第2話 「愛する人が二人もいるなんて贅沢だな」

 兵庫県の南部に位置する加古川市。

 市を横断するように加古川河口は流れており、下流は隣の高砂市に隣接している。聖の一日の仕事はその河川敷沿いを片岡潤之助の乗った車椅子を押して散歩することから始まる。


「深水ね、どこかで聞いた名だなぁ」

 カラカラと車椅子の車輪の音と共に片岡潤之助の小さな呟きが耳に届く。

「それほど珍しい苗字でもないでしょう」

「平凡な苗字ではあるが」

 紗希の苗字「深水」を片岡潤之助が知っていた。過去を多く語らない彼の記憶の地層に響いたことに聖は少し興味がわいた。

「元恋人が深水だったんですかね?」

「となると、聖くんの恋人のお母さん辺りに手を付けていたのかも知れんな」

 くっくっくと片岡潤之助が笑う。

「それはなんか嫌ですね」

「聖くんの恋人ではないだけマシだろう」

「片岡さんって友人や知人の恋人でも関係なく口説きそうですよね」

「昔はな。火遊びなんぞ、痛い目を見る方に進むのが楽しいからな」

「楽しかったですか?」

「退屈しない人生だったよ」

「僕は少し退屈くらいの方が丁度いいです」

 五年前、片岡潤之助は車に轢かれて右足の膝から下を失った。

 彼を狙っての犯行だった。犯人は殺そうと思ってやったと供述した。


「で、その深水さんのところの娘にプロポーズしようとしたら、二人になっていて出来なかったわけだな」

「信じます?」

「我々が認知できない不思議なことは世界に掃いて捨てるほど起きているさ」

「そういうもんですか」

「交通事故に遭うようなものだな。今まで遭っていなかったのは幸運だった、それだけだ」

「片岡さんは遭ったわけですね」

「私の場合は故意な事件だがな」言って片岡潤之助はたばこを咥えた。いつものように火はつけない。「ここで注目すべきは聖くんが遭遇した不思議は事故なのか、事件なのか、だ」

「事故か事件か」

「そうだ。事故なら自然発生的な問題だ。環境と幾つかの偶然の積み重ねで、聖くんの恋人は二人になった。なら別にいい。というか、どうしようもない。受け入れて日々を過ごしていきなさい」

「事件なら?」

「誰かの意思で起こったことになる。意思という引き金は誰が引いたのか。そこを突き止めておかないと事件は繰り返される」

 それに、と片岡潤之助は続ける。「不思議には少々厄介なところがある」

「なんですか?」

「聖くんの恋人が二人になったのは本人の意思かも知れないし周りの意思かも知れない。現状、それは分からないが、誰の意思であっても無意識なら本人に自覚はない」

「自覚がないってことは事故ですか」

「事故に近いが、条件が揃えば聖くんの恋人は分裂を繰り返す」

「分裂……」

「いや、分裂だと言い切るのも早計だがな」


 紗希が二人になったことについて聖は受け止めたつもりだけれど、そこに意思が挟み込むとは考えていなかった。

 もし仮に紗希が二人になりたいと思ったのだとしたら、その理由はなんだろうか。

「聖くんの恋人は、その日にプロポーズされるって分かっていたんだよな」

「明確に言っていたわけじゃありません。ただ、記念日でしたし。デートで指の大きさ測っていたから予感はあったと思います」

「まぁじゃあ一例だが、試したんじゃないか?」

「なにをですか」

「どちらが本当の私か」

「そのために、もう一人の自分を作ったりします?」

「人間の中にある感情や欲望は誰にも測ることはできないからな」

 聖を試すために紗希は分裂したのだろうか。

 だとすれば聖はそれに応えられたとは言い難い。

「あるいは、二人同時に愛してほしかったのかもな」

「それって世間的にアウトじゃありません?」

「そうか? 二人とも同一人物だし、本人たちが納得しているなら世間など些末なことだろ」

「じゃあ片岡さんが同じ状況になったら、そうするんですか」

 片岡潤之助はすぐには答えなかった。


 散歩ルートは折り返し地点に差し掛かった。片岡潤之助が「止めてくれ」と言う。

 聖は言われた通りに止めて、川の水面が見やすいように車椅子を動かした。

「愛する人が二人もいるなんて贅沢だな」

 片岡潤之助が言った。「けれど、失うのは辛いからな。それが二倍だと考えると一層な」

「そうですね」

「火をくれ」

 ポケットからライターを取り出して片岡潤之助が咥えたたばこの先端に火を点けた。

「タバコの一方の先には火が、もう一方には愚か者がいる」

「え?」

「良いことを言うよな。カート・ヴォネガットは」

「ですね」

 聖はカート・ヴォネガットを知らなかったが、頷いておいた。

「どんな愚か者でも大切な人を失った悲しみは変わらない。そして、それは長生きをすれば必ず訪れる」


 ●


 失うことと増えること。

 それは同義と言えないまでも平常でなくなる意味では一緒だった。

 紗希が二人になった。

 一人は実家に帰り一人は普段通り聖との生活を送っている。

 紗希は「私たちがおかしい」と言った。何がおかしいのか。聖は幾度となく考え続けたけれど、答えは出ない。

 聖が答えらしきものに触れたのは、紗希と二人で近所の公園横を歩いた時だった。青く長細いものが落ちていると思い注目すると、青い蛇の抜け殻だった。

 蛇の抜け殻に色が残ると言う話は聞いたことがなかった。


「珍しいね」と聖が言った。

「だね。初めて見た。青い鳥を食べちゃった蛇なのかな」

「青い鳥?」

「幸せの青い鳥」

「あぁ」

 老婆の病気を治すために幸福の青い鳥を探す冒険に出る童話だ。

「聖、知ってる? 世界には青い鳥症候群っていうものがあるんだよ」

「そうなの?」

「うん。実態のない理想ばかり追い求めちゃう人たちのこと」

「夢に夢見る感じだ」

「そんなことしても無意味なのにね」

 聖は紗希の気持ちを図りかねたが、思いつくままに言葉を口にする。

「そういえば、蛇の抜け殻って昔は縁起ものとして扱われてたよね」

 青い鳥を食べて青くなった蛇の抜け殻。それだけで考えると、目の前にある抜け殻は縁起ものに思えてくる。


「せっかくだし、拾って帰ろうか」と聖がかがむ。

 紗希が硬い声で反対した。

「やめよ。拾ったって、どうせ何の意味もないよ」

「それは拾った僕らが意味を見出せば良いんじゃない?」

「そういうものに私を巻き込まないで。もし仮に青い鳥を食べた蛇がいたとしても、抜け殻よりもその蛇の方が大事でしょ」

「確かに、その通りかも知れないね」

 聖は紗希の言い分に納得したわけではなかった。ただ、二人の家に紗希が望まないものは持ち込むべきではない。そう思っただけだった。

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