガラスを割ってしまった」
というシチュエーションがあるのだ。
一つ不思議なことは、
「いつも、出てくるのは、カミナリおやじだけだが、家族はどうしたのだろう?」
ということである。
息子は、仕事にいっているのでいないのは分かりそうだが、嫁であったり、子供は家にいても不思議はない、
特に、子供たちが空き地で遊んでいる時間なのだから、当然のごとく、
「放課後の時間」
ということで、嫁さんは、
「家で夕食の用意をしている時間」
ということではないか。
夕食の時間なので、出てこれないということになるのであれば分かるが、どう見ても、一人暮らしにしか思えないのだ。昭和の70年代くらいは、まだまだ家族団欒の時代なので、そんなに一人暮らしの老人というのは、少ない時代だったのではないだろうか?
そんな時代において、夕食どころか、顔を合わせる時間も少なくなってきた。
すると、子供は子供同士の世界ができてきて、そのせいなのか、子供だけの秩序が突然生まれる形になる。
そうなると、大人の世界を知らない子供が、自分たちの世界を作ると、大人に対しての偏見なのか、あるは、
「勝手に大人の世界を妄想するからなのか」
自分たちの勝手な世界を作り、殻に閉じこもると、
「自分たちの気に食わない連中は、許せない」
と思うようになる。
その原点には、
「自分だけが正しいんだ」
という気持ちになるという。
もちろん、大人の世界だけが、正しいわけではない。どちらかというと、
「知らないだけに、憧れがある」
そして憧れがあるだけに、その憧れの正体は、
「自分が正しいと思っても許される」
という思いである。
というのは、
「家庭の中で、絶対的な権力を持っているのは父親である」
そして、その権力は、大人の世界を知っているから、家に帰れば、
「家では、自分が君主なんだ」
ということになると思うのだろう。
だから、子供であっても、
「大人の世界を知ってしまうと、家では、自分が君主になれる」
という考え方から、
「子供の世界でも、大人を知ると、自分が君主になれる」
という考えがあるということだ。
そして、
「大人の世界の特典」
そして、
「大人の世界の特徴」
というものは、
「自分が正しいと思い、大人の世界というものを理解できれば、自分が君主になれる」
という考えである。
そして、それを昔の父親像というものを結び付けると、分かってくると考えるのだ。
小学生の頃くらいに、
「バブル崩壊」
というものを迎えると、
「それまでの、父親による封建的な絶対主義」
というものを。
「嫌いだ」
と思っているのは当たり前なのだが、憧れというものもある。
それが、
「まだ自分が子供だから、大人に対しての憧れのようなものがあるからだ」
と思うからなのかも知れないが、果たして、本当にそうなのだろうか?
それを考えると、
「中学生になり、自分が大人の世界を覗くと、大人になったような気がする」
ということで、その頃の不良というのが、大人の真似をしたりするという時代だったりするではないか。
時代が進んでくれば、
「決して大人の真似をすることが、いいわけではない」
と考えるかも知れないが、まさにその通りなのかも知れない。
それは、
「大人の真似をしても、大人の世界に限界があると、今では分かるようになってきたので、どちらかというと、人とかかわりを持たない方が、世の中をうまくわたっていく方法なのかも知れない」
と感じるようになったといってもいいだろう。
「父親の威厳」
というものと、
「大人の世界」
というものを比べた時、最初は、
「同じものだ」
と感じていたが、中学時代になると、それが、今度は、
「少し違うものだ」
と考えるようになった。
その感覚は、大人になったという感覚で、大人になったと感じた瞬間、自分が背伸びしていると感じると、
「父親というものの威厳」
に対して、
「自分も早く大人になって、そんな大人の威厳を示したい」
という思いが小学生の時にあったのだが、同じ小学生でも、途中から感情が変わってきた。
「自分が大人になったら、今度は、そんな大人にはなりたくない」
と感じるようになったのだ。
そんな大人になるということは、
「嫌いな父親のようになる」
ということで、そんな自分が、今、父親の威厳を嫌がっているというのは、おかしなものだと感じるのだ。
だからと言って、
「せっかくある大人の威厳を、自分が子供の時に感じさせられたのだから、今度は順繰りで、自分が、大人になってから感じるというのは、悪いことなのだろうか?」
と思うのだった。
そう思うと、今度は、
「自分が嫌いな大人にはなりたくない」
と思うのだ。
しかも、大人になるためには、勉強して、高校に入学し、いい大学に入って、父親とは違う大人になると思うようになるのが、
「まだ、バブル崩壊前の子供だったのだろう」
それが、今の自分たちの父親の、
「子供の頃だった」
といってもいいだろう。
もちろん、思春期というのは、個人差があり、小学校5年生くらいの頃から始まる子供もいると、中学2年生でも、
「まだ、身体の初域的に子供だ」
という人もいるだろう。
ただ、
「肉体的な成長と、精神的な成長とに開きがある」
という人は少ないような気がする。
「身体が早熟であれば、精神面も早く大人になっていて、いわゆる、ませた子供といってもいいのではないだろうか?」
それを考えると、
「小学生の頃に感じた。親への反発」
と比較しての、
「早く大人になりたい」
という感覚は、そもそもの感覚が違うものだろう。
「反発というのは、父親に対してのものであり、早くなりたいと思うのは、大人というものに対してのことである」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「自分の子供には、自分と同じ思いをさせたくない」
と思うということは、
「大人になるという楽しみ」
というものよりも、
「父親のようになりたくない」
という思いの方が強く、結局は全体として、
「大人になんかなりたくない」
ということを前面に出すということになるのであろう。
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